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フィシスソフィア(2)

 2日、3日とたつうち、サフラスと彼の妻イレーナの看病でマーヤーの傷は少しずつ癒えていった。

 とげで破れた皮膚は、まだ内側に黒ずんだ血が残り、その周囲が白く膨らんで浮き上がっている。

 朝と夕方の2回、焼いた針で塞がりかけた傷口を突き刺し、血と膿を絞り出してから、化膿を押さえて傷の治りを早くするという薬草の汁を染みこませた布を取り替え、傷口に当てる。その繰り返しだった。

 ラルシャからもらったハーブは、まだ残っているが、あえてそれは使わないでいた。

 サフラス夫妻の行う民間療法に興味があったことと、彼等の知らない――このあたりにはない薬草を使うことで、自分の素性――魔法使いであるということを知られるのを避けたかったこと、それに、自分たちでマーヤーの傷を治したいという夫妻の気持ちを大切にしたかったからだ。

 手持ちのハーブを使うより、完治までには時間が掛かるのはわかっていた。夫妻の使うのは身体の持つ治癒力を補って、無理の掛からないようにゆっくりと回復を促す薬草だ、とマーヤーは見立てていた。


 (冒険者じゃない、普通の人が使う薬、だよね…)


 こだわっているわけではないし、効き目のあることをわかった上でのことではある。だが、そういうものにも馴れてみたい、と思うマーヤーだった。


 膿が出なくなり、起き上がって自由に歩けるようになったのは、10日目の朝だった。

 まだ、完全に痛みは取れていないが、家の中でなら自由に動き回ることができる。多少我慢をすれば、このまま旅を続けることも可能だった。

 だが、完全に傷が治りきっていないのを見た夫妻は、まだ養生を続けるように、と言ったのだった。

 折しも、その日、雪が降り始めていた。街道へ出る道は雪に埋まり、傷の治りきらない足では、危ないから、と言うサフラスの言葉に、マーヤーは、天候が回復し、道が通れるようになるまで、彼等の言葉に甘えることにしたのだった。

 その間、他にすることのないこともあって、マーヤーは、イレーナの手伝いをすることにした。

 ヤトラの森で、師と暮らしていたときには家の中のことはすべてマーヤーが(おこな)っていた。それと、師の身の回りの世話も。だから、マーヤーはその気になれば、一流どころのハウスキーパーに引けを取らないくらい上手に家事をこなすことができる。

 いつか、普通の人として暮らせるときが来れば、それは、必ず役立つはずの技能(スキル)だった。

 それを、イレーナの前でマーヤーは遺憾なく発揮して見せた。

 家の中の掃除、洗濯、料理。

 あり合わせの食材も、マーヤーの知るレシピで、サフラスたちが見たこともない山海の珍味となり、木切れや皮の切れ端を使うことで、壊れかけた家具を修繕して見せたり、油や酢、灰などといった身の回りにあるちょっとした素材をを使って衣服の汚れを落とし、また、繕い物や古着の染め直しなどもして見せた。

 その手際の良さに、2人は、只々目を見張るばかりだった。

 そうして何日か一緒に暮らすうち、サフラスたちは、マーヤーに旅をしているわけを尋ねたのだった。

 「あ、いや…話したくないことなら、無理にとは言わんが」

 そうためらいながら訊くサフラスに、マーヤーはありのままを答えた。育ててくれた人が亡くなって、身寄りがなくなったから、と。そして、どこか落ち着いて暮らせるところを探しているのだ、と。

 「そうか、落ち着いて暮らせるところを、か」

 「それにしても、こんな季節になの?」

 イレーナの言うとおりだった。冬は、長旅に向く季節ではない。人々の多くは、もっと季候のいい時を選んで旅をするものだ。もちろん、長期間の旅や、急ぎの旅なら季節などかまっていられない。だが、マーヤーの言うような特段の目的のない旅なら、あえて今の時期に道を行く必要があるとは思えなかったのだ。その疑問に、少しの真実と、いくらかの虚構を混ぜて答える。

