ザノール来たる(1)
かつて地上に栄えた神聖帝国は、神々によって地上に造られた国だ。
今を遡ること、2400年以上も昔。
神々が支配し、人が直接神々の姿を見て生きていた時代。
神聖帝国こそは世界に絶対の秩序をもたらした国だった。
しかし、国の基盤が安定し、人の手だけで世界を成り立たせることが可能となったとき、役割を終えた神々は人の前から姿を消し、その後の世界は人の手に委ねられた。
今や、人の前に神が姿を現さなくなってから久しい。
1700年にわたって栄えた神聖帝国が滅び、人の手によって新たな国が築かれて後、神の姿を見た者――人間は、絶えていない。
それゆえ、かりそめの神をまつり、架空の神を信じる者も出る。
空想で作り上げた神を主神とし、新しい宗教を立ち上げる者もいる。
理屈ばかりで固めた教理を元に、いもしない救世主の名を唱える者も。
そして、物語から生まれた神を、真実存在するものとして崇め、その名の下に生きて行動する者も。そうした者は、自ら作り出した物語に拠った架空の神託を受け、それに従って行動する。自らの決めた行動を正当化する神の声を作り出し、それを絶対の権威として振る舞うのだ。
そのようなものは人間だけではなかった。亜人の中にも、そういった種族がいた。
幸いなことに、その数は少なく、遭遇することは滅多にない。
しかし、出会えばその凶悪な振る舞いに誰もが戦慄し、恐れを抱く。
ハイエナを思わせる野蛮な顔つきと屈強な体を持ち、直立した狼のような姿の凶暴な種族。ザノールと呼ばれる彼等は、人間だけでなく、他の亜人からも恐れられ、忌み嫌われている。
大抵のザノールは、一所に定住せず、山野を巡って放浪し、人里を襲っては姿をくらます事を繰り返している。襲われた里は、住民の全てが殺され、そのため、彼等の所在を掴むのは難しい。
ザノール達は神託によってその行き場を決めており、次にどこに現れるかを知る術はなかった。
リシフィラにいくつかある広場の中央には、共同の井戸がある。
午前中の早い時間に、ここで水を汲み、衣類を洗うのはマーヤーとフィシスの日課だった。2人の他にも、町で暮らす人々が同じようにして家に水を運び、あるいは服の洗濯をしに来ている。
シーフリートに連れられてリシフィラに来たマーヤーは、フィシスと一緒に、下宿屋に身を落ち着けていた。シーフリートも、別の下宿屋に部屋を取って暮らしている。住まいを別にしたのは、万一、シュタイナー商会の手の者の目に触れた場合のことを考えてのことだった。別々にいれば、どちらか一方――おそらくはシーフリートの方は見つからずに済み、それだけ有利に動けると考えてのことだ。普段、別々に過ごしていれば、シーフリートがマーヤー達と共に行動していることを知られずに済む可能性もなくはない。
「毎日、服を洗うのって、大変じゃない?」
そう訊いたのはフィシスだった。
下宿に住み始めてから、新しい服を買いそろえたり、身の回りの小物が増えたりして、家事の手間が増えている。旅をしている内は、最低限の必需品しか手元になかったが、家に住むようになったことで、自然、物を持つ――置いておく余裕ができ、暮らし方が変わっているのだ。着のみ着のままに等しい旅装と違い、毎日衣服を取り替えられる暮らしは久々のものだった。
「そう? 楽しいじゃない。日々、生活してる、って感じで」
ふうん、とフィシスが首をかしげるのをマーヤーは無視する。
フィシスの「お友達」の手を借りなくとも、井戸の水は真冬でもそれなりに温かく、手を切るような冷たさは感じない。ただ、冷たい風に吹かれなくて済んでいるのは、フィシスがいればこそだ。
中庭に洗濯物を干し終え、部屋に戻れば、次は掃除だ。箒をとり、雑巾を絞って部屋の隅々まできれいにする。
「そんなにしなくても、風や水が手伝ってくれるよ?」
「だめ。ちゃんと自分の手でするの。自分の暮らす場所なんだから」
僧団ではどうだったの、と訊いてみる。
「お友達と一緒になるための練習だったよ」
だから、自分で掃除はしなかった、とフィシスは答えた。
(それが、フィシスの修行…)
師がマーヤーに課したのと同じことだ。いくつかの魔法を覚えたマーヤーは、それを使って家事を効率的にこなす工夫をするよう言いつけられたものだ。…もっとも、幻術を使って掃除を済ませたように見せかけたりすれば、目の玉が飛び出るほど叱られたが。
その一方、週の半分は魔法を使わずに、自分の手で仕事をすることも命じられた。あくまでも、するべきことを理解した上で、それを魔法で置き換えよとの教えだったのだ。
僧団で育ったフィシスは、僧団のやり方でしつけられているのだ、と理解する。が、それをそのまま受け入れるかどうかは別の話だ。
「わたしと一緒に着いて来るなら、わたしのやり方に従ってね」
そう言って、フィシスにも雑巾を渡してやる。一瞬、きょとんとした表情を浮かべたフィシスだが、だまってうなずくと、チェストを――手の届くところだけだが――拭き始める。
「もしかして、これが、マーヤーの憧れてる暮らし?」
そうね、と笑う。
「その一部、かな」
ふうん、と妙な顔でマーヤーの顔を見つめるフィシスを無視して、マーヤーは掃除を続行した。
昼近くなって、マーヤーはフィシスを連れて通りへ出た。下宿は朝と晩の賄いは出るが、昼は特別に――追加の料金を払って頼まない限り、自分で用意するきまりだ。
2人はダルトンの店を訪れていた。この店は、シーフリートが情報を集めに立ち寄る場所でもあり、また、旅の商人達もたくさん訪れることから、噂話を聞くのに持って来いだった。
