悪役令嬢に仕立て上げられた私は、魔王と一緒にスローライフを送ることにします
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。レイズナー家の令嬢、リアナ・レイズナーの脳裏にはそんな言葉が浮かんでいた。
リアナは今、とある城の玉座の間に来ている。真紅の絨毯の先には玉座があり、煌びやかというより厳かな雰囲気を醸し出している。
リアナはレイズナー家という名門貴族の出身だ。自身よりも位が高い人物を謁見するのは初めてではない。仮に今の相手が一国の王に呼び出されたとしても、ここまで困惑することはないだろう。
リアナをこの場所に招待した者たちにこそ、問題があるのだ。いや、招待ではなく、連行されたと言った方が正しい。
「この娘っ子が勇者の嫁さんだか?」
玉座に座っているのは、人類の天敵である魔族を統べる者、魔王ダウロットだ。
外見こそ人間と似通っているが、青白い肌、頭部に生えている角など、普通の人間とは異なる点が山ほどある。
魔王らしく禍々しい服を着ているが、その上からでも逞しい身体つきなのが分かる。
「そのとおりです、ダウロット様。妻が我ら魔族に囚われているとなれば、勇者も冷静さを失くし、突き入る隙も生まれるでしょう」
「そんなもんだべか……」
リアナの隣にいる年老いた魔族が、彼女を魔王城まで連行した張本人であり、魔王ダウロットの側近だ。彼らが深夜に家まで押し入ってきて、リアナを魔王城まで連行したのだ。
彼は自慢気に己の策を語っているが、一つだけ致命的な間違いを犯しているのをリアナは知っていた。
今の今まで指摘できなかったが、するとしたらこのタイミングしかない。このまま話が進めば、いよいよ引き返せなくなる。
──もう十分、そうなっている気もするが。
「……あの、違います」
「ん?」
視線が一斉に集まる。
しかし、今のリアナは怯むことなく言葉を紡ぐ。
「私、勇者の妻なんかじゃありません」
側近の犯した致命的な間違いとは、リアナを勇者の妻と勘違いしてしまったことだ。
「つまらん嘘をつくな。貴様が勇者と結婚式を挙げたのは調査済みだ」
側近は呆れた声色で言う。
この場から逃れるための嘘だと思われているが、それも仕方ない。逆の立場なら、リアナもきっとそう思うだろうから。
勇者と結婚式を挙げたのは事実である。
魔族が人間社会の情報を得るのは、かなりの労力と時間を要する。ここまで知っているだけでも、大したものだ。
しかし、肝心の最後の情報が抜けている。
「その調査、もう古いんです。私、結婚式で振られましたから」
他人事のように淡々と言葉を紡ぐリアナの姿は、逆に彼女の発言に真実味を帯びさせる。
まさか、この小娘の言葉は真実なのでは?
そんな言葉が脳裏に浮かんだ側近の顔色は、どんどん険しくなる。もし真実なら、取り返しのつかない失態だ。
「ダウロット様、少々お待ちを!」
「おう」
側近は飛び跳ねるように部屋から退出した。
この発言か凶と出るのか、吉と出るのか。人質から解放されるかもしれないし、もう用済みだと消されるかもしれない。
後者の可能性が高いけれど、遅かれ早かれ知られることだ。それならいっそ、自己申告した方がまだ助かる見込みがあるだろう。
それに、殺されるなら殺されるで構わないのだ。一思いに殺してほしいとは思うが。
「おめえ、結婚式の最中に振られたんだか。可哀想になあ。元気出すっぺ」
「えっ? あ、ありがとうございます……」
何故か魔王から励まされた。
訛りが非常に強い言葉遣いのせいか、魔王であるはずの彼から妙な親しみ易さを感じる。
もしかしたら、魔王は人間のイメージほど凶悪な存在ではないのかもしれない。
†
魔王城にいる間、牢獄に監禁されると思っていたリアナだが、彼女の予想は大きく外れた。
リアナが案内されたのは牢獄ではなく、魔王城のとある客室だった。そこには一通りの家具が揃っている上、食事まで付いている。まるで客人のような対応に、リアナは困惑を隠せない。
それから数日が過ぎて、リアナは玉座の間に呼ばれた。
「よお、娘っ子。やっと側近が戻ってくるらしいぞ。まっ、楽にして待ってるといいべ」
玉座の間に入るなり、ダウロットにそう言われた。
相変わらずの友好な態度に困惑しつつも、待つことしばらく。
「失礼します……」
「おお、帰っただか」
とうとう側近が玉座の間に戻ってきた。
苦虫を噛み潰したような表情を見れば、これから何を言うのか手に取るようにわかる。
「……本当に、本当に申し訳ありません、ダウロット様。その小娘の言葉は、事実でした」
「あんれまあ、そうだったか。んだば、さっさとこの娘を家さ返してやれ」
魔王ダウロットは実に呆気なく側近を許すだけでなく、リアナを家に返すという結論を下した。
これには側近も慌てている。
「し、しかし! そんなことをすれば、魔王としての威厳が……」
「人違いをした時点で威厳も何もねえだ」
「うぐっ!?」
返す言葉もないとはこのことだ。
魔王が勇者の嫁と間違えて別の女を連れ去ったという失態は、既にあちこちに広まっている。
間抜け、無能、情弱など、人間たちに好き勝手言われ放題だ。魔王としての面子はズタズタに傷ついている。
「元はと言えば私の不手際が原因! 責任を持ってこの小娘を処刑します!」
人間たちにとって、魔王とは恐怖の象徴である。
それを人間たちに思い出させるためにも、リアナを処刑する必要があるのだ。
特に、ダウロットの面子が傷つくことになった直接の原因である側近は、是が非でも成し遂げなくてはと考えている。
「だっどもなぁ、この娘っ子を殺す理由なんてないべ?」
問題なのは、ダウロットには魔王の面子に関心がないことか。もっと言ってしまえば、どうでもいいとさえ思っている。
お門違いではあるが、側近はそんなダウロットに対して苛立ちを覚えた。
だからこそ、普段では絶対にしないよう失言をしてしまった。
「それなら、小娘の死体を畑の肥料にでもしてしまえば──」
「あ?」
のんびりとした口調が一転、背筋が凍るほど恐ろしいものに変わる。
殺気立った猛獣を目の前にしたら、きっと今のような気分に陥るのだろう。
「うっ…… ああ.……!?」
側近はダウロットの地雷を踏み抜いた。
ダウロットは人間に魔王と呼ばれてこそいるが、とても穏やかな性格だ。
