飢餓の里(7)
次の2日間、マーヤーはジャネットと宿の部屋で過ごしていた。
ジャネットにされたことを理性は拒否しているが、マーヤーの感情は、そして意識は受け入れていた。いつも彼女と一緒にいるのは好ましく思え、実際、楽しい時間をマーヤーは過ごしていた。
あれからジャネットがマーヤーの身体に触れてくることはなかった。思いを遂げて満足したのか、あるいは、マーヤーが手に入ったと思って安心しきっているのか。それとも、また、別の思惑を抱いているのか。
村人の目に触れるよう、あえて意識しながら、宿で贅沢に過ごしてみせるジャネットは、とても満足げだった。一方、その間にドルマルクとカラウナーは、邪悪な魔法使いの噂を村に広めていく。すべては順調だった。
そして、行動を起こす時が来た。
カラウナーの兵が、宿を取り囲んでいた。アリの這い出る隙間もないほどの包囲。その先頭に立つのは領主カラウナー自身だった。
「出てくるのだ、邪悪なる魔法使いよ。正義の名の下に行う我が裁きを受けよ」
物々しく、芝居がかった言葉が響く。ジャネットを呼び出すため、というよりは村の人々に聞かせるためのものだ。
ゆらり、と空気が揺れて、宿の屋根の上にジャネットの姿が現れる。髪をなびかせ、黒いマントを翻した赤い服の少女。青空を背景に、凜とした表情で居並ぶ兵たちを見下ろしている。
「姿を現わしたか、悪しき魔女め。人々の目の前でいたいけな娘を焼き殺し、冒険者たちの命を奪った極悪非道の者よ」
カラウナーの声は村中に響き、それを聞きつけて人々が集まってくる。
「腹黒き女よ、お前の悪行も今日限りだ。世界を統べる神々よ、ご照覧あれ、今日こそこの悪辣な者を討ち果たしてみせん」
高らかに響くカラウナーの言葉を、ジャネットの高笑いが遮る。
「何を言うかと思えば、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ。あなたたちの実力で、わたしに指一本でも触れることができるのかしら。言葉だけは勇ましいけど、それで一体、何ができるっていうのかしら」
その声を聞き、姿を見た村人たちは、往来の真ん中でエリザを焼き殺し、冒険者たちを皆殺しにしたジャネットの姿を思い出した。情け容赦のない、冷酷な女魔法使い。その姿は、まだ人々の記憶に新しい。
「黙るがいい。今こそお前を成敗してくれる」
カラウナーが合図をすると、兵たちが弓を構え、ジャネットめがけて矢を射かける。それが命中する寸前、ジャネットの姿が消え、少し離れた往来に現れる。
「そんなもので、わたしをどうにかできるとでも? 思い上がった真似は、高くつくわよ」
「何を言うか。邪悪の化身、災いの使いめ。この村に災厄を呼び込んだお前を、許しておくことはできぬのだ。すべての民のため、この地の未来のため、そして我が名誉のためにも、正義の名の下、お前に目にもの見せてくれる」
大仰な言い回しでジャネットを非難しながら、カラウナーは兵たちに指示を出す。剣を抜き、十数人の兵たちが一斉にジャネットに斬りかかる。ジャネットの両手が上がり、虹色の光が現れて、それに触れた兵士達が勢いよく跳ね飛ばされる。
「おおお、何という暴虐な魔法だ。何という恐ろしい力だ。しかし、いい気になるなよ、凶悪なる魔法使いよ。魔法を使うのはお前だけではない。今、それを教えてやるぞ」
カラウナーがそう言うと、その傍らにマーヤーが姿を現わす。いつもの軽装ではなく、黒ローブを身に纏い、フードで顔を隠した、いかにも魔法使い然とした姿だ。手にした杖を振り上げ、ジャネットの方をにらむ。
「あぁら、どこから連れてきたのかしら、そんな魔法使い。冒険者が束になってもかなわないわたしに、たった1人で向かってくるなんて、身の程知らずにもほどがあるわね」
