山小屋のコゼット(1)
予想もしていないことだった。
まさか、こんな昼中に、街道で狼の群に出会うなんて。
全部で15匹。ひときわ体の大きなのがボスだろう。
街道の周辺は荒れ地だが、視界を遮る茂みや木立がなく、離れたところまで見渡せるのが幸いだった。近づかれる前に、群がこちらへやってくるのを見つけることができたから。
(…って、冗談じゃない、本当にわたしを狙ってる?)
まっしぐらにやってくる狼たちを見て、マーヤーは慌てていた。鼻の利く狼相手に不可視の魔法は役に立たない。空を飛んでも、遮るもののない荒野、降りれば、また狼たちはやってくる。マーヤーの能力では、狼の群を一気に引き離せるほどの速さでは飛べないのだ。
閃光と轟音を作り出すイリュージョン・ブラスターも、人間相手に考案した魔法で、猛獣相手に効果は薄い。幻聴でうまく驚かせ、追い払うことができればよいが、失敗すれば後がない。射程の短い幻術の限界だ。
とにかく逃げなくては。
小走りに街道を急いでも、所詮、人の足では狼の速さにはかなわない。
見る見るうちに、狼の姿が近づいてくる。
(こうなれば、もう、やるしかない、ってね!)
どのみち、スピードでは敵わない。そう思って、駆け寄ってくる狼たちの方に向き直る。
少しでも距離を取るため、マーヤーは空中に浮きあがった。狼が跳びかかろうとしても、届かないくらいの高さ。それで、とりあえずの危険は避けられる。
(まずは、小手調べ・・・)
マーヤーの魔法で、やって来る狼たちより、二回りも大きな白い狼が現れる。白銀と見まがう美しい毛皮。風になびく長い毛は日の光を反射して流れるような光をあたりに放つ。口から覗く牙は、研ぎ澄まされたナイフのようだ。
(さあ、頑張ってね、わたしの狼さん!)
マーヤーの作り出した幻の白狼は、声高に吠えると、狼の群れに向かって、勢いよく走り出す。その姿は、あたかも矢のようで、遠目にはまた、一条の銀光のようにも見える。
不意に現れた白狼に、やって来る狼たちの足が鈍る。が、それも一瞬のことだった。狼たちは左右に分かれて白狼の横を駆け抜けると、そのまままっすぐにマーヤーの方へ向かってくる。
(え、ええっ? …なんで、どうしてあの白狼を素通りしちゃうの?)
今度は、5人のオークを作り出す。いずれも身の丈2メートル余り、革の戦闘服に身を固め、長剣で武装した屈強な戦士達。それが、鬨の声を上げて狼の群れに向かって駆け出して行く。
(今度は素通りなんかさせないよ!)
オークの戦士達は、横に広がり、狼の群れの先頭を包み込むような位置取りで突進していく。間をすり抜けようとすれば、どれかのオークの剣の間合いに入る。
しかし、今度も狼たちはオークの相手をしようとはしなかった。近くまで来ると、大きくジャンプしてオーク達の頭上を跳び越え、そのまま進んでくる。
(な、なんで…?)
跳んでよけている以上、オーク達の姿が見えていないわけでないことはわかる。単に、相手にされていないだけだ。脅威のはずの相手を、どうして、こうも簡単に無視できる…?
そう考えて、ようやくマーヤーはその原因に思い当たった。
(動物相手の魔法、…勉強不足だったよ、わたし!)
冒険者時代は、仲間がいたから、1人で猛獣やモンスターの群と対峙することはなくて済んでいた。冒険者をやめた後は、平凡な生活を求めて旅をしていたから、魔法の研究は怠っていた。それが、今、こんな形で跳ね返ってくるなんて…!
(いいよ、実戦訓練だ!)
半分、自棄気味になりながら、魔法をかけるためのイメージを練り上げる。相手の心に働きかける幻術は、イメージこそがすべての要だ。
群の先頭が、もう、街道のところまでやってきたのを見て、マーヤーは、幻の炎を狼の目の前に作り出した。
人間なら、見たものを自分で解釈して、勝手に自分自身のイメージの虜になってくれる。しかし、動物相手にそれは期待できない。だから、作り出す幻影は、できるだけシンプルで、他のものと見間違わないようにする必要があり、また、相手の知っているものでなければ効果が薄く、相手の知能が低いほど、その傾向は顕著になる。
だから、視覚的な効果のある幻影と言うのは、おのずと限られる。しかも、視覚や聴覚よりも嗅覚に優れた狼に、においを伴わない幻影を本物と思わせなくてはならないとなれば、作り出せる対象は余計範囲が狭くなる。不自然なにおいや、本物と違ったにおいのものを幻影で作り出しても、狼は、それが本物であるとは思わない。
例えば、オークの幻を生み出すなら、オークのにおいを一緒に作り出す必要があり、オークのにおいのしない幻のオークを、狼はオークとは思わない。そのうえ、作り出すにおいは、人間の知っているオークのにおいではなく、狼が本物のオークから嗅ぎ取るにおいにしなくてはならない。マーヤーが勉強不足、と感じたのは、そういうことだった。
近づいてきた狼は、いきなり現れた炎に驚き、小さく吠えて、数歩後ずさりした。火の燃えるかすかな音や、熱も、本物さながらに再現した幻を、狼は本物の炎と思ったようだった。
(よし、今度こそ手応えあった!)
