やっかいな挑戦者(2)
(いけない、本気出さないと殺される…!)
もう一度、ネイノスが飛びかかってくる。家の屋根よりも高いところに浮いているマーヤーよりも、ネイノスは高くジャンプした。
「魔法使い、降りてこい」
ネイノスの声を無視して、マーヤーはさらに高く上ると、自分の姿をいくつも幻で作り出す。ネイノスには、いきなりマーヤーが10人にも増えたように見えたはずだ。しかし、次にジャンプしたネイノスは、正確に本物のマーヤーを狙っていた。
(分身にごまかされない? …こいつ、って、獣並み?)
幻が見えていないはずはない。さっき、穴をよじ登ってきたときの様子から、それは間違いない。その上で、なぜか、ネイノスは本物と幻を見分けているのだ。
ならば、どうする。
視界を奪うか。何も聞こえず、においも感じなくするか。普通の相手なら、それで十分混乱させることができる。しかし、この化け物にそれが通じるか?
(迷ってても仕方ない、…やってみる!)
視覚を遮る幻覚。これを掛けられたものは、目の前に濃いグレーの幕を張られたようになり、通常の視界を遮られる。マーヤーはネイノスにそれを掛けた。だが、ネイノスは一向に動じる様子はない。次のジャンプも、正確にマーヤーのいる位置を狙っていた。
聴覚を、嗅覚を次々と遮っていく。だが、それでもネイノスを止めることはできない。
(なんて奴よ、もう!)
五感に訴えるタイプの幻覚は通用しないのだ、と悟る。まるで、アンデッドを相手にしてでもいるようだ。死んでいて、肉体の器官が機能していないアンデッドには、五感を偽る幻覚は通用しない。ネイノスは、まさにそんな相手のようだ。アンデッドではないが、アンデッドと同じように五感に頼らずに、外界を認識する能力を身につけているのだ。そうマーヤーは思った。
(それなら、心を直接叩くしか…)
感情に――偽りの感情を抱かせる幻覚。恐怖を、戦慄を覚えさせる魔法。アンデッドではない、心を――感情を持った相手になら効果のあるはずの魔法。人なら誰しも心の中になにがしかの恐れの対象を持つもの。過去の不快な体験や、知り得ぬものへの畏敬。そういった本人すら忘れている記憶を呼び覚まし、それに根付いた恐怖を呼び覚ます術。
まっすぐマーヤーの方へ向かっていたネイノスの足が、びくり、と震える。歩みが止まり、数歩後ずさる。
(効果…あった?)
だが、それも一瞬のことだった。再びネイノスはマーヤーの方へとやってくる。感情を抑える術を心得ているのだろうか。それとも、恐怖に打ち勝つ程の意志力を――精神力を持っているのだろうか。
ならば、と眠りをもたらす魔法を掛けてみる。意識を介してではなく、直接頭脳に、精神に働く魔法なら効果があるはず。その期待通り、魔法を受けたネイノスの動きが、一瞬止まる。そして、がくり、と膝を突くとその場に倒れる。
だが、この後どうする?
動きを止めることはできても、人の命を奪うことはできない。――倫理の問題ではなく、有効な魔法がマーヤーにはないのだ。武器で傷つけることはできるが、うっかり近づく気にはなれない。他の魔法と同様、眠りの魔法もどこまで効果があるのかわからない。それに、マーヤーの持っている短剣やダーツでネイノスにとどめが刺せるのか。
(手詰まり? …違う)
眠っていて体も心も動かない今ならできるかも知れない。
マーヤーは地上に降りて、飛翔の魔法を解いた。
なぜ、そんなことを思いついたのかはわからない。だが、やらなくてはならない、いや、やるべきだ。心の奥からそんな声が――声にならない声が聞こえる。
今やらなければ、もうできない。理不尽なまでに、強要する声。乱暴なほどに迫ってくる声。それは、むしろ脅迫ですらある。
だから、やらなければ――やるしかない。そんな思いがマーヤーの心を支配する。
そのまま、精神を集中して深い瞑想に入る。まだ、熟達していない技術だ。他の魔法と一緒に使うだけの力はない。
ジャネットと一緒に冒険に出たときに使った魔法を、さらに発展させた魔法。
瞬時に集中など、まだできない。時間を掛け、慎重に、正確に心を研ぎ澄ませ、精神を絞り込まなくてはならない。手探りのように、記憶の奥に隠れている技法を探し出しながら。
そう、確かに記憶の奥には、それはある。既に、それは授けられている。只、まだはっきりと識ってはいない。意識で認識してはいない。だが、見つけ出すことはできる。見つけさえすれば、それは自分のものとなる。それは確信――いや、そうと知っている明らかな事実だった。
できることをする。できるからやる。突き詰めて言えば、そういうことだ。だから、不条理なまでに強要されるのだ。今だ。今だ。今、今、今!
