フィシスソフィア(1)
「傷の具合はどうだね」
穏やかな声が尋ねる。ええ、大分…とマーヤーは答えた。
まだ起き上がって歩き回るのは少しきつい。化膿して腫れた足は、時折、ズキンズキンと痛む。だが、そんな様子をおくびにも出さず、マーヤーは微笑んで見せた。
「全く、済まなんだな。まさか、この時期に、あんなところを人が通るとは思ってなかったもんでな」
いいえ、とマーヤーは首を振る。
「どうぞ、気にしないで。…わたしが不覚だったのだから」
実際のところ、あのまま放置されるか、最悪、殺されていても仕方がなかったのだ。
それを助け出して家まで連れてきて介抱してくれた猟師――サフラスと彼は名乗った――には感謝するほかない。
3日前のことだった。
(…まだ、着いてきてる)
ちら、と後ろを見返ったマーヤーは、いくらか離れたところを、自分と同じ方向に歩いてくる3人の男たちの姿を目にしてため息をついていた。もうこれで10日目になる。ルイランを出てから、ずっとマーヤーの後を着いてくる男たち。
素性はわかっている。ルイランの領主、カラウナーの部下たちだ。
ルイランの村で、村を救うためにカラウナーに力を貸したマーヤーは、カラウナーから感謝と敬意を持って送り出されたのだが、それ以来、彼女を見守るよう命じられたカラウナーの部下が付かず離れず着いてきているのだった。
若い娘の1人旅。それも、帝国でも指折りの大物貴族の親族とあれば、カラウナーが気を遣うことに何の不思議もない。たとえ、マーヤーが並外れた技倆の魔法使いであっても、だ。
(わたしが嫌がってる、ってことは承知の上…よね)
だから、彼等は決してマーヤーに近づいてこようとはしない。適当な距離を置いて、マーヤーの後をつけているのでなく、たまたま同じ方向へ行くだけ、といった体を装っている。街道は、他に分かれ道もなく、旅人は、皆、同じ方向に歩くことになる。だから、咎めようとしたところで、言い抜けることは簡単だ。
カラウナーの部下たちは、時折、道ばたに腰を下ろし、何やら語り合いながら時間を潰して、マーヤーとの距離が詰まらないようにしている。かといって、マーヤーが駈け出せば、彼等も適度に歩調を速め、距離が開きすぎないようにしてくる。一本道の街道は見通しがよく、余程離れたところで、マーヤーを見失うことはない。
(無理矢理に追っ払うわけにも、いかないし、ね…)
偶然同じ方向へ行くだけの旅人に、理由もなくいきなり魔法をかけるわけにも行かない。まして、大貴族の名を名乗ったマーヤーが、地方の領主の部下相手に、そんな非常識な真似をすることはできない。相手もそれを承知で着いてきているのだ。
それなら、空に上がるか、あるいは姿を消そうか、とも思うが、それだけで彼等の目をごまかせるかどうかわからない。
マーヤーが魔法の使い手であることを知った上での尾行だ。魔法に対して、それなりの備えがあっても不思議はない。
相手にどんな準備があるかわからないまま、魔法で姿をくらましたつもりになっても、本当にそれが効果があったかどうかの確信が持てないし、もし、魔法が効果がなかったとしても、マーヤーにはそれを知る術がない。
(かといって、このまま着いてきてもらうのも困るんだよね)
放っておけば、マーヤーの同行は逐一カラウナーに知らされるだろう。そして、カラウナーの口から、マーヤーの父――アルトラークス・ゼルフィアの耳に入ることになる。父の名を出した以上、ある程度、覚悟はしていたことだ。
(わたしに感謝する気持ちがあるなら、やめてほしいんだけど…)
思って見ても仕方のないことだ。カラウナーにしてみれば、アルトラークス・ゼルフィアなどという大貴族と繋がりを持てる好機なのだから。それに、カラウナーにしてみれば、マーヤーが父との出会いを望んでいないなど、想像の外に違いない。
だから、カラウナーにしてみれば、忍びの旅を続けていると語ったマーヤーの警護をし、状況をアルトラークス・ゼルフィアに伝えることは、全くの善意なのだ。恩を仇、とまでは言わないまでも、そんなカラウナーの思惑にマーヤーが辟易していることなど思いもよらないだろう。
ファービュアスから自分の出自を聞かされて以来、家族との接触を避けようとしているマーヤーとしては、なんとかしてカラウナーの部下たちの目を逃れたかったのだ。
だから、彼等の意表を突く行動に出ることにした。
ゆっくりと街道脇の森に近づく。その向こうは、山だ。夏や秋なら、木々の実りを求めて旅人が分け入ることもある。しかし、多くの木が葉を落としたこの季節、旅人が山に入ることはまずない。マーヤーは、森へ、そして山の中へと入っていった。
(さ、どうする?)
追ってきた3人を見ながらマーヤーは考える。
(偶然、一緒の方へやってきてます、っていうなら、こんな山の方まで来ないよね? 着いてきたら、もう、その言い訳は使えないよ?)
思った通り、3人はマーヤーの方を見ながら、どうしていいか決めかねている様子だ。今のうちに、距離を開けることにしよう、と、マーヤーはどんどん山の方へと進んでいく。
カラウナーの部下たちの方からは、木々に隠れ、時折現れる姿だけがマーヤーを追う手掛かりだ。追うなら、少しでも早く行かなければ。そう思ってか、3人がマーヤーを追って山の方へやってくる。
(あ、来たね…)
彼等が追ってくるのを確認すると、マーヤーは手近にあった太い木の後ろに隠れた。男たちが何やら言いながら近づいてくるのがわかる。その声を聞きながら、マーヤーは浮遊の魔法で木の幹に沿って、上へと浮かび上がった。同時に不可視の魔法を使って姿を消す。
魔法を使うところは見られていない。魔法を見破る道具があっても、木の後ろに隠れたものにまでは効果がないだろうし、木の裏側へ回って、そこにマーヤーの姿がなくとも、魔法で消えたのか、それとも、先へ行ってしまったのかを見分けることは難しいはずだ。
不可視の魔法を破る術があるにしても、マーヤーのいる場所がわからなければ――魔法の使われている場所がわからなければ、魔法の破りようがない。
(さあ、見つけられるかな?)