 「逃げて来たから。…食べ物がなくなって、村の人たちが殺気立ってたところから」

 「食べ物が? すると、それは…」

 「そう。ルイランの村」

 ああ、とサフラスがうなずく。ここにも噂は聞こえてきていたらしい。だが、村の不穏な空気がマーヤーたちの活躍で払拭されたことまでは伝わってきていないようだった。

 「そうか、それは大変だったろう。…そうか、それで、この季節にあんなところを歩いてきたんだったか」

 サフラスの言葉に、イレーナもうなずく。

 「では、急ぐ旅ではないのですね。…行く当てのある旅でも」

 ええ、とマーヤーはうなずいた。

 「そうか、ならばどうだろう、しばらく、わしらとここに暮らしてみては?」

 「わたしが…?」

 そうさ、とサフラスが言う。

 「わしらは、見ての通りの2人暮らしさ。この(とし)になると、2人きりというのも、だんだん寂しくなるもんだ」

 「他に、身寄りはないの?」

 そう尋ねながら、マーヤーは、悪いことを訊いたかも知れない、と思い直していた。

 「娘は、ずいぶんと遠くの村へ嫁いだんだ。子供も生まれて、幸せにやってるらしい。だが、どうしても、遠すぎる。便りも滅多に届かない」

 ああ、そうなんだ、とマーヤーはうなずく。

 「息子もいた。…だが、8年前に死んだ」

 そういうサフラスの顔につらそうな色が浮かぶ。

 「ちょうど今くらいの時期でした」

 イレーナが言うのに、サフラスが深くうなずいた。

 「山から狼が下りてきたんだ。村へ、餌を探しに、な」

 それに続く言葉は容易に想像できる。

 「狼に襲われて、息子は命を落としたんだ」


 (そうか、それで罠を…)


 「だから、…そうだな、あんたにその気があったら、だが」

 即答しかねているマーヤーを見て、サフラスは言葉を切った。

 「今でなくていい。考えてみてくれんか」

 そういうサフラスに、イレーナも黙ってうなずいた。


 夜中。

 マーヤーは、サフラスたちの提案を考えていた。


 ここであの人たちと一緒に暮らせば、普通の人としての暮らしが手に入るんだ。

 朝起きて、顔を洗って。水汲み、掃除、洗濯、食事の支度。家族との団らん。たわいもない、なんて言うことのない会話。夜になったら、ベッドに入って、朝まで眠る。

 同じような日々の続く、静かで平和な暮らし。

 魅力的な、…なんてすてきな。


 その代わり、魔法は封印することになるけど。アミューセラスの記憶も一緒に。

 でも、それを求めて旅に出たんだよね…。ヤトラの森で、御師様と暮らした小屋を焼いたとき、わたしが願ったはずのこと。…忘れてないよ。

 …でも、できるんだろうか?

 あの人たちに、わたしが魔法使いであることを隠して…隠しきれる? とっさの場合にでも魔法を使ったりしないでいられるの?


 ラルシャのように、魔法を使わずにいられない状況に追い込まれたりしたら?

 山賊のような、外からやってくる危険だけじゃない。

 毎日暮らしの中、事故が起きたら? 風とか水の害や、雪の害。そういったことがあったとき…、魔法を使えばなんとかできる、ってなったとき、魔法を使わずにいられるの?


 どんな場合だって、魔法を使ったら…魔法を使ったら、それであの人たちとの平穏な暮らしはおしまい。

 魔法を使わなかったら…それでも、それまでの暮らしは終わる…、きっと。

 そんな、危なっかしいのが、わたしのほしい、普通の暮らし?


 何度も寝返りを打ちながら、眠れないまま、時間がすぎていく。


 だめだよ。できっこない。

 きっと、魔法を使っちゃう。

 ラルシャの時に決めたじゃない。

 だめだよ、マーヤー。…迷っちゃだめ。


 あの人たちは、わたしと暮らす、って言ってくれる。

 でも、わたしは、もう、選んじゃったんだ。

 ラルシャの時に。

 だから…、平穏な暮らしは、ここでは手に入らない。

 もっと別のところで、誰かの手を借りずに手に入れなきゃだめなんだ。

 あり合わせの…もらい物じゃ、だめなんだ。


 そう思って、目を()けたときだった。

 家の外に、記憶にある気配をマーヤーは感じていた。

 並の人間ではない。――いや、人間ではないのかも知れない?