続けて、狼たちに幻覚を味わわせる。
足下の地面が、火に炙られたように少しずつ、最初は暖かに、そして、突然一気に熱を持って熱くなる。ギャン! と叫んで先頭の狼がその場から逃げ出す。
しかし、そこまでだった。熱さを感じて一旦は後退しても、それで、その場から逃げ出すわけではない。
しかも、狼は全部で15匹。1匹が後ろに下がっても別の狼がまたやって来るだけで、それが火と熱に驚いて逃げ出す頃には、最初に逃げ出した狼がまた戻ってくる。
人間相手なら無双を誇るマーヤーの幻術も、メンタリティの異なる動物相手では勝手が違い、思うような効果を上げることができない。
恐怖を覚えさせて相手を遁走させる術も、人間相手なら、意識に上る恐怖の対象を、相手の記憶によみがえらせればいいが、動物相手では、思うように相手の心を操ることができない。
(思い出さなきゃ…ファービュアス様の教えを)
そうわかってはいても、狼たちに魔法をかけながら、記憶の底からファービュアスの教えを呼び起こすのはマーヤーには無理だった。
(うーん、だめだ、思い出せない!)
教えられたこと――知識なら思い出すことができる。だが、ファービュアスの心識とふれあったときのあの感覚、世界を感知したあの経験を呼び覚まさなくては。心が体験した、世界の認識。それこそが、現実に作用する力となる。
今のマーヤーには、それを使うだけの力はない。
(いけない、このままじゃ、きりがない)
魔法は、心がイメージを紡げる限り持続できる。逆に言えば、心が――精神が疲れれば、魔法は使えなくなる。いつまでも狼相手に堂々巡りを続けていれば、やがて疲れがたまってイメージが枯れ、魔法が破れる。
(一か、八か…!)
自分自身に精神を集中する。自分の姿。自分の体の音――呼吸の響き、心臓の鼓動、流れる血液が放つ音。体の周りを取り巻く空気の流れ、あたりにかすかに広がる体温。体臭。そういったものをイメージする。
意識の中にそれらを再現し、自分自身のイメージを明瞭に、正確に思い起こす。そして作り上げたイメージを組み上げ、自分の分身を――幻を作り出す。
人が見れば、空中に浮かぶマーヤーが、2人になったと見えたはずだ。
2人になったマーヤーが、少しずつ距離を取り、幻の方のマーヤーが、狼の上空を飛んで、群れの後ろへと移動する。狼の注意が、そちらに向いたのを見て、マーヤーは魔法が成功したのを知った。外見だけでない、マーヤーの完璧な――動物にとっても、区別のつかない分身が作り出せたのだ。
(よしよし、すごいよ! さっすが、わたし! …天才!)
期待通りの成果に、思わず自分を褒めてしまう。その成功に気を良くし、同じ要領で、さらにもう2人の分身を作り出す。3人の分身が、それぞれ別々の方へ飛んで、狼たちの注意を引く。
(今のうち…)
本物と幻の区別がつかない――狼にとっては、マーヤーが4人になったとしか思えない。それはあり得ないこと、という考えは狼には思い浮かばない。獲物が4つに増えたのだ、結構なことだ、というのが狼たちの思いのすべてだった。
だから、そのうちの1つが少しずつ遠ざかっていくのを知っても、残る3つが手の届くところにいれば、それはたいした問題ではない。幻だけを残し、不可視の魔法で姿を消すと、マーヤーは空中を飛んでその場を後にした。
首尾よく狼の群から逃れ出したマーヤーは、そのまま、狼の群がやって来たのと反対の方向へと飛んだ。
街道から離れすぎると、もう一度街道へ戻るのは難しくなるのだが、狼の群がいるのではどうしようもない。動物たちに有効な――ダメージを与えるタイプの魔法の心得がほとんどないマーヤーとしては、あれだけの狼を一度に相手にするのは避けたかったのだ。
見晴らしのよい荒れ地には、しかし、別の街道は見当たらない。今、後にしてきた街道は、マーヤーの飛ぶのとは反対の方へと向かっていて、戻ることはできない。
やがて、前方には森が、そしてその向こうには山並みが見えてくる。
(しかたない、あの山まで行ってみるか…)
見通しの悪そうな森へ降りるのは避けることにする。山を越えれば、もしかしたら、街道が見つかるかも知れない。そう思ってのことだった。
もし、荒れ地を歩いていれば、マーヤーの足なら森までは1日掛かるかかからないくらい、そこから山までも――途中に何もなければ、丸1日もあれば十分に着けるだろう距離だ。マーヤーの飛ぶのが速くないとは言っても、1時間もあれば山の峰まで、楽々とたどり着くことができる。
(山の向こうは、何があるかな…)
そんなことを思いながら、マーヤーはゆっくりと空を進んでいった。