しかし、農業が関わってくると話は違ってくる。
「おめえ、肥料をナメてんのか!! こんな娘っ子さ肥料にして、マトモに野菜が育つと思っているだか!?」
「ひいいいいぃぃっ!?」
空気が震えるほどの怒声を浴びせられ、側近は情けない悲鳴をあげる。
このとおり農業を馬鹿にした発言をすると、ダウロットは烈火の如き怒りを露わにする。
怒りの矛先を向ける対象は、敵だろうと味方だろうと関係ない。
「も、申し訳ありません! 浅はかな発言でした!」
「次は気をつけるだよ」
ダウロットはあっさりと許したが、目の奥底が笑っていない。
「じゃ、この娘っ子を家さ送ってけろ」
「はい!」
余計な口を挟まなければ、無事家に帰れる。
だけど、リアナはそれを良しとしなかった。口を挟まずにはいられなかった。
人間の世界に戻る以上に、農業を嗜む魔王について知りたいという欲求が勝った。
「魔王…… いえ、ダウロットさんは野菜を育てているんですか?」
リアナの質問を聞いた瞬間、ダウロットは子供のように目を輝かせた。
「おめえ、野菜に興味があるだか!」
ダウロットは玉座から立ち上がり、活き活きとした足取りでリアナの前まで歩く。
こうして目の前に立たれると、かなりの威圧感を感じる。
「えっと、少し……」
厳密に言えばダウロットに興味があるのだが、頷いておいた。
「それならオラの畑、見てみるだか?」
「魔王様!?」
口出ししようとした側近を、ダウロットは鋭く睨むだけで封殺する。
「いよっし、今日の魔王の職務は終わりだ!」
こうして、リアナは魔王の畑を見に行くことになった。
†
一頭の巨大な馬が魔族の領土を駆ける。
風すら置き去りにするその速さは、馬という種の限界を明らかに超えている。
馬に乗っているのは、リアナとダウロットである。
ダウロットが手綱を握り、馬の爆走を制御している。このじゃじゃ馬を制御できるのは、ダウロット以外に誰もいない。馬の巨体に見合っている体格なので、彼の乗馬姿は様になっている。
一方、リアナは前に座るダウロットの腰に腕を回し、必死の形相でしがみついている。それもそのはず、この速度で落馬したら間違いなく死ぬ。
(これ、いつまで走ってるの……!?)
魔王城を出てから、もうずっと馬を走らせている。ダウロットにしがみつく腕も震えている。いつになったら畑に着くのかと、リアナは頭の片隅でそう思い始めてきた。
ふと、馬の走る速度が次第に緩んでいく。
リアナにも周りの景色を眺める余裕が生まれる。
平地へと続く一本道で、目視できる範囲に建物はない。
「見てけろ、これがオラの畑だ」
前方には、見渡す限り一面に畑が広がっている。
一陣の風が吹き抜け、一斉に葉が揺れる。
圧巻の光景だ。こんなに広い畑、今まで一度も見たことがない。
「これ、代々引き継いできた畑なんですか?」
「いんや、オラ一人で耕しただ」
「えぇ!?」
リアナは驚きの声を上げる。
農業に関しては無知のリアナでも、一人で耕せる面積ではないと断言できる。
ただ、ダウロットの言葉が嘘だとも思えない。それをやってのける風格がある。
「味見してみるか?」
あれこれ考えるよりも先に頷いた。
ダウロットが手綱を引くと、畑の前で馬が止まる。
「よっと」
ダウロットは軽やかに馬から降りる。それに反して、着地したとき岩石の落ちたような音が響いた。
リアナもダウロットの手を借りて、どうにか馬から降りる。
この馬の巨体では、普通に乗り降りするのも一苦労だ。乗馬するときだって、抱っこされて馬に背中に乗せられた。赤子のような扱いを受けて、死ぬほど恥ずかしかった。
「っと、これが食べ頃だべか……」
畑に足を踏み入れたダウロットが戻ったとき、その手には丸々と赤く実った野菜があった。
リアナには見たことのない野菜だけど、不思議と美味しそうに感じた。
「生でもいけっど。ほれ、け」
促されるがままにダウロットから野菜を受け取り、そのまま一口かぶり付く。
そして、目を見開いた。そこに込められた感情は、驚愕と賞賛だった。
「美味、しい……」
「だべ?」
口の中に、瑞々しい甘みが弾けて広がる。こんなに美味しい野菜…… いや、食べ物なんて、今まで一度も食べたことがない。
あれこれ考えるよりも先に、二口目、三口目と野菜にかぶりつく。体がこの野菜を求めている。
ダウロットはそんなリアナの姿を、顔を綻ばせながら見つめる。緩んだ口元からは、尖った八重歯が見え隠れしている。
その様子まるで、珍しい虫を友人に見せびらかす少年そのものだ。
農業を馬鹿にすれば烈火の如く怒るが、その逆もある。彼の作った野菜を褒めれば、ダウロットは人懐っこい子犬のように心を開くのだ。
「ごちそうさまでしたでした」
リアナは赤い野菜を綺麗に平らげた。
至福のひと時とは、きっとこの瞬間のためにある言葉なのだろう。
「やっと笑っただか。美味いもんを食べれば、自然と笑みも浮かぶもんだ」
ダウロットに指摘されて、リアナは笑顔を浮かべていることを自覚する。
人生のドン底にいるのに、こうして美味しい野菜を口にしただけで笑っている自分が滑稽に思える。
「すまんかったなあ、こげな目に遭わせて。怖かったべ?」
野菜が好きな奴に悪い奴はいない。それがダウロットの信条だ。こうして頭を下げたのも、ダウロットが育てた野菜を心の底から美味しそうに食べてくれたからだ。
そんな信条を知る由もないリアナは、魔王が頭を下げたことに少なくない驚きはあったが、それ以上に素直に謝罪を受け入れていた。
「せめてものお詫びだ。オラの育てた野菜を好きなだけ食ってけれ」
申し訳なさそうな表情を浮かべるダウロットの横を通り過ぎたリアナは、畑から赤く育った実を二つほどもぎ取る。
そして、そのうちの一つをダウロットに差し出す。
リアナの突然の行動に、ダウロットはきょとんとした顔に変わる。
「少し私の聞いてくれませんか?」
自分の身に降りかかった不幸── いや、人の悪意を、ダウロットに吐き出したくなったのだ。
魔王にそんな話をするなんて、自分でもどうかしていると思う。
それでも、そうしたくなったのだから仕方ない。
「ああ、好きなだけ話してけろ」
差し出された赤い実を、ダウロットは朗らかに笑いながら受け取った。
†
魔族と人間の対立は根深い。
それこそ、ずっと昔の時代から続いている。
