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アオイハル  作者: ぽた
第1章
8/8

「タイトルだけで惹かれ――」


 言いかけて、止まった。

 あらすじ、と前置かれた文章群のトップには、二人の登場人物の名前が書かれている。

 一人はトシ。一人はハル。

 それだけで、千春はこれがどんな内容であるのかを察した。


「リアルさに欠ける、か……付き合ってた頃は、とってもいい関係だったと思うんだけどなぁ。色々あったし、確かに好きだったし」


「"だった"か? それからもずっと変わらずいつも通りで、今もこうして付き合ってるぞ」


「まぁね。読んでも良い?」


「その為に開いた。半分は俺の妄想だけどな。俺たちのそれじゃあ、小説になるような結論はなかったからよ」


「道程には色々とあったんだけどね」


 そう呟いて、千春は文字に没頭し始めた。


 ワープロ原稿でおよそ百頁。一気に読むには、とてもではないが長いものであるというのに、千春はそれすらお構いなしに頁を進めていく。

 穏やかだった表情は真剣そのもの。

 文字を追うごとにころころと変わっていくそれは、俺の書いたもののどこを読んでいるのだろう、と想像させて飽きない。


 千春は存外と読みが速く、どんどん頁は進んでいく。

 進む度、見たことがないような表情も見せてくれる。

 本を読む千春の姿なんて見たことがなかったから全てが新鮮で、その真剣な眼差しに俺はつい見惚れてしまった。

 目を離せず、意識を逸らさず、何か言葉を発することも出来ぬまま。


 どうにも没頭し切って離れない千春に変わって、俺は一旦鍋の火を止めておいた。

 続けて読みながらも「ありがと」とこちらの動きにも意識はいっている様子である。






「ねぇ」


 どれくらい経った頃だろうか、

 ふと千春が口を開いた。


 何か、と問うと千春は、


「この妄想って、こうなれば良いなって妄想? それとも、物語の中だけの妄想?」


 千春が読んでいるのは、もう物語も終盤。

 誰に見せるとも思っていなかった俺は、その話の最後を、老後死ぬまで描いている。

 元より親しかった幼馴染と結ばれて、夫のトシが死ぬまで。


 妄想――いや、違うな。

 これは、この物語は、俺の理想だ。

 気の合う見知った人と結婚して、一緒に暮らして、そのまま何か問題があっても別れずに最期を迎えるというのは、俺の理想なのだ。


 俺は正直にそう告白した。

 当たり障りのない普通の人生を送って、その最後は愛した者に見送られるのが良い、と。


 すると、千春は一呼吸置いて、


「大好き――」


 そう、呟いた。


「小説としてちゃんとしてて、要素が多いのに五月蝿くない。かといってつまらなくもない満足感があるし、何より文章力もある」


「――そりゃどーも」


「ほんとだよ? 実はって言うか、私って本ばっかり読んでるような人だし。ここに来てからはちょっとばかりご無沙汰だけど」


 それは意外だ。

 幼少の頃の記憶で覚えているものといえば、千春と外を駆け回っている図ばかり。

 同じ中学だったから知っているが千春は運動部だったし、高校でも確かそれを続けていた筈。だから何、というわけてもないが、イメージ上ではとてもそうは思えない。


 千春はそこまで語って落ち着くと「あっ」と声をあげた。

 何かと問うより早く、俺もその存在に気付く。


「鍋、忘れてたな」


「だね。後は食べながらにしよ」


 苦く笑い合って、鍋に火を点け直した。


 ぐつぐつという音と共に美味しそうな香りが届く。

 すると、一度蓋を開けた俺に千春が声をかけてきた。


「ほんとに、これから先でデビューすることとか考えてないの?」


 その問いに対するちゃんとした答えを、俺は持っていない。

 どうにも拭いきれはしないが、どうにも離れきろうとすることも出来ないまま。書いてはいないが本も読むし、たまに物語を想像するだけ想像したりもする。


「どうだろうな。きっぱりと出来ない俺も俺だが、書いてないのも事実。正直なところ、目標って意味の夢じゃなくて、眠っている時に見る夢って感じだ」


「現実味ない?」


「少なくとも俺が思う限りでは、な」


 それすらも曖昧でグラグラな考えだが。


 そも、元より向いていないという説まであると思う。背伸びをし過ぎた、高い理想に手をかけようとした、烏滸がましい愚行だったのではないか、と。


「あんたが私の彼氏だからって点を抜きにして辛く言っても、私はこれに魅力があるって思うな。王道でありながら王道でない、絶妙なストーリー加減に文章力」


「過大評価だろ」


「過小評価だよ。表紙のついたものを見てみたい」


 それは言い過ぎである。

 一次選考にすらかかってない奴の物に限って、それは流石に夢を見過ぎだ。

 理想は理想、夢は夢。


 皿に取り分けて手渡すと、千春は「ありがと」と言いながら、俺の分が取り終わるのを待つ。

 それも終えると、いつも通り揃っていたたきます。

 自分だけ先に食べ始めるのは何だか悪い気が、というのが千春の言い分だ。


 一口目で「美味しい」とご満悦な千春を見届けると、俺も遅れて一口。流石は市販品。美味い。


「そう言う千春の夢は? さっき、言いかけて俺の話になっちゃったから」


「私の? うーん」


 長考。

