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山小屋のコゼット(5)

 マーヤーがひるんだことで、イレジスタブルサジェスチョンは完全に解け、ジャベールはマーヤーの方へ歩み寄ってくる。

 が、その足が急に止まる。

 「な、なんだ…」

 こんな気持ちは生まれて初めてだ、とジャベールは思った。

 声のしたところにいる相手が、急に恐ろしく思えてくる。そして同時に、自分の力が抜け、弱々しくなっていくのが感じられる。こんな思いを味わったことは、今までない。そこにいる魔法使いはこの上なく恐ろしく、そして、自分は弱い。

 馬鹿な、と心の底では思うが、理性を感覚が抑えにかかる。

 一体、あの魔法使いに何があるというのだ? 恐怖を感じるのはなぜだ。

 そんな思いを振り払うように、顔を上げ、前方を強くにらむ。そこにいるはずの魔法使いの姿は見えず、暗がりの中、部屋の壁が見える。

 …壁?

 そちらの方から、ジャベールの意識の中に、強い力が流れ込んでくる。

 めまい。そして脱力。

 足の力が抜け、その場に膝をつく。

 意識が消えかかり、目の前が真っ暗になる。

 こんなところで倒れるわけにはいかない。

 その思いが、最後の力を引き出す。

 ゆっくりと、ジャベールの姿が変わり始める。全身の体毛が伸び、手足が獣の四肢に変わる。

 コゼットが恐怖の叫びを上げる。

 狼となったジャベールは、コゼットの方へ近づこうとした。が、コゼットの方を向いた途端、その顔が引きつったように見えた。ジャベールはコゼットに近づくことができす、弧を描くようにその周囲を回るだけだった。

 部屋の中をゆっくりと回りながら、扉に近づく。

 そのとき、ジャベールの心の中に、一つの強力な命令が浮かんだ。

 決して逆らうことのできない、絶対的な力で行動を強いる声をジャベールは聞いた。

 その声に心を支配され、後先も考えずにジャベールは小屋の外へ飛び出していた。

 「こ、これは…」

 小屋から飛び出し、急いで扉を閉めたところで我に返る。

 一体、今のは(なん)だったのだ? なぜ、俺は出てきてしまった?

 わからない。

 出てきた理由も思い出せない。中で何があったのかも覚えていない。

 こんな馬鹿なことがあってたまるか。そう思って振り返って扉を見る。閉ざされた扉の上に、ぼんやりと虹色に光るものが見えた。ここへ来たときには、なかったはずのものだ。

 「何だ、あれは…!」

 あれは見てはいけないものだ、と本能がささやく。しかし、ジャベールの目は、その光るものに釘付けになっていた。輝いているのは、見たこともない図形。1秒ごとに、ジャベールの心の中に恐怖と、命の危険を知らせる本能の警告が湧き上がってくる。

 このままではいけない。

 ジャベールは、大きく口を開くと、一声、高く叫んだ。叫び声は遠吠えとなり、遠くまで谺する。それに答えるように、あちこちから狼の遠吠えが聞こえてくる。ジャベールの呼びかけに答える野生の狼たちの声。

 もう一度、力強くジャベールは吠えた。狼たちを呼ぶ叫び。俺の元に集え、と命じる声。

 それに応じて、山の中にいた狼たちが、ジャベールの方に集まってくるのを感じる。

 そうだ、早く集まってこい。そうジャベールは念じていた。

 呼びかけに答えた狼の数は、最低でも50。それだけの数がいれば、こんな小屋など簡単に潰してしまえる。そう思うことで、心の中にわだかまる不安な気持ちを抑えようとする。

 遠吠えの際の気合いで、何とか図形から視線を外すことができ、扉から目を背けたまま、ジャベールはその場に立ち尽くしていた。

 月は中天にかかり、狼男の能力を最大に引き出してくれている。

 狼たちが集まって()さえすれば、小屋の中の魔法使いが何をしようと、ひと思いに踏み潰すことができる。そんな思いが、実は、恐怖と敗北感から来たものであることにジャベールは気付いていなかった。

 小屋に来たときに持っていた、何者にも負けない強者の余裕、自分の力への絶大な信頼。それが失われていることに、ジャベールは、知ってか知らずか、向き合うことができていなかった。


 その頃、小屋の中。

 「ジャベールが、…出て行きました」

 安心よりも、むしろ放心したようにコゼットが言う。一体、なぜ、と目で問うコゼットにマーヤーが答える。

 「あなたの持ってるお守り。それは狼男の苦手なビーシュ」

 え、とコゼットの目が見開かれる。

 「言わなくてごめんね。変な誤解をされたくなかったから」

 誤解、と聞いてコゼットが怪訝な顔になる。それには取り合わずマーヤーは言葉を続けた。

 「部屋の壁に描いておいたのは、萎縮と遁走の魔法印。わたしの魔法で心の弱ったところにそれを見て、とうとうたまらなくなって、逃げた」

 「心が…?」

 「そう。…物を壊すのだけが魔法じゃないんだよ」

 そう言ったとき、外でジャベールが遠吠えをするのが聞こえてきた。

 「仲間、呼ぼうとしてるんだ、きっと」

 マーヤーの言葉を聞いてコゼットの顔が青ざめる。が、マーヤーは、片手を上げて、大丈夫、と言った。

 「…その備えもしてるから」


 山に住む狼たちが、続々(ぞくぞく)と集まってくる。その気配を、ジャベールは満足げに感じ取っていた。

 気配は、やがて茂みを踏みしだく足音に変わり、木々の間から、まず3匹、次には2匹、と次々に狼の光る目が現れる。次々と姿を現す狼の群に、ジャベールはほくそ笑んだ。

 が、その笑いが驚愕に変わるまでにさほどの時間はかからなかった。

 やって来た狼たちは、コゼットの小屋を見るや否や、キャン、と怯えた声を上げると、いきなり向きを変え、矢のような勢いでその場から逃げ去ってしまったのだ。木陰からゆっくりと姿を現す後続の狼の頭上を飛び越え、死に物狂いで、まっしぐらに駆けていくその姿を見て、ジャベールは呆気にとられていた。

 何が一体起きている…?