対立の理由は、両者の住まう領土にある。
人間の住まう領土は緑豊かだ。自然の恵みを一身に受け、悠々と生きていた。
対して、魔族の住まう領土は荒れ果てている。自然が与えるのは試練ばかりで、普通に生きるだけでも過酷な環境だ。
両者の間に、どうしてこうも差があるのか。
古くから伝わる神話には、こう記されている。天より神が舞い降りて、緑豊かな領土を人間に、荒れ果てた領土を魔族に与えたと。
人間の大多数はその神話を信じているが、魔族からすれば堪ったものじゃない。そんな神話は信じていないし、当然ながら神の存在も信じていない。
当初、魔族は人間に対し、領土を分け与えるよう交渉していた。しかし、人間は神話を持ち出し、交渉のテーブルにすら着こうとしなかった。
そして、両者の関係が拗れに拗れた結果、魔族は武力によって領土を奪う選択をした。
魔族は人間に比べて数が少ないが、一人一人の力は強力だ。戦争になれば、まず人間に勝ち目はない。
結果から言えば、魔族は領土を奪えなかった。
まるで神が人間に肩入れをするように、魔族以上の力を持った存在── 勇者が誕生し、魔族の侵攻を打ち砕いたのだ。
しかし、これは長い戦いの序曲に過ぎない。
魔族は何度も侵攻を繰り返し、新しく生まれた勇者がその侵攻を打ち砕く。そんな歴史の積み重ねがあるからこそ、勇者は国王以上に偉大な存在だと認められている。
もしも勇者と結ばれるなら、これ以上ないほど光栄なことである。
「勇者様と結婚ですか……!?」
「ああ、そうだ!」
だからこそ、勇者との結婚を父から持ちかけられたとき、リアナには冗談としか思えなかった。
レイズナー家は確かに名門貴族ではあるが、リアナでは明らかに不釣り合いだ。歴代の勇者の妻は、大国の姫などの、最上級の地位にいる女性であった。
「ど、どうやってそんな……」
「客室に飾っている盾があるだろう」
「お父様が気に入っているあれですか?」
リアナの父親が一目でその美しさに魅入られ、武器商人から買い取った盾だ。
「実はあの盾は、代々勇者様が使っていたという伝説の盾でな。勇者様が盾を掲げれば、どんな攻撃も弾いてしまうらしい」
「ええ!?」
無骨さとはかけ離れた美しい盾という認識くらいしかなかったが、まさか伝説の武器だなんて思いもしなかった。
元々所有していた武器商人がこの事実を知れば、きっと発狂するだろう。国すら動かせる価値のある代物を、鑑賞用の盾としてはそこそこ高いという値段で売ってしまったのだから。
「それが、どうして私の結婚と結び付くんです?」
「物は試しで『伝説の盾と一緒に娘も貰ってくれないか』と言ってみたら、なんと勇者様が承諾してくださったのだ!」
リアナの父親は興奮気味に語る。
それもそのはず、一生どころか来世分の運も一緒に使い果たすような幸運が舞い降りたのだ。
しかし、リアナの胸中にある感情は不安だった。
家族の一人娘ではあるが、リアナは絶世の美女などではない。それこそ、街の片隅にいる普通の少女と何も変わらないのだ。
それなのに勇者が結婚をしてくれるなんて、何か裏があったり、騙されていると思えてならない。
「3日後、勇者様がお前に会いに来る。失礼のないよう、ちゃんと準備しておくんだぞ!」
そんなリアナの不安を他所に、怒涛の速さで3日が過ぎた。
リアナと彼女の父親は、レイズナー家の屋敷の客室で勇者を待つ。2人はしきりに扉に視線を向け、明らかに落ち着かない様子だ。
ある意味針のむしろのような時間が続くが、やっと終わりを告げる。
扉の開く音がした。
「ようこそおいでくださいました、アルバート様!」
開いたドアの先には、金髪の美男子がいた。
彼の名前はアルバート・ブレン。魔族を打ち倒す、今代の勇者である。
そして、勇者の後ろには複数人の女性たちが控えている。彼女たちは全員、例外なく美少女である。勇者の仲間なのだろうか。
「ふぅん、この子があんたの娘なんだ」
アルバートは値踏みするようにリアナを見る。
「あんまり可愛くないな……」
「…………は、はっはっはっ! 手厳しいですな!」
そして、その瞳に明らかな落胆の色が浮かんだ。
勇者の後ろにいる女性たちもクスクスと笑っているが、幸か不幸かアルバートの発言が衝撃的でリアナの耳には届かなかった。
(いやいやいや、初対面の人に向かって普通そんなこと言う!?)
口を噤み、言葉を胸の内だけに留める。
リアナの怒りは当然だが、彼は勇者。下手に反論して勇者の不興を買ってしまおうものなら、この街どころか人間の国にすらいられなくなる。
それに、アルバートは純粋というか、正直過ぎるだけなのかもしれない。
「まあいいや。それで、伝説の盾ってこれ?」
テーブルの上に置いてある伝説の盾を、アルバートは手に取る。
「左様でございます。流石は代々の勇者様がご使用になられたという盾、とてもお似合いです!」
アルバートはリアナの父親の媚びに反応せず、盾の使い心地を調べる。
「ちょっと試してみるか。ミューラ、頼んだ」
「はい」
杖を持った、魔法使いらしき女性が前に出る。
何をするつもりなのかと、リアナとリアナの父親は首を傾げる。
「炎の弾丸!」
杖の先から放たれた炎の弾丸は、伝説の盾を構えたアルバートに襲いかかる。
──キィィィィン!!!
伝説の盾を中心に、魔力のバリアが形成される。
ファイアブレットはバリアに阻まれ、そのまま消滅してしまった。
先ほどのファイアブレットは威力をかなり抑えた状態だったので、防げるのも当然だ。
それでも、伝説の盾がどれだけ規格外の性能を誇っているかを、この場にいる全員が実感させられた。
強大な力を手に入れたアルバートは、新しい玩具を手に入れた幼児のように顔を綻ばせる。
「すごいな、これが伝説の盾か! よし、今日からこの盾の名はアルバートシールドだ!」
(えぇ……)
リアナは1人、ドン引きする。
そのネーミングセンスは如何なものだろうか。
それに、歴代の勇者が使っていた伝説の武器の名前に、自分の名前を入れていいのだろうか。
しかし、リアナの父親とアルバートの仲間たちは口を揃えてカッコいい名前と褒めている。
「それではアルバート様、挙式の日程は如何なさいましょうか?」
その一言は、心臓が飛び出るような驚愕をリアナに与えた。
(正気かお父様! アルバート様のあのガッカリした顔を見てなかったの!?)