自分の心の奥深くへと精神を集中させ、心を向けていく。意識が消え、その奥にある深層の心を抜け、さらに深いところへ。それを通じて、ネイノスの心識に触れる。人の――有情の今までの経験や知識、自己を形成する様々な要素のあるところ、アーリヤへアクセスする。
その要素に手を加える。
有情が、自己を、そして世界――現世を認識するための拠り所。それをほんの少しだけ、書き換える。今までの経験――認識から生じるはずの刹那後の世界が、本来のものとは違ったものになる。それは、ほんのごくわずかな変化でしかない。しかし、有情にとって、それは決定的な意味を持つ。今までの自己とは切り離された自己。全く別の存在と言える状態に変わる。
魔法の成功した手応えを感じると、マーヤーは、ゆっくりとネイノスの心識を離れ、心の奥底から少しずつ戻ってくる。深層意識が戻り、意識が戻ってくる。この過程を急ぐことはできない。急げば、マーヤーの心が壊れ、廃人にすらなりかねない。
静かに目を開いたマーヤーは、まだ眠ったままのネイノスを見ていた。
見た目の変化は何もない。
はたして、狙ったとおりのことが起きているだろうか。
(迷っていては、だめ)
マーヤーの魔法で、ネイノスの体がゆっくりと浮かび上がる。そのまま、少しずつ高く上っていき、やがて小さくなって見えない程の上空へと上がっていく。
そして、マーヤーが魔法を解くと、ネイノスの体は、真っ逆さまに地上へ落ちてきた。
ものすごい勢いで地面叩きつけられたネイノスの体は、全身の骨が砕け、内臓が破裂して、体中から血が噴き出してあたりに飛び散った。
(…やった)
血の海に沈むネイノスの残骸を見て、マーヤーはほっと息をついた。
マーヤーの魔法は効果を現わした。不死身の男は不死身ではなくなっていた。
望んだ結果ではなかったが、他にどうしようもない。穏便に済ませるだけのゆとりはマーヤーにはなかった。軽く頭を振ると、マーヤーはその場を後にした。後味の悪さに気が滅入り、そればかりに気を取られたマーヤーは、自分が初めて使った魔法の本当の恐ろしさには気がついていなかった。
神殿へ戻ると、ジャネットはすっかり元気になっていた。
神殿で一番立派な部屋にジャネットはいた。マーヤーにジャネットを託された神殿主や僧たちに下にも置かぬもてなしを受け、満足げな様子だった。
「ジャネット、無事だったのね」
心から安心した表情のマーヤーを見て、ジャネットが微笑む。
「ありがとう、マーヤーがここへ運んでくれたのね。…でも、信じられないくらいよ、神殿でこんな丁重に扱われたのなんて、初めて。一体、何があったの」
ああ、とマーヤーは小さく笑う。取り乱して、つい、自分の身分を明かしてしまったのだった。今にして思えば、やり過ぎだったか、とも思うが、あのときはジャネットのことで頭がいっぱいだったのだ。
「きっと、ここの神殿の人たちが、みんないい人だ、ってこと」
「何よ、それ?」
納得できない、といった顔のジャネットをマーヤーはあえて無視する。
「わたし、神殿主様に挨拶して――お礼を言ってくる」
そう言って、ジャネットを残して部屋を出ると、マーヤーは部屋の外に待機していた侍僧に言って、神殿主に面会を求めた。
神殿主の部屋に通されると、ジャネットを救ってもらったことの礼を述べる――エフライサス子爵として。
「大変世話になりました。連れを救っていただき、感謝に堪えません」
かえって恐縮した体で神殿主が平伏する。
「もったいないお言葉。お役に立てて私どもこそ歓喜に耐えません」
「ジャネットは――連れはどんな様子だったのでしょう?」
「初め見たときは、大変な傷のように見えましたが、その実、ほんのわずかな打ち身と掠り傷だけでありました。すぐに気が付かれて、簡単な施術で――神への祈りだけで、たちまち傷は癒えました」
神殿主の答を聞いて、驚いたのはマーヤーだった。
(え…、どういうこと?)