笑いながらそう言ったジャネットだったが、次の瞬間、その表情が凍り付く。マーヤーが、胸の前で両手を合わせるのを目にしたのだ。
「え、ちょ、ちょっと…」
イリュージョン・ブラスターは直接相手を傷つけはしない。相手を脅かし、しばらくの間行動不能に陥らせる魔法だ。その威力をジャネットは何度も目にしている。今ここでそれを受ければ、ジャネットは為す術もなくカラウナーの兵たちに捕らわれてしまう。最初の打ち合わせにはなかったはずのことだ。
「な、何考えてるのよ…」
まさか、わたしを裏切ったりしないでしょうね? そんな思いがよぎり、慌てて、その場から飛び退く。それとほぼ同時に、イリュージョン・ブラスターの銀色の光が、今までジャネットのいた場所を貫いた。
「あ、あっぶなーい…」
直撃を避ければ、光で目をやられることもなく、事前に知っていれば、轟音もそれ以上の害をもたらすことはない。むしろ、被害を被ったのはカラウナーの部下の兵たちと、集まってきていた村人たちだった。それを見たジャネットは、なるほど、と納得する。
「そう、っか。カラウナーの兵たちが追ってこれなくする、ってわけか、さすがマーヤーだわ」
ジャネットを追おうとしたマーヤーは、ジャネットの指先から飛んできた電光を、杖で払いのける。ジャネットがマーヤーに対して使うのは、幻術だけ、と決めてある。それをジャネットはきちんと守っていた。それでなければ、正面からまともにぶつかってはマーヤーの魔法ではジャネットに敵わない。それほどまでジャネットの能力は優れていた。
2人の戦いに手を出せる者は誰もいなかった。ジャネットとマーヤーは、できるだけ派手に見える術――人目を引く幻術を使って互いに攻撃し合い、しかし、実際には何のダメージもないまま、少しずつ、村の外れへと移動していく。イリュージョン・ブラスターの被害を受けなかったわずかの村人だけが、それを追ってやってくる。
予定では、このまま、ジャネットが村から逃げ出し、それを追ってマーヤーも村から出て行くことになっていた。
「さあ、そろそろ潮時よ…」
そうジャネットが合図してくる。後は姿を消せば、村人やカラウナーたちには追うことはできなくなる。マーヤーが不可視の魔法をかけさえすれば。
しかし、マーヤーがかけたのは、不可視の魔法ではなかった。2発目のイリュージョン・ブラスターがジャネットを襲う。それを避けられたのは、ジャネットの冒険者としての勘だった。ジャネットの顔に、驚愕と、そして少し遅れて、怒り、そして悲しみが浮かぶ。
「マーヤー、本当に…本気でわたしを討つつもりなのね」
唖然としてジャネットがそう言った。
「ええ。…あなたとは、ここまで」
マーヤーは、静かにそう言い放った。
「どうして? なぜなの、一緒に行くはずじゃなかったの?」
その問いに、答える言葉はない。沈黙と、冷たい視線だけが返ってくる。
「マーヤーの…、う…」
ジャネットの顔が苦しげにゆがむ
「裏切者…」
やっとの思いでそれだけの言葉を絞り出すジャネットに、マーヤーは、しばし、目を伏せ、何も言わない。が、再び目を上げてジャネットを見る。
「言わなかったわね。ツイン・ルームの魔法、あれは、人の本当の姿を暴き出す魔法でもあるの。それから、ジャネットがわたしに掛けた呪術。…あれは、ずいぶん強力だったね」
口調に避難の色はない。むしろ、とても優しくさえある。だが、呪術、と言うその言葉を聞いてジャネットが色を失う。
「解けなかったよ、あの術」
かすかに笑いながら言うマーヤーに、え、とジャネットが目を丸くする。