アルバートは冷たいどこまでも目をしていた。
リアナの父親だけは、その一言がアルバートの気分に水を差したと気づいていない。その目に気づいていない。
完全に気が急いている状態であった。
「ああうん、わかったわかった。式の段取りはこっちでやっとくから」
「ありがたきお言葉!」
そして、結婚式の日。
式場となった教会で、アルバートが「リアナの父親は武器商人を脅迫して、アルバートシールドを不当な値段で買い取った。こんな売買は無効だ」と告発した。
結婚式は取り止めになり、それを機にレイズナー家は凋落の一途を辿ることになるのだった。
†
「すまない、リアナ。こんな父で、本当にすまなかった。だけど信じてくれ。私は、リアナを幸せにしたかったんだ。お前を、愛しているんだ。そう言って、お父様は病気で亡くなりました」
父親の最期を看取ったとき、涙が溢れた。
純粋に父親がいなくなってしまった悲しみか、何もできなかった自分の不甲斐なさか、それともアルバートへの怒りか。
今思い返せば、その全てだったと思う。
母親はリアナが物心つかない頃、病気で死んでしまった。
いなくなった母親の分まで、娘を幸せにしてあげなくては。それがリアナの父親の行動原理であり、アルバートと結婚させようとした理由だった。
父親からの愛情はちゃんと伝わっている。だからこそ、リアナは父親は恨んでいない。
真に恨むべき人間は── 別にいる。
「病は気からって言いますよね? お父様はレイズナー家が凋落したのを気に病んで、体を壊してしまったんだと思います。私は── あの勇者が許せない。お父様は、絶対に脅迫なんかしてなんかいないのに……!」
ダウロットは何も言わずに、リアナの抱えていた想いを聞いた。
人間たちは勇者こそが正しいと最初から決めつけているから、最後まで話を聞いてすらくれなかった。
初めて最後まで聞いてくれた相手が最凶最悪と悪名高い魔王なのだから、皮肉である。
「……ごめんなさい、突然こんな話をされても困りますよね。それでも私は、誰かにこの想いをぶつけたかったんです」
誰に何を話しても、状況は好転しない。起きてしまったことは、元に戻らない。
だとしても、この無念を誰にも吐き出さず、胸に抱えたまま墓まで持っていくのは我慢できなかった。
「ダウロットさん、最後まで私の話を聞いてくれてありがとうございました。私への償いでしたら、もう十分ですから」
リアナは深々と頭を下げる。
最後まで話を聞いてくれた上に、あんなに美味しいものを食べさせてくれたのだ。今なら、魔王に連れ去られて良かったとさえ思える。
彼女の悲痛な心の叫びを聞いて、何を思ったのか。ダウロットはリアナの肩に優しく手を置いた。
リアナが顔を上げると、何かを決心したような表情で真っ直ぐに自分を見るダウロットの姿が目に映った。
「おめさん、良かったらオラとここで農業してみねえか?」
「…………え?」
リアナは呆けた声を出し、固まった。
何を言われたのか理解できない。
オラとここで農業をしてみねえか。
その文章か脳内を何度も駆け巡り、やっと何を言われたのかを理解した。
「えええええええ!!??」
溜めを一気に解放したような叫び声が畑に響く。
今日一番の衝撃がリアナを襲う。
「ど、どうして人間の私に!?」
「今は人手が欲しいんだ。オラの周りは領土さ奪うって言ってばかりで、誰も畑さ手伝ってくれん」
困ったものだと言わんばかりに、ダウロットは肩をすくめる。
魔族の主食は、基本的に狩猟した魔獣の肉だ。野菜を食べる風習はない。
そんな魔族の社会では、異端なのはダウロットだ。
ダウロットは歴代最強の魔王と評されているが、暇があれば土をいじる変人とも呼ばれている。
側近を始めとした部下たちは、一度も農業を手伝ってくれなかった。
「……そったなことがあったなら、生きんのが嫌になるのもわかるだ。だどもな、その若さで人生さ見切り付けるのは早えべ。おめさんが思ってるより、農業は楽しいもんだぞ?」
軽い調子の声色から、真摯な声色に変わる。どれが建前で、どれが本心からの言葉なのか、言うまでもない。
ダウロットの言葉は、悲しみで淀んでいたリアナの心をこれでもかと揺れ動かした。
ダウロットの育てた野菜を食べたとき、人がこんなに美味しいものを作れるのかという驚愕、そして感動が湧き上がった。
自分もこんなに美味しい野菜を育てられたら、どんなに嬉しく、誇らしく思うのだろう。
「……いいんですか? 私、農業の経験なんてないし、体力だってないんですよ」
「習うより慣れろって言うべ? 毎日美味いもん食って、畑さ耕して、夜更かしさせず寝れば、体だって丈夫になるだ!」
理論も何もないけれど、不思議と説得力を感じる。
どうせ人間の世界に帰っても、やりたいこともなく、漫然と生きていくだけなのだ。
なら、今やりたいことをやってしまおう。駄目だったら、その時はその時だ。失敗したとしても、失うものはない。
「ダウロットさん、私に農業を教えてください」
この日から、リアナは農家としての第一歩を踏み出した。
†
植物とは繊細な生き物だ。動物と違って、自然の脅威を前にしても逃げることもできない。育てる過程で少しでも手を抜けば、実を結ぶ前に枯れ果ててしまう。
その過酷さ、難しさを深く理解しているダウロットは、「農業ってのは自然との戦いだべ」と常々口にしている。
実際に農業をやってみて、リアナはすぐにその言葉の意味を理解した。
唸るような猛暑の日でも、体の芯まで凍てつくような極寒の日でも、農業は欠かせない。ありとあらゆる自然の試練から、か弱い命を守り抜くのだ。これが自然との戦いと言わずして、何と言うのか。
心地良い疲労でクタクタになりながらも、ダウロットと一緒に育てた極上の野菜を食べ、陽が沈むと同時に眠りに就く。奴隷という名分で魔王と半ば同棲してることを気にする暇もない、充実した生活だ。
そんな日々を送るに連れて、リアナの身体は驚くほど鍛えられた。
