二つ部屋(3)
「危ない!」
その声に顔を上げる。はっとする間もなく、マーヤーのすぐ側を1本の槍がかすめて飛んだ。槍の飛んできた方を見ると、広い範囲で草が大きく揺れ、何者かが近づいてくるのだとわかる。
「黙って見てちゃ、やられっぱなしじゃない。遠慮なんかしてられないから!」
たちまち、目の前の草が燃え上がる。青々としたはずの草が、まるで枯れ草のように勢いよく火の粉を舞い上げて巨大な炎に包まれる。炎は、2人を離れ、草原に隠れてやってこようとしている何者かの方へと広がっていく。
「派手な魔法ね」
「何言ってるの、幻影よ?」
ジャネットの行ったとおり、炎は魔法で作り出された幻影だった。が、草の中に隠れる相手はそうは思わず、たちまち、炎から逃げ出すように、数人の男たちが姿を現わした。
背丈はマーヤーよりも幾分低めだろうか。青緑の、まるで藻のような色の肌。金色の縮れ毛がまるでクッションのような丸い形になった髪型。動物か何かの角のようなものを左右の鼻の穴に通し、首には骨でできたらしい首飾り。それには、人の頭蓋骨が下がっている。手には、先に石の穂先をつけた槍と身の丈よりも大きな盾。草の上に現れた裸の上半身は、鍛え抜かれた戦士のそれだ。
「姿が見えたら、こっちのもの、と!」
ジャネットの指が素早く動いて、空中に図形らしきものを描く。次の瞬間、ジャネットの指先から銀色の稲妻が飛び出して戦士たちの胸を貫く。パン! という軽い音がしたと思うと、稲妻を受けた戦士が眼球を飛び出させてその場に倒れる。すべての戦士が倒されるまでに1分とかからない。
「それは幻覚…じゃないよね?」
「もちよ。やられる前にやらなくちゃ」
「何も、殺さなくたって…」
そういうマーヤーに、ジャネットは鼻で笑って見せた。
「先に襲ってきたのはこいつらの方よ? それに、殺さずに済む相手かどうか、見極めてる余裕なんてなかったから」
さも当然そうに言うジャネットに、マーヤーは何も言い返せなかった。
「これ以上、長居は無用だわ。戻りましょ?」
言うとジャネットは先に立って扉を開く。扉の向こうは、先ほどの礼拝堂ではなく、小高い丘の上。遠くに夕日が沈みかけ、空は真っ赤に染まっている。
「戻る、っていうのは無理みたいね」
マーヤーの言葉に、ジャネットはうなずくほかない。
「扉を開けるたびに、また違ったところへ、か。本当に、なんて魔法なのよ、まったく、もう」
丘の上、その中央にはV字型に組まれた木製の柱が立っていて、その先端は大きくカーブして交わり、X字を描いている。人の目か、あるいは魚を模したような、高さ3メートルはあるその柱に、1人の男が縛り付けられているのが見える。
マーヤーたちの方からは、影になっていて顔はよく見えないが、まだ若い――青年のようだ。夕日を浴びてその全身が金色に輝いて見える。
黒い鎧を着込み、槍と盾で武装した6人の兵士たちが柱を取り囲み、近づく者を威嚇するようにゆっくりと柱の周りを巡っている。
よく見れば、青年は柱に縛り付けられているのではない。真鍮でできた太い釘で、手首と臑を打ち付けられ、さらに、腹にも数本の釘が刺さっている。傷口からは止め処もなく血が流れ、放っておけば、いずれ青年の命が消えるのは間違いない。
「…死刑?」
身体を柱に打ち付けられたまま、死ぬまでそうしておかれるのだ。周囲を兵士達が守っているのは、私刑ではなく、正式な――法に基づいて執行される処刑だからだろう。
「助けよう?」
そう言って、前に出ようとしたジャネットをマーヤーは引き留めた。罪人の処刑を邪魔すれば、罪に問われるのはジャネットの方だ。それに、既に手遅れだ、とマーヤーは思った。流れている血の量から見て、今、柱から下ろしたところで青年の命は助からないのは明らかだ。
「これは、この世界の正義だから。外から来たわたしたちが勝手に手を出しては、だめ」
そう言って首を振るマーヤーに、ジャネットも渋々従う。
やがて、地平線に夕日が消えようとする瞬間、それまでぐったりとしていた青年が、急に頭を上げ、大声で一言叫んだ。それは、マーヤーもジャネットも知らない言葉だった。そして、それを最後に、青年の全身から力が抜け、数回けいれんした後、ぴくりとも動かなくなる。
「死んだんだ…」
青年の最期を見届けたことで役目を終えたのか、兵士達が柱の周りから去り、丘を降りていく。空に一番星が輝き、ゆっくりと宵闇があたりを包み始める。
「あんなふうに殺されるなんて、一体、何したんだろ…?」
「さあ? きっと、王様か何かに逆らったか…あるいは成り代わろうとしたとか? 普通の盗賊とかだったら、もっとあっさりと殺すよね? 兵士達がずっと守ってたし」
「つまり、反逆者…?」
そうマーヤーが言ったときだった。」
「そうではない」
ゆっくりとした低い声がした。振り返ると、そこに、あの青年が立っていた。つい今し方、柱の上で息絶えたはずの青年が。両手と両足の、赤黒く固まった血が、あの青年本人であることを示している。
「え、生きてる…?」
そう言ってジャネットが見上げた柱の上には、釘で打ち付けられていたはずの青年の姿はない。
「確かに死んだ。だが、死はわずかなときの仮初めの在りようでしかない。時が過ぎれば、また生がある」
「生まれ変わりでしょ、それは。あんたのは復活じゃない。…ああ、わかった、蘇生の魔法ね。だから死んでも生き返ったんだわ」
「魔法ではない。が、それはどうでもよいことだ」
表情を変えずに青年は言う。
「私は救おうとしたのだ。すべての人々を、神の下すであろう罰から」
「神、って誰よ? ゼフューダ? それとも創世主?」
「神は神、この世界に唯一の神だ。人の行いに応じて、死後に裁きを下す神。永遠の命と永遠の死を司る神だ」
「死後の裁き?」
「そうだ、人は生きるために罪を犯す。人だけではなく、罪を犯さずには、どんなものも生きられない。しかし、その罪を神は嘆き、怒り、そして贖いを求め給う。その神の裁きから、私は、人を救いたいのだ」
(あ、これ、聞いてちゃいけないやつだ…!)