 そう思って、小屋の方へ目を向けたとき、月が雲間に隠れる。訪れた闇の中、小屋の壁中に、虹色の光を放つ図形が描かれているのをジャベールは見た。

 その瞬間、言いようのない恐怖がジャベールの心の底から湧き上がってくる。しまった、と思う(いとま)もない。見てはならないものを直視してしまった、と悟ったときには、既に彼の体は、ジャベールの意思と関係なく勝手に動き出し、叫び声を上げながらその場から遁走し始めていた。

 ありえない、こんなことは。絶対にあってはならないことだ。

 そんな思いも、圧倒的な恐怖に塗りつぶされ、もはや何も考えられないまま、ジャベールはひたすら逃げ続けていた。


 小屋の中で息を潜めていたコゼットとマーヤーは、遠ざかる狼たちの足音、ジャベールの悲鳴を聞いていた。

 「終わったみたい」

 マーヤーの声に、コゼットが振り返る。その顔に笑顔はない。戦慄と不安。それだけが読み取れる感情のすべてだった。

 「…これで、いいのでしょうか、…よかったのでしょうか」

 もちろん、とマーヤーは答えた。もう、ジャベールも、眷属の狼もここにはやってこない、と請け合う。マーヤーの描いた魔法の図形で追い払われたものは、もう二度と戻ってくることができないのだ、と。

 尚も不安な表情を隠さないコゼットに、マーヤーは、どこかの村か街へ行こう、と提案した。

 「こんな山の中での1人暮らしは、無理かな? もう、お父さんもいない。冬の支度もできていない。だから…」

 コゼットは力なく頷いた。

 「…あ、魔法の図形は気にしなくていいよ? 元々の住人のあなたには影響がないし、2日もすれば消えてしまうから。…それに、今夜、ジャベールや狼相手に魔力を解放しちゃったから」

 そうですか、と言ってコゼットは頷いた。


 (なんか元気ないな…。緊張が解けて気が緩んだ、って感じでもないし)


 「…今更だけど、もしかして、わたし、何もしない方がよかった?」

 恐る恐る、そう訊いてみる。いいえ、とコゼットははっきり答えて笑って見せた。

 まだ、実感が湧かないのです、明日になれば、きっと気持ちも切り替わるでしょう、というのが彼女の言葉だった。

 それならいいけど、というマーヤーに、コゼットは首に掛けていた藍色の玉を取ってマーヤーに差し出した。

 「お返しします。もう必要もないでしょうから」

 うん、と頷いてマーヤーはそれを受け取った。手製とは言え、狼男よけの護符は魔法の品(マジックアイテム)だ。ポーチの中にそれをしまい込む。

 「ここから一番近い人里、知ってる?」

 はい、とコゼットは答えた。歩けば3日ほどのところにあるヤラードの村が一番近い、と。コゼットの父親が冒険者達を見つけてきたのもその村だったという。

 「そう。なら、まずはそこへ行こう?」

 黙ってコゼットは頷いた。

 気がつけば、とうに真夜中は過ぎていた。コゼットと共にマーヤーは寝室へ行き、ベッドに入るとそのまま眠りに落ちていった。夢を見ない、深い眠りに。


 翌朝、朝日を浴びてマーヤーは目を覚ました。直に顔に当たる朝日がとてもまぶしい。


 (え? …朝日?)


 目を開けば、青々とした空に、ひとはけの雲が浮かんでいる。東の空に昇った太陽が、明るい日差しを投げかけている。

 辺りを見回したマーヤーは、一瞬、自分のいる場所がどこなのか分からなかった。

 朽ち果てた小屋。天井はなく、壁も木が腐ってほとんど原形をとどめていない。辛うじて一カ所に集められた藁の中で、マーヤーは、これもぼろぼろになった毛布にくるまっていた。廃屋の中、他に人の気配はない。


 (な、何があったの?)


 狼男と戦ったこと、コゼットと村へ行く約束をしたことを思い出す。

 あれは本当にあったことだろうか? それとも、ここで眠っている間に見た夢だったのだろうか?

 どちらとも測りかねたマーヤーの手に、ポーチからはみ出していた糸が触れた。目を向け、それを引っ張り出す。

 狼男に効果がある、魔除けの玉。マーヤーがコゼットのために作ったものだった。


 (夢じゃなかった…)


 ならば、コゼットはどこに行った? そして、小屋がこんな(ふう)になったのは?

 そんな思いを巡らすマーヤーの胸に、不意にコゼットの言葉がよみがえる。

 「あなたの気持ちが無駄にならないことを祈ります」

 そうコゼットは言ったのだった。

 あれは、どんな思いを込めてのものだったのだろうか。


 (冬の支度をしていなかったコゼット。ジャベールにきつい言葉を投げながら、彼を拒む言葉は口に出さなかったコゼット。自分からわたしに助けを求めてこなかったコゼット)


 コゼットはどこへ行ったのだろう。そして、マーヤーのしたことに、どんな意味があったのだろう。

 釈然としないまま、マーヤーは廃屋を後にした。


 数日後。コゼットの言っていたヤラードの村を探し当てたマーヤーは、そこで、狼男を退治するために集められた冒険者がいたこと、そして村を出て行ったきり、二度と戻っては来なかったことを聞いた。

 だが、それはもう十数年も前のことだった、という。

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