「本当に丈夫になったべなあ」
畑を耕すリアナを見て、ダウロットは感慨深そうに呟く。
最初こそ鍬を持つことすら厳しかったのに、今では軽々と振るっている。かつての彼女を知る者からすれば、目を疑ってしまう成長ぶりだ。
ただ、ダウロットは特に驚かなかった。農業をすれば、誰でも強くなれると確信しているからだ。
魔族の領土で野菜を育てるのは大変だ。どんなに厳しい訓練でも、ここまで体を酷使することはないだろう。
何より、ダウロットも農業で強くなったのだ。己自身が証人なのだ。
魔王になってからというものの、ダウロットは魔族たちに「何故そんなに強いのか?」と質問される機会が多くなった。
そんなとき、ダウロットは決まって「野菜さ育ててるからだべ」と返す。
その返答を聞いた者たちはいつも本気で取り合わないのだが、農業こそがダウロットの強さの根源なのだ。農業をするまで、ダウロットは普通の魔族のもとで生まれた、普通の魔族だった。
「リアナさん、少し休憩にすんべ」
「うん、そうだね」
2人は農作業を中断し、畑の淵に腰を下ろす。
「ダウロットさんは、どうして農業を始めようと思ったの?」
晴れ渡る空を眺めながら、リアナはずっと前から気になっていたことを尋ねた。
ダウロットと農業生活を送っていたから、訪ねる機会はいくらでもあった。
ただ、あまりにも密度が濃すぎる日々で完全に頭から抜け落ちていた。
それに、今となってはどうでもいいこと。こうして聞いたのも、ただの気まぐれである。
「んー…… 大した理由があるわけじゃねえぞ。ずっと昔、オラがガキだった頃だな。1匹の魔獣が木の実さ食ってるのを見たんだ。そんときのオラは思っただ。狩をするより、野菜さ育てた方がいつでも腹一杯食えるんでねえかって。それからだな、農業の真似事を始めたのは」
「真似事?」
「んだ、最初は真似事だった。あの頃のオラは、水さえやってりゃ野菜は勝手に育つって思ってたからな」
ダウロットは昔を懐かしむように笑う。
何度も種を植えるけれど、実を付ける前に枯らしてしまうの繰り返し。
忘れもしない、最初の挫折である。
自分ならきっと簡単にできるという自惚れは、跡形もなく粉砕された。思い通りにならないのが、悔しくて悔しくして仕方がなかった。
しかし、ダウロットは諦めが悪かった。
「オラだけで野菜を育てんのは無理なら、人間から農業のやり方さ教わるしかねえって思ったんだ。人間が農業さ詳しいのは、じっちゃんから聞いてたからな」
「そっか、魔族には農業の文化はないもんね。でも、よっぽどの人じゃないと農業を教えてれないと思うんだけど……」
「んだ、人間が魔族のオラを見たら怖がっちまう。農業してる様子を遠くから見て、勉強することにしたんだ」
見ることしかできないから、その行動の一つ一つを理解するのに時間がかかった。
それでも、熱心に勉強した成果もあって、ダウロットは農業の基礎を着実に吸収していった。
「国に帰ってから、人間の世界で学んだことを試してみただ。そしたら、オラの育てた野菜がやっと実さ付けた。そっからだな、オラの農業が始まったのは」
人間から学んだ知識を応用したり、時には自分でどうすればいいのか考えた末、ダウロットの農業は形になっていったのだ。
「側近の前じゃ説教されるから言えねえけんど、オラは人間をソンケイしているだ」
「尊敬……」
「野菜を育てるのにやらなきゃいけないこと、やっちゃダメなことが色々あっけどよ、人間は一からそれを考えたんだべ? オラたち魔族には絶対にできねえことだ」
農業をやっているからこそ、ダウロットは心の底から思うのだ。ゼロから農業という文化を創り上げた人間はすごいと。
「オラ、人間と争いたくなんかねえんだ。人間の領土なんか奪うより、今この土地さ豊かにする方がずっといいべ。さっさと魔王なんか辞めて、農業に戻りてえよ」
その呟きには、不安と寂しさが滲み出ていた。
魔王は副業のようなものだったが、最近は逆転しつつある。次第に魔王城にいる時間が伸びて、畑にいる時間が減っていった。
畑を長時間放置するのは、幼い我が子を家に置き去りにするのを意味する。
それでも、魔王をやめようとは思わなかった。
ダウロットだって、魔族の未来を考えているのだ。そうでなければ、魔王なんてとっくの昔にやめている。
「心配しなくてもいいよ。ダウロットさんが戻ってくるまで、私が畑を守るから」
「ありがとなぁ、リアナ」
それに今は、安心して畑を任せられる人がいる。それはダウロットにとって、何よりの支えだった。
「本当に、魔王なんてすぐ辞めれたらいいのにね」
リアナの言葉は、自分のこと以上に切実だった。
ダウロットと一緒に暮らして、わかったのだ。
力は文句なしなのだろうが、ダウロットの気質は魔王に向いていない。畑で鍬を振っている方が、魔王なんかよりずっと似合っている。
だから、無理して魔王なんてやっているダウロットを思うと、自分のことのように胸が苦しくなる。
野菜の成長を真近で見れないダウロットは、どれだけの寂しさを抱えているのだろうか。きっと、その寂しさは埋められない。
ダウロットが農業に専念できる日が1日でも早く来ることを、リアナは祈った。
†
青空の下、リアナは今日も農作業に勤しむ。
この時期にやるのは剪定作業だ。ある程度の数の野菜を苗から切り離し、残った野菜に栄養を集中させる。そうすると、大きく、美味しく育ってくれるのだ。
当然、切り離した野菜は捨てない。美味しくいただく予定だ。収穫時期は少し早いけれど、調理次第でどうにもでもなる。
今日、畑にダウロットはいない。朝早くに魔王城へ行ってしまった。勇者をどうやって倒すかの会議があるらしい。時間の無駄だと、ダウロットは愚痴を零していた。
笑顔でダウロットを見送ったが、内心は嫌な予感で溢れていた。
今日、何かが起こるかもしれない。
上手く言えないが、いつもと空気が違うのだ。何かが起きる前触れのように張り詰めている。畑を狙いに害獣が飛んできた日も、こんな空気だった。