なおも青年の言葉に耳を傾けるジャネットの手を引っ張ると、マーヤーは扉の方へ駈けだしていた。
「行くよ、ジャネット!」
「な、何よ、どうしたの、マーヤー?」
わけがわからないまま、マーヤーの後をついてジャネットは扉をくぐる。振り返るゆとりもないまま、2人は、次の部屋に入っていた。
ようやく一息ついたジャネットがマーヤーに食ってかかるように言う。
「一体どうしたって言うのよ、いきなり駆け出したりして」
「あの人の話は、聞いてちゃだめ」
「え? どういうこと」
ナプルの里で人々を魅了し、また恐れさせていた救世主教。善悪の単純な、しかし強力な呪縛で人々を虜にし、心を支配しようとしていた新興宗教。復活した青年の口から出たのは、その教理だったのだ。
ありもしない永遠の生命と永劫の責め苦の二択を人々に強い、人の心を縛り上げて奴隷にする教団。人の生きるための営みをすべて悪であると教え、死後に待つ地獄の恐怖で服従させようとする教え。
「もしかしたら、あの人が開祖…なのかも」
へ? とジャネットの目が点になる。もちろん、そんなことがあるわけがない。ここは、マーヤーの魔法が作り出した幻の中のはずなのだから。
そう思って辺りを見回すと、そこは、崩れかけたレンガ造りの部屋の中だった。表面の漆喰が剥がれてむき出しになったレンガは、砂埃で白っぽく汚れて見える。欠けたレンガの粉が飛び散り、ホコリと混じり合って薄茶色に床を覆っている。長い年月を経て、風化しボロボロになった壁の中に、今通ってきた扉だけが、真新しく見え、不釣り合いだった。黄色っぽい、一枚板の扉だ。
原形をとどめていない壁の向こうに、痩せさらばえた数人の人影が見える。半裸の身体に、黄ばんだ、破れたぼろ布を纏って、曲がった腰を揺らし、覚束ない、重い足取りで当てもなく歩き回る者達。その内の1人がマーヤーたちの方に目を向ける。生気のない顔に、落ちくぼんだ目だけがギラギラと燃えるように輝いている。
う、とその目を見たジャネットが顔をしかめ、口からかすかな声が漏れる。それを聞きつけてか、他の者達の目もジャネットの方を向く。
呻くような、歌うような、言葉かどうかわからないまるで詠唱のような声。低い声を出しながら、上に向けた手のひらを前に突き出して、彼等はゆっくりとジャネットとマーヤーのいる方へと歩いてくる。
その様を見て、ジャネットの顔が引きつる。
「嫌、…来ないで!」
半ば無意識だったに違いない。ジャネットの手から銀色の稲妻が飛び出し、やってくる人々を次々と吹き飛ばす。ジャネットの魔法を受けた者は、そのまま身体をくの字に折ると、倒れて動かなくなる。
「ジャネット!」
驚いたマーヤーが止めようとしたときには、既に立っている者は1人もいない。目にもとまらぬ程の、ジャネットの早業だった。
「なんてことするのよ…」
「だって、近寄ってこられたら、何されるかわからないじゃない。こんなふうに、手を突き出したりして…人の姿をしてて、実はモンスターだったなんてことになったら洒落じゃ済まないわ。とにかく油断大敵。今は冒険の真っ最中よ」
半ばヒステリックに叫ぶジャネットを見て、マーヤーはため息をついた。
(こんなことなら、さっきの丘で、救世主教の教理をもう少し聞かせておけばよかったかな…)
そうすれば、もしかしたらジャネットの行動も改まったかも知れない。ふとそんなことを思ってしまう。もっとも、そこまで教理に染まってしまえば、また、別の意味でやっかいなことになるのはわかっているのだが。
「済んだことは仕方ない、か…」
そうつぶやいて、また、扉の方を見る。いずれにしても、相手は所詮幻なのだ。どれだけリアルに感じられても、ツイン・ルームの魔法が作り出した仮初めの存在に違いないのだ。そして、そういった者達から完全に解放されるには、魔法が解けるまで、扉の向こうとこちら側を行ったり来たりするほかはない。魔法を掛けたマーヤーまでが幻の中にいる以上、自分で魔法を解くこともできない。
魔法から抜け出す方法はある――あったはずだ。が、この魔法の中に取り込まれた今は、マーヤーでさえもそれを思い出すことができない。これも、この魔法の威力の1つだ。
ならば、くよくよ考えていていも仕方がない。
(さあ、次は、どんなところへ出るのかな…)
そう思いながら、半ば諦め、半ば期待を込めて、ゆっくりとマーヤーは扉を押し開けた。