 眠っているサフラスたちを起こさないよう、そっと服を着てベッドから出る。

 音を立てないよう気をつけて家の外に出たマーヤーは、そこに立つ1人の男の姿を見た。全身を黒いローブで包み、ねじれた形の木の杖を手にした男。

 そして、その傍らに立つ、1人の少女の姿も。

 闇をすかして、かすかにそれとわかる2人の影。


 「マーヤー」

 男の口から自分の名が出るのを聞いて、マーヤーは身構えた。かすれて響くが、よく通る声。耳にではなく、マーヤーの心に直接語りかけてくるようだ。

 「誰?」

 そう口にした瞬間、マーヤーは思い出していた。

 ラムランチュールの神殿。その遺跡で出会った男。従者と名乗った男のことを。再び現れた彼は、今回も同じように名乗った。

 「お前に…いや、あなたに頼みがある」

 気圧(けお)されるような雰囲気は前と変わらない。だが、その態度は前に会ったときよりも穏やかで丁寧だった。

 「わたしに?」

 「この子を頼みたい」

 そう言って、従者は傍らの少女を示した。身長はマーヤーの胸のあたりまでだろうか。せいぜい6~7歳といったところの幼い体型がわかる。

 「あなたと一緒に連れて行っていただきたい」

 「連れて、って…こんな小さな子を?」

 従者はうなずいた。

 「あなたと一緒に旅ができるだけの力はある。足手まといにはならない」

 「わたしは、この家の人に一緒に暮らそう、って言われてるのよ?」

 「知っている。そして、そのつもりはないのも知っている」

 「…なぜ?」

 「あなたのことはわかっている。マーヤー、…イルーシア、そして…」

 従者の口から出た3つ目の名に、マーヤが凍り付く。ヤトラで暮らしていたときに師のくれた名だった。それを彼は口にしたのだ。

 マーヤーは、今の名。イルーシアは冒険者時代の名。そして、今従者の口にした幼少時の名。この3つの名をすべて知っているものはいないはずだ。

 さらに従者は4つめの――マーヤーの本当の名までを口にしようとした。マーヤーすら知らない、生まれたときに親がくれた名前。マーヤーはそれを慌てて遮った。

 「どうしてわたしの名を…」

 「知っているか、というのか? …覚えているのだ。過去からのすべてを」

 アーカシックレコード。その言葉が胸に浮かぶ。では、従者は、ファービュアス同様、転生前の記憶を()っているのだ。

 「わたしが旅を終えたら?」

 「その子といる間には、あなたの旅は終わらない」

 「…それも、覚えていることなの?」

 マーヤーの問いに、従者はうなずいて見せた。

 従者のいうことが本当なら、マーヤーに断る選択肢はない。そうしないことは、もうわかっていることなのだから。

 「…なぜ、わたしにこの子を?」

 「見せたいのだ、この子に。あなたと、あなたの見るものを」

 「どうして?」

 「それを、今は言うことはできない。言えば、見せることの意味がなくなるからだ」

 「今は…、ということはいつかはわかる、ということ?」

 「その通り。いつか、あなたはその意味を知る」

 謎めかした物言い。だが、悪意を持ってぼかしているのでないことは伝わってくる。従者の言うことに偽りはない。それをマーヤーは確信していた。その確信と共に、思い出したことがあった。

 「この子の名は、…フィシスソフィア?」

 ファービュアスから告げられていた名。それを口にしてみる。

 「覚えていたか。ファービュアスに聞いたのだったな」

 従者の答は予想していたものだった。予言されていたことの成就。だから、これは変わることのない未来。そして、すでに起きてしまった過去。

 それを聞いて、マーヤーの心は決まった。

 「いいわ。一緒に行く、この子と」

 「感謝する」

 そう言って、従者は、フィシスソフィアの肩をそっと押した。小さな影がマーヤーの方へやってくる。

 「よろしく、マーヤー」

 見た通りの――年相応のかわいい声。小さいけれど、よく通る澄んだ声だ。

 「こちらこそ、ね、フィシスソフィア。…フィシス、って呼んでもいい?」

 「うん」

 小さな頭をこくりと動かす。

 その仕草を、かわいいな、と思う。

 だが、フィシス。なんと絶妙な名前だろう。異国の言葉で、あるがまま、現れ出たままの本質を意味する言葉だ。実体のない幻を意味するマーヤーとの組み合わせは、実に好対照と言うべきか。それとも、両者が一体となることで示される真理をでも象徴するのだろうか?


 (…何考えてるんだろ、わたし。ただの偶然に決まってるじゃない)


 そう思って、従者に視線を戻す。そんなマーヤーの心を読んだように従者が言う。

 「すべての名には、意味があるものだ。あなたの名に意味があるように、この子の名も、無為につけられたものではない」

 え? とその顔を見つめるマーヤーに、従者が続けた。

 「いつかその意味を知る時が来る。あなたがそれを覚えているかどうかはわからないが」

 そう言うと、そ男の姿がゆらり、と揺れ、そのまま空中に溶け込むように見えなくなる。いつか、遺跡で出会ったときと同じだ。何の気配も感じさせないまま、従者はいずこかへ消え去っていた。


 翌朝。起きてきたサフラスとイレーナに、マーヤーはフィシスソフィアを引き合わせた。

 マーヤーを頼ってやってきた幼い少女。その姿に似合わない、凜とした威厳のようなものを纏った少女。

 どことも知れないところから、夜の内にやってきた彼女が、サフラスたちには尋常でない者と映るのは仕方のないことだ。そして、そんな彼女と旅立たなくてはならない、と告げたマーヤーを、2人はそれ以上引き留めようとはしなかった。

 ここ数日、一緒に仕事をしていて、マーヤーの足が治っているのもわかっている。積もっていた雪も既に溶け、柔らかな日差しの中を、新しい道連れと共に旅立つマーヤーを、夫妻は黙って見送ったのだった。


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