だけど、ダウロットを引き止めなかった。
ただの思い過ごしに決まっている。それに、ドラゴンくらいなら今のリアナ1人で追い払える。
しかし、リアナの予感は正しかった。
畑に近づく気配がある。それも複数。
また害獣が来たのかと思い、武器代わりの鍬を片手に畑から出る。
「あれ、何で人間がいんの?」
そこにいたのは害獣などではなかった。
驚愕で全身の動きが固まった。
いつかこんな日が来るかもしれないと、頭の片隅でそう思っていた。だけど、いざそんな直面すると、そんな心の準備も無意味であった。
「あんたは、アルバート……!」
勇者アルバート。そして3人の仲間たち。
レイズナー家の没落させ、リアナの父親を死に追いやった原因である。
怒りの炎で感情が昂ぶるのを、リアナは感じた。
しかし、そんなリアナの怒りを目の前にしても、アルバートたちはどこ吹く風である。
「俺のこと知ってるみたいだけど、誰だっけ君?」
「は?」
呆然と呟いた。そうする他なかった。
あれだけのことをして、覚えていないというのか。
お前らの人生なんて、俺にとってはその程度の認識でしかない。言葉でそう伝えられるよりも、ずっと深くリアナの心に刻まれた。
「えっと…… ねえ、誰かこの子を覚えてる?」
リアナが何も言わないので、アルバートは仲間たちに問いかける。
「思い出しました。アルバートシールドを所有していた貴族の娘ですね」
「…………ああ、あいつの娘ね!」
目の前の女が誰なのか、アルバートは仲間の言葉でやっと思い出した。
かつて、娘との結婚を条件に、アルバートシールドを引き渡そうとした貴族がいた。
最初はそれで構わないと思っていたが、肝心の娘の顔が好みではなかった。だから、その貴族がアルバートシールドを武器商人から強奪したように仕立て上げたのだ。
まさかその娘が、こんな場所にいるとは。
人生をめちゃくちゃにした相手が、目の前にいる。しかし、アルバートの心に罪悪感はなかった。昔のやんちゃした記憶という認識でしかないのだから、罪悪感など感じようがない。
「魔族の奴隷にでもなったのかな? それなら俺たちで助けてやろうぜ」
「お優しいところも素敵ですわ、アルバート様」
だからこうして、無神経な言葉が吐けるのだ。
助けてやるなんて、一体どの口が言えるのか。
リアナの怒りの炎は、より一層燃え上がる。
「ついでだし、この畑の野菜も取っていこうぜ」
その言葉を聞いた瞬間、畑を守るという意思が怒りの炎を上回った。
復讐と畑。どちらが大切かなんて、天秤にかけるまでもなく決まっている。
「来るな!」
「!」
リアナの鋭い言葉に、アルバートたちは畑へと向かう足を止める。
「私たちの畑に近づくな! あんたたちにやるものなんて何もない!」
リアナは鍬の刃を向け、アルバートの前に立ちはだかる。
勇者たちの目が、憐れな女を見るものから、薄汚れた裏切り者をみるものへと変わる。
だけど、今のリアナに迷いはない。
今の生活のためなら、勇者と敵対しようが、人類の裏切り者だという誹りを受けようが構わない。
「見下げたものだな。アルバート様の救いの手を払いのけるだけでなく、刃を向けるとは。貴様、魔族に心も体も売り渡したか」
アルバートの仲間の1人、鎧に身を包んだ女騎士が前に出る。
女騎士は鞘から剣を引き抜き、その切っ先をリアナに向ける。
たった1人で勇者とその仲間たちに勝てるのだろうか。畑を守れるのだろうか。
いいや、違う。彼らに勝って、畑を守らなくてはいけないのだ。
「せめてもの情けだ。苦しまないよう、一太刀で葬ってやろう」
言葉が終わると同時に、女騎士は地面を蹴る。
踏み込んだ地面が砕け、風を切る音が響く。
魔族ですら目で追うのがやっとの速さ。
しかし、リアナはその動きがハッキリと見えていた。
あまりに隙だらけなので、逆に罠ではないかと警戒してしまう。
しかし、リアナは自分の感覚を信じて、鍬の柄を思いっきり振り下ろした。
「ぷぎゅ」
見事に女騎士の脳天に直撃し、そのまま地面に崩れ落ちた。
頭に大きなコブを作り、白目を剥いている。生きてはいるが、立ちあがれないのは誰の目から見ても明らかだった。
「……は? う、嘘でしょ!? エリザベスさん、私たちの中で力だけは一番あるんですよ!?」
アルバートたちは狼狽えているが、この中で一番驚いているのはリアナだった。
「もしかして私、すっごく強くなってるの……?」
農業がリアナをここまで強くしてくれたのだ。
自覚はなかった。こうやって戦う機会なんてなかったのだから、それも仕方ないのだが。
「ダウロットさん、ありがとう。これなら守れる……!」
再び鍬を構え、アルバートたちに向き合う。
生きる価値だけでなく、守るための強さまでくれた。今こそ、その恩義に報いなければ。
「何突っ立ってんだ、魔法で吹っ飛ばすんだよ!」
「は、はい……!」
アルバートの怒鳴り声に、杖を持った魔法使いらしき女が魔法を唱えようとする。
「速っ……!?」
彼女が詠唱を口にするよりもずっと早く、リアナは彼女の懐まで距離を詰めた。
「えい!」
「ぎゃひん!?」
鍬で叩いても大丈夫なのか迷った末に── 平手打ちを選んだ。
吹っ飛んだ魔法使いは、頬を腫らして横たわる。
このときのリアナの判断は正しかった。女騎士は鍛えているからこそタンコブで済んだのであって、魔法使いの彼女が鍬の一撃をくらえば、潰れた野菜のような惨状になる。
「ミュ、ミューラまで一瞬で……」
残るは、勇者アルバートともう1人の仲間のみ。
「この…… 調子乗んじゃねえぞ!」
アルバートは代々の勇者が使っていたと伝えられている武器── 聖剣を鞘から引き抜く。
一番強いのは間違いなくアルバートだが、リアナには臆する気持ちはなかった。だってこの男なら、なんの遠慮もなく鍬を振り下ろせる。
金属がぶつかり合う音が響き渡る。
鍬と聖剣が打ち合っているという、卒倒ものの光景が繰り広げられる。
(や、やべえ……!?)