姿を消したまま、木の枝に腰を下ろし、やってくる男たちの様子を見る。
このあたりにいたはずだ、いや、いないぞ、と言う声が聞こえる。木の上のマーヤーに気付くどころか、上を見上げようとさえしない。やがて、男たちはどんどん遠ざかっていく。
(ごめんね。…適当なところで、あきらめて帰ってね)
マーヤーの足では、山の方に向かったとして、それほど遠くへ行けるはずがない。そう判断したのだろう。3人は、また、山を下りて街道の方へ向かっていったらしかった。
(さあ、もう、いいかな…)
そう思って、木から下りる。企てがうまくいったことに気を良くし、そのまま山の中へとマーヤーは入っていった。街道へ戻れば、また、彼等に出会う公算が大きかったからだ。
街道からは木に隠れて見えない距離を保ったまま、山裾を大きく回りながら歩いて行く。そのまま数時間も進んだ頃、前方に小さな村が見えてくる。街道からは外れたところにある村のようだった。
(このまま、人里に出られるみたい)
そう安堵したときだった。
いきなり、衝撃を感じる。
枯れ草と土で巧みにカムフラージュされた罠がマーヤーを捕え、それと気付いたのは右足に猛烈な痛みを感じたときだった。
猛獣の牙のような鋭いとげの並んだ半円形の鉄輪。それが2枚、野獣の顎の閉じるようにマーヤーの足をくわえ込み、ふくらはぎに何本ものとげが突き刺さる。
「…っ!」
転びながら、悲鳴を上げるのをなんとかこらえる。罠を仕掛けた何者かに、声を聞かれまい、と、無意識のうちに反応していたのだ。倒れた拍子に杖が手を離れ、転がっていく。
冒険者時代から使っている厚い革のブーツが、とげが食い込むのを多少なりとも防いでくれ、深手には至らない。ブーツには薄い金属板が埋め込んであるからだ。
しかし、その場から動くことができない。罠には太い鎖がつけられ、その先は地面の中に埋め込まれている。
(まずった…)
ダンジョンやその近くでもない、こんな普通の山にこんなものがあると思っていなかったのだ。もちろん、注意を払っていたとしても、マーヤーには仕掛けられた罠を見つける技術はない。だが、そういったところなら、探査の魔法を使っていた。あるいは、冒険者をしていたときなら、仲間の誰かが気付いてくれていただろう。
完全に油断していた。
悔やんでいる暇はない。短剣を取り出し、閉じた2枚の鉄輪の間に差し込んでみる。だが、強力なバネで押しつけてくる鉄輪は、マーヤーの力ではびくともしない。
とげの先が、少しずつ、ブーツを破って食い込んでくる。その先端が少し変色しているのにマーヤーは気付いた。
罠全体はきちんと手入れされているのに、とげの先だけが錆びているのは、何かが塗られているからだ。そう思い至って血の気が引く。何かの薬品――おそらくは毒。
胃のむかつくような感覚を覚え、歯を食い縛りながら、短剣を持つ手に力を込める。だが、苛立つばかりで罠は外れない。
近くにある石を拾い、鉄輪の間に差し入れる。鉄輪がこれ以上閉じるのを防ぎ、何とかこじ開けようとするが、強力な罠は少女の力でどうなるものではない。焦る内に、次第に全身に汗がにじみ、意識が朦朧としてくる。
(こんなところで…、うそ…)
わたしは不死身のはずじゃなかったの? 薄れ行く意識の中でそんなことを思いながら、深い闇の中へマーヤーは落ちていった。
気が付いたとき、マーヤーは小屋の中でベッドに寝かされていた。
心配そうに見つめる顔があった。
「気が付いたようだね」
初老の男だった。日焼けしたがっしりとした体つき。意志の強そうな、それでいて温かみのある瞳。人なつこそうな笑いを浮かべた顔。
「…え?」
なぜ、こんなところにいるのか。目の前の彼は誰なのか?
頭がはっきりしてくるにつれ、少しずつ記憶が戻ってくる。
村に向かって歩いていたとき、道ばたに仕掛けられていた罠に掛かり、そのまま気が遠くなって…。
そこまで思い出して、身体を起こそうとする。瞬間、ズキン、と激しい痛みが襲い、顔をしかめて再び倒れ込む。同時に激しいめまいも覚える。熱もあるようだ。
「まだ寝てなくちゃいかん」
慌てたように男が言う。
「罠に塗ってあった薬が効いてたんだ。あんたは3日も意識不明だったんだ」
「3日も…?」
3日と聞いて、少しも驚いた気がしないのは、まだ頭がぼんやりしているせいか。
「罠の様子を見に行ったんだ。驚いたよ。まさか、人が掛かっているとはな」
では、あの罠はこの人が? そんな思いを見て取ったのか、男が続ける。
「あれは、わしが仕掛けたんだ。この時期になると、山から狼が下りてくるんでな。だから、村の者は、誰もあそこを通らない」
ああ、そうなの、とマーヤーはうなずいた。
よそ者が迷い込んで、土地の者なら誰でも知っていることを知らずに禁を犯した。そういうことなのだ、と。




