燃える炎(1)
マーヤーとジャネットはペフリアで宿を取っていた、
本当はそんな予定ではなかったのだが、ネイノスと戦ったときの、あの感触、心の奥深くへ潜り込んだときのあの感覚が、マーヤーには忘れられなかった。
このまま旅立ってしまえば、おそらく、ゆっくりした時間は取れず、いきおい、その記憶も薄れていってしまうかも知れない。
そうならないうちに、もう一度、あの感覚を味わい、記憶を確かにしておきたかった。
そんな思いを告げられたジャネットは、よく意味がわからないまでも、二つ返事でこの村に留まることを了承したのだった。
滞在中は、魔法の探求に集中したい。そう思ったマーヤーは、5人分の料金を払って、普通なら5人が泊まる部屋を貸し切りにしてもらった。
村に2つある宿屋のうち、大きい方の宿で部屋を取ったのは、もう1件の宿では融通を利かせてくれなかったからだ。部屋数も多く、人の出入りの多い宿で集中するため、ジャネットが静寂の魔法を使って邪魔な音を遮り、マーヤーが集中しやすくしてくれる。
「ねえ、いったいどんな魔法を考えてるの?」
時折、瞑想から覚めてリラックスしたマーヤーにジャネットが尋ねてくる。
「うん…、ごめん、自分でもよくわかってない」
「何それ。つまり、全くの手探り、ってこと? あの化け物をやっつけたときに使った魔法なんじゃなかったの?」
「ああ、あれとは…ちょっと、違う」
「なんか要領得ないなあ、…って、マーヤーにもわかってないんじゃ、仕方ない、っか」
そう言って納得したような顔でジャネットが肩をすくめる。
「でもでも、さ、一体あの化け物やっつけた魔法、って、どんなだったの? 浮遊の魔法、って言ってたけど、違うわよね。それだったら、わざわざここに泊まる必要なんてないもんね?」
「ん、浮遊じゃない。浮遊は止めに使っただけ」
「そうよね。じゃ、一体何だったの?」
「はっきりと思い出せない。…でも、相手を今までと違った状態にした気がする」
「違った? どんなふうに?」
そう訊かれて、マーヤーは口ごもる。別に隠したいわけではない。ただ、感じたことをうまく言葉にできないだけだ
「ジャネットは、…今のジャネットは昨日のジャネットと同じジャネット?」
「へ?」
ジャネットの目が丸くなる。マーヤーが何を言いたいのかわからない。そんな顔だ。
「そりゃ…昨日のわたしが今日のわたし、って、何よ、わたしが何人もいるわけないじゃない。わたしはわたしよ?」
いらだったようなジャネットの声に、マーヤーの口元に小さな笑みが出る。
「うん、そうね」
「そんなわかりきったこと、って…、もしかして、頭でも打って、記憶をなくしたら、とか、そんな話でもしたい? 髪を切って、見かけが変わったら、別のわたしだ、とか、そんなこと考えてる?」
「賢いな、さすがだわ」
「ちょっと、それ、からかってる?」
そう言われてマーヤーは首を振る。
「真面目な話」
真顔で言われ、ジャネットの顔から笑いが消える。あっけにとられたジャネットにマーヤーが言葉を続ける。
「何かあれば、昨日のジャネットと今日のジャネットは違うジャネット」
「ああ、そりゃ、そうかもね。そんなこと言ったら、今日の私は昨日のわたしより、1日分だけ年取ってるわよ。だから昨日のわたしは今日のわたしじゃない、って、そりゃ、ま、言えないことはないけれど?」
「そう。誰でも、どんなものでも、少しずつ変わる」
「ああ、確かにね。そういう意味なら、変わるわよ」
「でも、どんなふうに変わるか、は、わからない」
「そりゃそうよ。何が起きるかわからないんだから」
「それを…、思うように変えられたら」
「え?」
「自分が、他の誰かが、どんなものもが、この先どんなふうに変わるのか、自由に決めることができたら」
「え、ちょ、ちょっと、マーヤー、一体何考えてるの?」
「どんなふうに変わるかを自由に決める――自由に変える魔法」
「ま、待ってよマーヤー、わたし、ついて行けないわ」