アルバートは精神的にも、物理的にも追い込まれていた。
鍬も大概だが、何よりもおかしいのはリアナの身体能力だ。
聖剣の加護により、何倍にも強化されている身体能力に拮抗── いや、僅かに上回っている。
このまま打ち合えば、負ける。そんな認め難い思考が脳裏を過る。
「待ちなさい!」
声のした方を見れば、勇者の仲間の1人である女神官が畑に杖を向けていた。
「あなた、この畑が大切なんでしょ? 一歩でも動いたら、この畑を燃やしちゃうから!」
炎魔法を使われたら、あっという間に火の手は畑全体に回るだろう。
そんな現実を── ダウロットが深い悲しみに溺れてしまう現実を許容するわけにはいかなかった。
たとえ自分が倒れた後、彼らが畑を燃やさない保証がなかったとしても。
「……わかったわ。だから、畑には手を出さないで」
リアナの手から、鍬が離れる。
鍬が地面に転げ落ちる音が、虚しく響く。
「へへっ、よくやったぜルーア……」
そして、アルバートは下卑た笑みを浮かべる。
「オラァ!」
アルバートの拳がリアナの頬に直撃する。
その衝撃で、リアナは地面に倒れる。
それだけでは飽き足らず、アルバートは倒れたリアナに何度も蹴りを叩き込む。
「よくもやってくれたな! こっからたっぷり嬲ってやるよ! そうだ、帰ったらお前の家族も反逆罪で処刑しねえとな!」
鈍痛の中、リアナは畑を守れなかったことを深く後悔する。
きっと、上手いやりようはいくらでもあった。愚かな自分は、それらを選べなかったというだけで。
(……ごめんなさい、ダウロットさん)
心の中の謝罪がダウロットに届くことは、決してない。それなら、これはただの自己満足だ。
こうして殴られている内はまだしも、聖剣で斬らられれば無事ではすまいだろう。
最後の最後にこんなことしかできない自分が、心底嫌になる。
「おい」
「あ?」
アルバートの肩に厳つい手が置かれた。
「ぐべぇ!?」
誰かと思い、アルバートが振り返ったその瞬間。
アルバートの頬に拳が深く突き刺さる。
そして、その身体と赤々とした飛沫が宙に舞った。
殴られた勢いは地面に落ちても緩まず、アルバートはボールのように何度も地面を跳ねる。
「リアナさんに何してるだ」
リアナの危機を救ったのは、ダウロットだった。
「遅れてすまねえ、リアナさん」
「ダウロットさん……」
鬼のような形相から一転、リアナに向ける顔は優しさに溢れたものだ。
「ひっ……!?」
そして、何が起きたのかわからず呆然としている女神官に向けた顔は、やはり鬼のような形相だった。
ダウロットは一瞬で女神官との距離を詰め、彼女の体を掴む。
「ほぅれ、高い高い!!!」
そして、思いっきり上空へ向かって投げる。悲鳴すらあげる暇もなく、女神官は地表から姿を消した。
ダウロットは上空を眺めながら歩く。
そして、ある地点で立ち止まり、両腕を前に出す。
すると、ダウロットが腕を出した地点に女神官が落ちてきた。
白目を剥き、泡を吹いて気絶している。
上空に投げ飛ばされ、そのまま落ちる恐怖は半端ではないだろう。
よくよく見てみる、股の辺りが濡れている。
飛沫がどこに飛んでったのか、2人は考えないことにした。
ダウロットは女神官を地面に下ろすと、急いでリアナの元へ駆け寄った。
「会議が早く終わったから、帰ってきてみりゃ……! 大丈夫だか、リアナさん!? ああ、こったに泥だらけになって…… 今水さ汲んでくるからな!」
「ダウロットさん、ごめんなさい…… 私だけじゃ畑を守れなかった……」
リアナの謝罪の言葉に、ダウロットは勢いよく首を横に振った。
「謝んなることなんてねえ! リアナさんが無事ならそれでいいだ。畑ならまたいつでも作れるからな」
「ダウロットさん……」
そう言ってくれるダウロットが、誰よりもカッコよく、愛おしく思えた。
最初はきっと、憧れから始まった。そこから無自覚のうちに恋に変わり、そして今、愛に変わったのだろう。
リアナはダウロットに抱きついて、ダウロットも何も言わずに受け入れる。
「待ちやがれ!」
しかし、そんな2人だけの時間に邪魔が入る。
「殺してやる…… 殺してやるよ、クソ魔族が!」
アルバートはまだ気を失っていなかった。
しかし、殴られた側の頬を倍に腫らし、両目からは止めどなく涙が溢れている。その姿は、率直に言えばこの上なくみっともない。
「そういや、なして魔族領に人間がいるだ?」
「ダウロットさん、気をつけて。こいつが勇者なの……!」
「勇者!? あの勇者だか!」
「ああそうだ! この俺こそ、何百年も前からお前ら魔族をぶっ潰してきた勇者なんだよ! 今更後悔しても遅えぞ!」
ダウロットは驚きの声を上げる。
驚いたのは勇者が魔族領に攻め入っていたという事実ではなく、今の勇者の情けなさにだ。
歴代の魔王は、こんなのに負けてきたのか。
「じゃあ、こいつをぶっ倒せば魔王からもやっと解放されるんだな。それに…… いんや、そうでなくとも──」
地面に転がっている鍬を拾い、構える。
その迫力にリアナは息を飲むが、アルバートは半狂乱状態なので気づいていない。
「リアナさんさ殴ったのは、絶対に許さねえ」
「死ねええええええ!!!!」
ダウロットに聖剣が振り下ろされた瞬間、甲高い音が鳴り響いた。
聖剣の刀身は根元から折れて、吹き飛んだ先の地面に突き刺さった。
「…………は?」
「振り方に腰が入ってねえぞ、勇者」
アルバートは聖剣の柄、そして吹き飛んだ刀身へと交互に視線を向ける。
ダウロットが聖剣を折ったという事実に、疑いを挟む余地はなかった。
「……あ、うわああああああぁぁぁ!!?? アルバートソードがああああぁぁぁ!!??」
「あ……あば? 何言ってるだお前」
その悲鳴を聞いたリアナは、アルバートの相変わらずのネーミングセンスに、状況も忘れて呆れてしまった。
聖剣改め、アルバートソードが折れた今、アルバートにかかったいた聖剣の加護も消え失せた。今のアルバートは素の身体能力しか── 年相応の平均的なものでしかない。
「んじゃ、さっさと絞めあげっか」
「ひっ、ひいいいいぃぃぃ!!??」
アルバートはこれまで、挫折知らずの人生を送ってきた。勇者の資格を持って生まれた彼は常に誰かに守られてきた。
だけど今、理解の範疇を超えた存在を目の前にして、人生で初めての恐怖を覚える。
恐怖で腰が抜けたアルバートは、無様に尻から地面に落ちる。
ダウロットは冷たい目で、座り込んだまま必死に後ずさるアルバートに腕を伸ばす。
「く、来るなぁ!!」
アルバートは反射的に盾を構えた。
「おおっ!?」
次の瞬間、ダウロットの腕はバリアで弾かれた。
アルバートにはまだ、伝説の武器が残されている。
アルバートシールド。あらゆる攻撃を弾く魔力のバリアを発生させる、最強の盾である。
今になってその存在を思い出したアルバートは、水を得た魚のように活気を取り戻す。
「……はっ、ははははは!! そうだ、俺にはまだアルバートシールドがあるんだ!!」
「……」
ダウロットは何度も鍬を全力で振り下ろすが、やはり弾かれてしまう。
「どうだ、お前はもう俺に傷一つ付けられねえ!」
勝ち誇るアルバートを尻目に、ダウロットは何度でも盾に向かって鍬を振り下ろす。
「ははは、無駄だった言ってんのがわかんねえのかよ!!学習する頭がねえのか!?」
小さく、何かが割れる音がした。