周りの客の話に耳を傾けながら注文した料理を待っているところへ、勢いよく扉を開けて現れたのはシーフリートだった。そのままつかつかとマーヤー達のところへやってくる。その様子にただならぬものを感じてマーヤーは身構えた。
「ここにいたのだな。フィシスも一緒とは都合が良い」
「何…?」
シュタイナー商会の目がどこにあるかわからないため、下宿の外では極力別にいようという話だったはずだ。ならば、よほどのことがあったのだろうか。
「ザノールを知っているな」
有無を言わさぬ口調に、マーヤーがうなずく。冒険者時代に遭遇したことのある獰猛な亜人――モンスターだ。
「クラッツ商会の荷駄隊が襲われた」
えっ、と思わず声が出る。ザノールに襲われれば悲惨な死が待っているだけ、というのはザノールに遭遇したことのある者――あるいは噂を聞いたことのある者なら誰でも知っていることだ。
「街道での不意打ちだ。1人だけが生き延び、何とかリシフィラまでたどり着いた。今、町の衛兵たちが話を聞いているところだ」
「それって…」
シーフリートがうなずく。
「早晩、ザノール達がやってくる」
1人を逃がしたのは、後を付けるため。シーフリートのその見解にマーヤーも異論はない。
リシフィラの平和もこれまでだ、とシーフリートが言う。衛兵たちだけではザノールの襲撃を食い止めるのは無理だろう、と。
「無論、私たちが何もしなければ、の話だが」
試みるような視線をマーヤーに、そしてフィシスに向ける。かすかにだが、その口元がほころんでいるのを見て、マーヤーが渋面を作る。
「冒険者じゃ、ないんだけど」
「冒険者であろうとなかろうと、自分の命は守るものだ」
そうではないか、と言われれば返す言葉はない。
「2人だけで何とかできる?」
フィシスは置いていく――危ない目に遭わせないつもりでそう言ったマーヤーに、馬鹿な、とシーフリートが応じる。
「ザノールと聞いて領主が何もしないと思うのか? 兵が動くに決まっている。それに乗じて売り込むだけだ。魔法使いの応援は喉から手が出るほど欲しいはずだ」
はあ、とマーヤーがため息をつく。数から外されて口をとがらせているフィシスのことはとりあえず無視する。
「魔法使いってことを宣伝するのね」
「嫌か」
気が乗らないよ、とマーヤーは答えた。魔法使いであっても冒険者になりたくはない。だから、あまり知られたくはない。顔が売れれば、人の目が変わり、事件が向こうからやってくる。
「それなら、ザノールの言葉を知っている、ということで参加すればいい。何かの折に、通訳のできる者が必要になることがあろう。価値は認められるはずだ」
「で、戦いになったら魔法を使え、って?」
「それは、お前の考えることだ」
そう言って、シーフリートはダルトンのところへ行く。
「ザノールの話、聞いているか?」
声を潜めて聞いたシーフリートに、ダルトンは首を振る。
「あんたのほうが耳が早いね。聞こえていたよ」
そう言って、店の中を見回す。
「見なよ、他の連中も気になって仕方がない様子だぜ」
そうか、とシーフリートも周囲を見渡す。ダルトンの言うとおり、店にいた客達の目がシーフリートの方に注がれている。
「あんたの声はでかいからな。内緒にしたけりゃ、もっと気を使いな」
「別に隠すつもりもない。直に知れ渡るはずのことだ。それに知らなければ、その分、命の危険が増える。隠しておくのは罪悪というものだ」
「ああ、違いねえ」
軽く応じたダルトンにシーフリートが言う。
「いずれ、領主が乗り出してくるのは間違いない」
「それは確かだな。ああ、話があったらすぐに知らせよう。いつもの方法でいいんだな?」
「そうだ。頼む」
「だが、ザノールが来る前に領主が動けるかな。領主が動くよりザノールが来る方が早くちゃ、どうにもならないぞ」
「おそらく大丈夫だ。ザノールという奴は、町を襲うときは周到に準備をするからな。リシフィラくらいの大きな町なら、それなりに時間を掛けて下見をするはずだ。野蛮なようでいて、そういうところは知恵の回る奴らだ。危ない橋を渡ったりはしない」
「不意打ちはなし、ってことか。ありがたくって涙が出るね」
「いや、総掛かりで来るのは準備を調えてから、というだけだ。散発的な襲撃は別の話だ」
「つまりは、1人、2人が先にちょっかいを出してくることはあるわけだ。面倒な話だが、まあ、もっともなことだな」
うむ、とうなずくとシーフリートはそのまま店を出て行った。
残された客達が一斉にしゃべり出す。今まで、シーフリートの話に耳をそばだてていたのが、堰を切ったように思い思いのことを言い始める。
ザノールを知らない者は、ザノールがそんな恐ろしいものなのか、と言い、ザノールの名を知る者は、人づてに聞いた噂話を吹聴する。
ザノールは魔神イグノールとアースルフを崇める亜人だ、若い娘を攫って生け贄にするのだ、と言う者。
ザノールは人を襲って、悲鳴を上げるのを見て楽しむために、生きたままむさぼり食うのだ、と言う者。
別のある者は、2本足で立って歩くハイエナのようなその姿を口にする。
ザノールは雌雄同体で、女性を襲いもし、男を拐かしもする、と話す者もいた。
つまりは、誰も実際にザノールを見たことのある者はいないのだ。腕の立つ冒険者でもない限り、ザノールに遭遇すれば、それは直ちに死を意味するからだ。
見れば、いつの間にか、ダルトンも話の輪の中に入って口に泡を飛ばしている。
やれやれ、とため息をつくと、食事は諦めて、マーヤーはフィシスを促して店を出た。