ふう、と、マーヤーが息をつく。いつの間にか興奮して言葉が先走っていた。無意識のうちにトランス状態に入っていたかも知れない。そう気が付いて、力を抜く。
「つまりね、そういうこと」
ゆっくりと言ったマーヤーの声を聞いて、ジャネットの顔が心持ち青くなっている。少しずつ、思考がマーヤーの言葉に追いついてきている。
「…ねえ、それがあの化け物をやっつけた魔法?」
「そう…かも知れない。とにかく夢中だったら、よく思い出せない」
「夢中、って、精神集中してたんでしょ? それを覚えてない?」
「うん、意識の上で考えたことじゃなかった気がする。終わったら、何にも覚えてなくって、ただ、相手が倒せるようになった、って確信だけがあった」
「つまり、高いところから落ちても平気だった化け物が、いつの間にか落ちたら死ぬようになってた、って話?」
「そう…だと思う」
「なんなのよ、それ!」
思わず上げた大声に、ジャネット自身がびっくりして口を押さえる。慌てたマーヤーが。口先に人差し指を立ててしー。しー、と語気を強くする。
「一体、どんな魔法なの。そんなの聞いたこともないわ」
「幻術、だと思う」
「幻術? …それが?」
「うん。だから、使えたと思う」
「いくら何でもそれはないんじゃない? 幻術で、どうして、不死身の化け物が不死身でなくなるのよ。幻術、ってのは、マーヤーも知ってるとおり、相手の心や感覚に働く術よ? 体や物をどうこうできるようなものじゃないはずでしょ」
ジャネットの言葉に、マーヤーはうなずく。
「わからない。…だから、考えてるの」
そう言って目を伏せるマーヤーに、ジャネットはそれ以上問いかける言葉を持たなかった。
少し休んで、またマーヤーが深い精神の統一に入る。ベッドに転がってそれを見つめるジャネットには、マーヤーが別のもののように見えていた。
「心を病んだりしないでよ…?」
そうつぶやくジャネットの言葉もマーヤーの耳には届かない。
夜。1日のほとんどを瞑想に費やしたマーヤーは、身体よりも心の疲れでぐったりとしていて、食事もそこそこに、ベッドに入って服を脱ぐとすぐに寝息を立て始めた。
同じような生活がもう3日も続いていた。
そんなマーヤーをあきれたように見やると、ジャネットも服を脱いでベッドに入った。
夜中、ふいに目が覚める。
(身体が動かない…?)
昼間の疲れだろうか? そう思ってあたりに注意を払ったマーヤーは隣で寝ているジャネットに気付く。
(違う、抱き着かれてるんだ)
ジャネットだ。マーヤーの横に寝ている彼女が、マーヤーの首を抱いている。
(な、何をしてるの…?)
焦って叫ぼうとするが、声にならない。いや、口がうまく動かせない。返事の代わりに、かすかな含み笑いが聞こえる。そのままジャネットの身体がマーヤーの方へ動いて来、マーヤーの上に覆いかぶさった。互いの頬が触れる。思わず押しのけようとするが、手が動かない。金縛り…いや、この感覚には覚えがある。
(魔法を…かけられた?)
おそらく眠っているうちに。相手が眠っていれば、たいていの魔法は無条件に成功する。かけられたのは、麻痺魔法。マーヤーには使えないが、師は使いこなしていた魔法。修業時代、いろいろな魔法の効果を体験し、知っておくために師がかけてくれたことがある魔法だ。今のマーヤーは、人形と同じ。ジャネットのなすがままになるしかない。
「マーヤー…」
囁くような声がする。そのまま、ジャネットの頭が枕の上で、マーヤーと並ぶ。そして、静かに目を閉じると、やがて、寝息が聞こえてくる。
(お、重いよ…)
大柄なジャネットは、マーヤーより体重がある。そんな彼女の身体が上に乗っていては眠れない。
それだけではない。
(こんなふうに、思い通りにされて…)
ジャネットの仕業を、否応なく受け入れさせられて。彼女に従属させられて。…このまま許容し続ければ、少しずつではあるものの、彼女の考えを、行動を受け入れ、彼女に従わされることになる。
(それは、いや!)