最初は気のせいだと思ったが、そのあとは次第に大きくなっていく。
「ひ、ヒビぃ!?」
バリアにヒビが入っていた。
気づいた頃にはもう遅い。ヒビはバリア全体まで広がっている。
ダウロットは渾身の力で鍬を振り下ろす。
鍬の刃がバリアに突き立てられる。
ガラスの割れるような音と共に、バリアはいくつもの欠片となって砕け散る。そして、バリアと同じようにアルバートシールドも砕け散る。
今度こそ、アルバートを守るものは何一つなくなった。
「この土地の岩盤の方がまだ歯ごたえがあるだ」
一歩ずつ、ダウロットはアルバートとの距離を詰める。
アルバートの心に、魔王への恐怖がより一層強くなって蘇る。
常に楽をして力を得てきたアルバートの精神が、それに耐えられるはずもなかった。
「わ、わかった! もう金輪際、魔族とは戦わねえ! 約束する!」
アルバートの敗北宣言を聞いても、ダウロットは足を止めない。止める理由がない。
「悪かった、俺が悪かった! ごめんなさい! そ、そうだ! あの女たちを好きにしていいよ! だから、俺だけは、俺だけは助けて!!」
ダウロットは心底蔑んだ目でアルバートを見下ろす。畑に手を出せばどうなるのか、この男は何もわかっていない。
「知らねえなら教えてやる。オラたち農家はな、害獣には容赦しねえんだ」
「う、うわあああああぁぁぁぁ!!???」
アルバートの悲鳴が、青い空に響き渡った。
†
月日が流れ、収穫の時期がやって来た。
苗には丸々と育った野菜が実っている。リアナとダウロットは、その野菜を次々とカゴに入れる。
ずっとずっと、それこそ種を蒔いた瞬間から、今日という日が来るのを心待ちにしていたのだ。彼らの胸にあるのは、無事にここまで育ってくれた感謝と喜びの気持ちだった。
「今年は豊作だな。リアナさんがいるおかげだ」
「そんなことないよ。私なんて最初、何も役に立たなかったし。全部ダウロットさんが頑張ったおかげだよ」
「んなことねえ。やっぱし、1人より2人の方ができることの幅も広くなるだ」
2人は和やかに会話をしながら手を動かす。
「魔王、辞めることができて良かったね」
「んだ。やっとこさ本腰入れて農業できるだ」
ダウロットが勇者を捕らえてから、人間と魔族の関係は大きく変化した。
勇者の敗北。そして、伝説の武器の損失。勇者に頼り切りだった人間たちにとって、それらの要因は敗北を決定的にするものだった。
先祖代々からの悲願であった緑豊かな土地を、魔族はやっと手に入れた。
これが新たな戦争の火種になるのを危惧したダウロットは、領土を奪うにしても、あくまで魔族が不自由なく生きているのに必要な広さまでに留めるように決めた。また農業生活が脅かされるなんて、堪ったものではない。
その決定に不満のある者はいたが、勝ち戦の大英雄の言葉に逆らわなかった。
魔王としての己の役目を終えたと実感したダウロットは、周囲の反対を断固押し切って魔王を辞職した。側近が魔王の座を引き継いでいるが、今でもダウロットの復帰を望む声は多い。
けれど、ダウロットはもう二度と魔王に戻るつもりはない。こうして2人で農業をしているときが、何よりも幸せなのだから。
「勇者はどうなったんだっけ?」
「北で農業させるとか言ってたぞ。あそこの土だと簡単に野菜は育たねえと思うんだがなあ」
「そんな場所で大変だね。同情はしないけど」
アルバートは今も遥か北方の領土で、農作業を科されている。
ただ、農作業というのは建前で、実際は死刑執行と変わらない。
北方は魔族ですら根を上げるほど過酷な環境なのだ。人間のアルバートが耐えられるはずもない。今ではどうなっているか知る術もないが、死ぬほど辛い目に遭っているのは間違いない。
アルバートの仲間たちは、せめてもの温情で人間の領土へ帰ることを許された。戦犯と呼んでもいい彼女たちを、人間たちが迎え入れるかどうかは別の話であるが。
ちなみに、伝説の武器はドロドロに溶かされて、ダウロットの新しい鍬として生まれ変わっている。どんな土でも軽々と耕せる高性能の鍬だ。
聖剣の加護や盾の性能が残っているかどうか、今となっては知りようもない。
「それにしても、まさかみんなで農業をする日が来るとは思わなかっただなあ」
多数の魔族が、人間から奪った領土── 新魔族領に移住した。
その一方で、旧魔族領に残った魔族も少なくない。
勇者を打ち倒すという、魔族史上永久に語り継がれるであろう偉業を成し遂げたダウロットに倣って、農業を始めたのだ。今も別の畑で、ダウロットやリアナの教えを受けながら作物を育てている。
「やっぱり嬉しい?」
「そりゃ嬉しいけんど、ちょっと複雑でもあるだな。農業をやりたい理由が、魔王だったオラに憧れたからなんだべ? 贅沢を言やぁ、農業自体に魅力さ感じてほしかっただよ」
「大丈夫。みんな、農業の楽しさに気づいてるよ」
「……ああ、そうだな。リアナさんの言うとおりだ」
憧れだけで続けられるほど、農業は甘くない。
それでも多くの魔族が農業を続け、着実に畑が広がっているということは、つまりはそういうことなのだろう。
いつの日か、荒れ果てた旧魔族領の大部分を農地にできるかもしれない。
そんな、ずっと昔に描いた絵空事に過ぎない夢がほんの少しだけ現実味を帯びて、ダウロットは小さく笑った。
「おっと、喋ってばっかじゃいられねえだ。日が暮れる前に終わらせるだよ」
「わかってますって」
話していた時間を取り戻すべく、2人は収穫作業に戻る。
ふと、採れたての野菜を眺めて、リアナは思う。
ここまで来るのに、たくさんの紆余曲折があった。こんな数奇な人生を歩むことになるなんて夢にも思わなかった。
悲しいことも、辛いこともあった。死にたくなることもあった。
だけど今は、幸せだと胸を張って言える。生きてて良かったと心の底から言える。
そう言えるようにしてくれたのは、間違いなくダウロットのおかげだ。
ダウロットから受け取ったものは、返しきれないほどある。そして、これから先もどんどん増えていくのだろう。
だからリアナは、一生を懸けてダウロットから受け取ったものを返していくつもりだ。
「ダウロットさん」
「ん、どした?」
「不束者ですが、これからもよろしくお願いします」
「……こちらこそ、オラは農業ばっかの男だけど、よろしくお願いしますだ」
2人の行く末を見守るように、丸々と実った野菜は苗にぶら下がっていた。
この場を借りてご報告いたしますが、拙作「悪役令嬢に仕立て上げられた私は、魔王と一緒にスローライフを送ることにします」がコミカライズされました。嬉しいです。
本日発売されます「婚約破棄されましたが、幸せに暮らしておりますわ!アンソロジーコミック」に収録されています。
私も当該作品の作成に携わらせていただきましたが、ぶっちゃけ言いますと、小説より面白くなっています。小説とはまた違った部分もございますので、既に小説をお読みいただけた方にも、楽しめる内容かと思います。
冒頭だけちょい見せします。広告用のページなので、ご心配いりません。
続きが気になった方は、是非ご購入を検討いただければと思います。
最後となりますが、コミカライズのお声をかけていただけたのも、ひとえに読者様の皆様の応援があったからこそです。本当にありがとうございます。
私も精進いたしますので、引き続き応援のほどよろしくお願いします。