 しかしその甲斐なく、返答としては「ない」というものだった。


「夢とか、ないかな。強いて挙げるなら一個だけあったんだけど、それももう叶ってるようなものだし」


「叶ってる? 柄にもなく"お嫁さん"とか女の子らしいことでも口にするか?」


「それはちょっと酷いけど、まぁ似たようなものではあるかな」


 茶化す俺に、千春は努めて冷静に、至って真面目に、微笑みを浮かべて一言だけ。


「普通の暮らし」


 瞬間、世界が止まるような感覚に襲われた。

 部屋を満たす空気は冷たく、俺の内側は熱く、いつも通りではいられなくなるような、おかしな感覚に。


 普通の暮らし。

 たったの一言に、どれだけの意味が込められているのか。

 一体、どれだけの苦渋があれば、そんな言葉を口に出来るのか。

 それの一端を知ってしまっているだけに、俺は何も言葉が返せない。


「お母さんが亡くなった時、悟志が"いつでもうちに来い"って言ってくれたこと、ほんとに嬉しかった。お菓子を分けてくれて、遊んでくれて、美優ちゃんともおばさんとも仲良く出来てーー何を返しても返し足りない」


「千春…」


「悟志はたまに"お互い様だ"って言うけど、私は悟志たちから愛情をいっぱい貰った。お父さんはくれない愛情を、際限なく分けて貰った」


 まだあれのことを"お父さん"と呼んでしまう千春が、俺はどうにも可哀想でならない。

 それでも――それよりも大きな笑みを浮かべ、


「こんなに恵まれた環境はないよ。大好き、悟志。ほんとにありがとね」


 よく知っている。

 俺だって似たような気持ちになることはあるが、千春は心からそれを言っていることを知っている。

 千春は優しいから、人そのものを非難しないことを知っている。

 その目から流れる小さく温かい雫の意味を――よく知っている。


 贅沢でもないその望みが、千春にとってはどれだけの意味を持つのか。

 高いものは決して望んでないただそれだけのことが、どれだけ与えられて来なかったのか。

 間近で見てきた。

 すぐ傍で触れてきた。

 だから、分かった気でいた。


「俺は――知らなかった。お前の助けになっていたつもりが、その端っこしか知らなかったなんてな。お前の思う悩みが、夢が、俺の想像していた以上だったなんて。悪いな」


「そう思ってる以上の気持ちを、私は貰ってるつもりだよ。だから、大丈夫」


「……そっか」


「うん。この数ヶ月間、私は凄く幸せだよ。幸せだし、楽しいし、何より嬉しい。唯一理解してくれる幼馴染と一緒にこうして笑えてる今が、とっても嬉しい」


「それは贅沢な話だな」


「あんたんとこよ、全部。あんたと美優ちゃん、おばさんから貰ったもの。何より大切な宝物よ」


 そう言って、千春は明るく笑って見せた。


 やっぱり、どう頑張ってもあのことだけは拭えない。元よりその必要すらないが、何とか考えないでいい時間を作ってあげたい。

 俺か美優か、仕事か、母親でもいい、何でもいいから、千春があれのことを考えないで済む時間を――


 そう願うのは傲慢だ。

 勝手に言ってるだけの、自己満足でしかないことも分かってる。

 でも、本人にそんなことを言ってしまったら、それこそその瞬間に考えさせているだけになる。考えないでと願いながら、自ずと考えさせているだけだ。

 ひたすら喋って、ひたすら表情を変えさせて――


「無理だよ」


 ふと、千春が呟いた。


「悟志の考えてることくらい、分かるよ」


「――何が?」


「楽しい話をしてる時、私にはなかったって思う。夢を語ると、私にはないって思う。過去の話をすれば思い出すし、買い物なんかすれば私は買ってもらったことなかったなって思う」


「それじゃあ…」


「ううん、いいの。許すことなんて出来ないし、忘れられもしないけど、それ込みで、それ以上に、私は今ちゃんと幸せだから」


 堂々たる態度。

 そんな言葉が、感情が、よもやまだ零れ落ちようとは。

 とっくに欠落していてもおかしくないような体験をしていて、これほど早く飲み込もうと考えつけようとは。


「私は、今の私と周りが大好き。それだけで――」


 言いかけた言葉は最後まで続かなかった。

 いや、俺がそうさせた。


 折れてもいい――とばかりの力で、俺は千春を強く抱き寄せた。

 千春は驚きに声を上げるが、今はそちらにも意識が向かない。


 ただ何となく――そう、何となく、それは最後まで言って欲しくなくて、けれども大声で黙らせるのは違って、俺は何となくそんな行動を取った。


「悟志は優しいね」


「お前にゃ負ける。どんだけお人好しだ、ばか」


「ばか、か。そう言えば、悟志からは言われたことなかったっけ」


「何度もあるぞ」


「愛のあるばかだよ。貰ったことはない」


 呟いて、千春も俺の背に腕を回した。

 優しく抱き返して、きゅっとシャツを強く握った。


「私……私ね、ほんとはも一個だけ夢がある」


「叶いそうなことなら聞いてやる」


 聞くだけならタダ。

 とは言っても、今なら何だって――


「子どもが欲しいな。温かい家庭を、自分で作るの」


 何だって――叶いそうな願いではあった。

 遠くか近くか誰かと結婚して、その人と愛を育んで、子どもを作って。


 いや。そうじゃないか。

 こいつの言う子どもってやつは――


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