「うん、今も解けてない。…でもね、解かなくても効果は消せるの。他の魔法と同じ。別の魔法で上書きするだけ」
「…そうか、マーヤーは天才だったのを忘れてた」
そう言って、ジャネットはかすかに嗤う。呪術でならマーヤーをつなぎ止められると思ったのが間違いだった、と悟った顔だった。
「ジャネットは、本当に才能がある。それは認める」
感情の消えた顔でマーヤーが言う。
「冒険者として優れたあなたの資質。本当に得がたい才能。天才と言っていい。…でも、それは、わたしには一緒になれないものなの」
マーヤーの目は、油断なく周囲に注がれている。村人達は、まだ、近くに来ていない。
「あなたは、いけない人間じゃない。それはわかってる。…けど、わたしには釣り合わない」
マーヤーの言葉をジャネットは黙って聞くばかりだ。
「善悪じゃないよ? …感性なの」
わかるよね、とマーヤーが目で語りかける。ジャネットは、黙ってうなずいた。
「だから、心配しないで? 殺したりしない。苦しまないようにしてあげる」
「マーヤー…」
泣きそうな顔で、ジャネットが言葉を絞り出す。
「愛してるのよ、マーヤー。本当に、あなたのことを」
そう言った途端、ジャネットの目に光るものが浮かぶのをマーヤーは見た。一瞬、マーヤの目が閉じられ、そして、再び目を見開くと、その視線が強くジャネットに注がれる。
「愛することは執着することじゃないのよ、ジャネット」
そう言いながら、マーヤーは魔法の用意を調えていた。精神だけを深く集中し、呪文の詠唱も、手の動きも使わない。だから、ジャネットは自分に魔法がかけられたことに気付かなかった。いきなり強力な眠気に襲われ、そのまま意識が薄れていく。
「眠りなさい、ジャネット。眠って、何もかも忘れてしまうの」
マーヤーの言葉は、既にジャネットの耳には届かない。
「わたしのことも。わたしと一緒にいた日のことも」
そう言うと、マーヤーはさびしそうに頭を振った。
「さようなら、ジャネット」
そう言って、そっと息を吐く。そして、静かにまぶたを閉じてうつむく。
「…嫌いじゃなかったよ、ジャネットのこと」
そっとつぶやいたマーヤーの声を聞く者は誰もいなかった。地面に横たわるジャネットの寝顔を、マーヤーは悲しげに見つめる。
そのとき、2人を追ってやってきた村人の声が聞こえてくる。マーヤーの前に倒れているジャネットを見つけたのだろう、興奮した声が響いてくる。
それを聞いたマーヤーは、呪文の詠唱を始めた。
今まで使ったことのない魔法。知ってはいるが、使おうとしなかった術。それは、人を願った場所へ転移させる魔法だった。
近寄ってくる村人の前で、ジャネットの姿がゆらり、と揺らめき、そして消えた。
ミュロン。マーヤーとジャネットが出会い、一緒に旅を始めた街。2人で過ごした思い出の街。2人だけの思い出の中へ、ジャネットは送り出されていた。
ルイランの村に災厄をもたらした魔法使いは、カラウナーと、カラウナーの呼び寄せた魔法使いによって倒された。その知らせは村中に広まった。これで、村を襲った災厄は終わりを告げるのだ、と、カラウナーは宣言した。あと少し待てば、食料も届けられ、また、前と同じ平穏な日々が戻ってくるのだ。ドルマルクが、取引の証文を出してカラウナーの言葉を裏付け、人々の心から不安を払拭すると、村に立ちこめていた不穏な空気はたちまち薄れていった。
そんな様子を見て、マーヤーは1人、ルイランを後にした。
冷たい風の吹く日だったが、寒さを気にしないマーヤーにとって、気持ちのよい旅立ちの日だった。いつものように、傍らに目をやったマーヤーは、そこに、もう道連れのいないことに気づき、ふ、と軽く息をつくと、再び前を向いて歩き始めたのだった。