瀕死の様子に見えたのは、あれは何だったのだろうか? 気が動転して、ジャネットの容体を見誤ったのか? …そんなはずはない。
が、神殿主の前ではそんな思いはおくびにも出さない。
「そうですか。それは幸いでした」
何事もないようにそう言うと、重ねて礼を言って神殿主の前を辞する。深々と頭を下げた神殿主がそれを見送る。
しばらくして、多くの僧達に見送られて2人は神殿を後にした。
(ジャネット…、ひょっとしてトリックに掛けたわね)
おそらくは、あの今にも死にそうな様子は、ジャネットの見せた幻影だったのだ。ネイノスの目をそらすため、簡単にやられて見せたのだ。
神殿が見えなくなってから、そのことをジャネットに問いただしてみる。
「あ、ばれた?」
あっけらかんとして言うジャネットに、マーヤーは腹を立てるより、むしろあきれかえっていた。
「あんな奴とまともに相手になってなんかいられないでしょ? だったらさっさと負けるが勝ち。そうすりゃ満足して消えてくれるんだから」
なるほど、それで1人だけちゃっかりと戦線離脱して見せたわけだ。むっとした表情のマーヤーを見て、ジャネットは笑って取り繕う。
「でも、マーヤーは勝っちゃったのよね? わたしを神殿に運んでくれて、迎えに来てくれた、ってことはそういうことなんでしょ? やっぱりマーヤーだわ。うん、すごい!」
ぱんぱんと肩を叩いてくるジャネットを見据えたまま、マーヤーは答えない。それを見てジャネットが一層饒舌になる。
「ああ、別にマーヤーを置いて逃げようなんて思ってなかったわ。ただ、いきなり殴られて、とっさに――無意識のうちに死んだ真似しちゃったのよ。ほんと、ごめん! それにマーヤーだって凄腕なんだから、きっと自分でなんとかできる、って思ってたから。それでなきゃ、絶対あんなふうにしないから」
「………」
「だって、本当にマーヤーは、あいつ、やっつけちゃったんでしょ? ねえ、一体どうやったの? 教えて、ね、ね!」
そう言ってジャネットは、マーヤーの体に手を回してくる。肩に手を掛け、顔を近づけてきて、頬がくっつきそうになるのを、マーヤーがよける。
「いいわよ、もう…」
「でも、マーヤーは攻撃魔法使えないんでしょ、そう言ってたわよね? だったらどうやってあんな化け物やっつけたの? 幻術?」
「浮遊の術。…高いところから落とした」
あのときのことは思い出したくない。それが本音だった。必要なときには、相手の命を奪うこともためらわないが、だからといって、決して楽しいことでもなければ、誇らしくもない。
「え、そんな簡単だったの?」
驚いたようにジャネットが言う。それに対して、マーヤーは曖昧にうなずいてみせるだけだった。
「すごいなあ…。わたしだったら、とてもかなわない。ほんとに、そんな簡単に倒せちゃったの? 高いところから落としたくらいじゃ、全然平気だと思ってたのに」
「…え?」
何か引っかかった。それが何かははっきりしない。不思議な表情のマーヤーの手をジャネットが引っ張る。
「あ、そうそう、食事に行きましょ? もう、すっかり、おなかすいちゃったじゃない。神殿じゃ、お茶しか出してくれなくって、まいっちゃった。あそこじゃ、昼は食事しないんだって言われてさ。助けてくれたお礼に、今日は私がおごるから。ね、ね!」
先に立って歩き出すジャネットに、マーヤーは黙って引っ張られていったのだった。