身体の自由はきかないが、それでも魔法は使える。詠唱も、印契を結ぶ必要もなく、念ずるだけ、意識の集中だけで発動できる魔法はいくらもある。
(浮き上がれ…)
ゆっくりと、音もなくマーヤーの身体がベッドから離れ、空中に上がり始める。上に乗っていたジャネットの身体がバランスを崩して、ベッドの上に転がり落ちた。わら布団はマーヤーの身体を包んだまま、マーヤーと一緒に宙に浮いている。悪いが、ジャネットには朝まで布団なしでいてもらおう。
(勝手に人に魔法なんかかけた罰よ? …風邪、ひかないでね?)
そう思いもするが、しばらくして思い直し、浮遊の魔法を解いてベッドに戻る。布団はジャネットに譲り、自分はベッドから出る。麻痺の魔法はいつの間にか効果を失っている。きっと、本気でかけたわけではなかったのだ、と思う。
(眼が、覚めちゃったよ…)
冬の夜の寒さが身体に染みてくる。服を着ると、そのまま床に置いたクッションの上に座り、心を静め、呼吸を整えていく。吐く息と吸う息のインターバルが長くなり、次第にゆっくりと、静かになっていく。意識が静まるにつれて、寒さを感じなくなっていく。
寒さだけではない。風の音や、どこかから聞こえてくる、何かがぶつかるような音、遠くで話している誰かの声。そういった雑音が次第に遠ざかり、意識から消えていく。軽く閉じた目には、何も映らない。
何も見えず、聞こえず、感じない。そう思う心さえ認識しなくなり、マーヤーの心は、深い奥へと潜っていく。
瞑想に入っていたマーヤーは、夜が明けたのにも気付かなかった。
瞑想から覚めたマーヤーは、あきれたように見つめているジャネットと対面した。
「あきれたわね、いつの間にかベッドからいなくなったと思ってたら、こんなことだなんて」
ため息交じりに言うジャネットに、マーヤーは昨夜の魔法のことを訊いてみる。
「麻痺の術? やだなあ、そんなことするわけないじゃない。疲れてそうだから、よく眠れるおまじないをしただけよ?」
「おまじない?」
「そうよ。第一、わたしが本気で麻痺の術かけてたら、マーヤーは、今だって痺れたままだわよ」
わたしの魔法を甘く見ないでよね、とキスを投げながら言うジャネットに、マーヤーは肩の力を抜いて微笑んでみせる。確かに彼女の言う通りかも知れない。
「でも、いいなあ、そんなふうにマーヤーを捕まえられちゃったら」
にっこりと微笑んだジャネットがそうつぶやいたのはマーヤーの耳には入らない。
「だけど、ジャネット…」
わたしを抱き枕にしてなかった? そう口にしかけた言葉が途中で止まる。
あれは本当にあったことだろうか。マーヤーの見た夢? でなければ、ジャネットの夢がマーヤーの意識に入り込んできた?
そんなはずはない、と思いもするが、ここ数日のマーヤーは、瞑想で自分の心を――普通なら感じないはずの深い心を見つめる練習をしている。もしかしたら、自分で知らないうちに、人の心にまで触れてしまっているかも知れない。
「だけど…、って、なあに?」
だから、それ以上訊けなかった。どこまでが意識の上で――目覚めた心で感じたことで、どこからが無意識のうちに感じたことなのか。マーヤー自身、わからなかった。
「…ごめん、なんでもない」
「変なマーヤー。…ねえ、少し、根、詰めすぎなんじゃない?」




