”色彩”
「行ってきます」
一人でいる時はしばらく口にしていなかった言葉が、今は自然と口を打つようになっていた。
帰る家に誰か一人いるだけで、こうも生活の根本的なものが変わるとは、まるで思ってもいなかったな。
あれ以来、千春も少しずつマシになっていって、今では不自然ながらも自然と笑えるようになっている。
与えている、と言っては聞こえが悪いが、俺はただとりあえずの居場所を提供しているだけで、何か克服するところは自分の力でどうにかしているらしい。
とは言え、それも一時のものか、あるいはただ押さえつけているだけか、何れにせよぐらついて不安定なことに変わりはない。
忘れろ、とは間違っても言わないが、少しでも気が楽になるよう俺がサポートしないと。
そう意気込む俺に、美優は「無理のし過ぎはダメ」だと言うが、ある意味俺にも責任というものはあるかは、そうは言っていられないのが本音だ。
「行ってらっしゃい。野菜の余り多いし、今日はお鍋にしよっか」
「いいな。帰り、何ぞ適当に安い肉でも買ってくるよ」
「大学帰りに私が行くけど――まぁいっか。それじゃあ甘えるね。ありがと」
「おう」
頷き、靴を履く。
千春はまだ在学中なので、家事的なことは二人で適当にやっている。
押し付けることなく、かといって譲り合い過ぎることもなく、互いに足並み揃えて少しずつ分け合って。
家を出ると、初冬の冷たい風が頬を撫でていった。
寒さに少し身を震わせながらも、マフラーやコートを出すにはまだ早いかな、なんて思う。
歩き始めは身体が固まっていて、思うほど前には進んでいかない。それでも無理やり、何とか足を踏み込んでいくと、少しずつ温まっていく。
「今日は鍋か…」
寒い日には、みぞれ鍋なんていうのも良さそうだ。
そんなことを考えながらの出勤。
「その後、彼女さんとはどうなんだ?」
昼休憩。
唐突に田中さんが尋ねてきた。
都合、縁があって少しだけ事情を知っている田中さんは、たまにこうして俺たちの仲を心配してくれている。
俺が折れるか愛想をつかされてしまえば千春は終わる――と、気負う俺に、美優と同じく「あまり悩み過ぎないように精々頑張れ」と言ってくれたこともあった。
「ボチボチ、ですね。以前のように、と強くは言えませんが、随分と笑ってくれるようになった」
「それは結構なことじゃないか。
あの子自身の強さもあろうが、お前もちゃんと支えられている結果だろ」
「だと良いんですけど…正直なところ、あいつの力になれているかっていうのは、あまり実感はないですね」
「結果だけ見て認めてやることも、たまには重要なもんだぞ。出なけりゃ、心が折れちまうこともあるわな」
「結果――今あいつが笑ってる結果、か…」
それは大いに喜ばしいことだ。
そこに俺の力が一パーセントでも影響しているのなら――素直に嬉しいな。
「その顔だ」
ふと、田中さんが俺の顔を指差した。
え、と聞き返す俺に、
「その顔が出来りゃ上出来だ。それさえ忘れなけりゃ、上手くやっていけるさ」
その顔。俺の顔。
ふと触れた自分の口元は、僅かではあるが綻んでいた。
緩やかなカーブを描いた唇は、俺が笑っている証拠。
「まぁまだ若いんだ。事情を詳しく聞こうとはせんが…時間かけてゆっくりでもいい。少しずつでも、確実に良くなっていけたら良いんだ」
田中さんはそう言って括った。
少しずつ、か。その通りだな。
無理に多くをやろうとすれば、必ずどこかでどれかを零していく。零すくらいなら、失うくらいなら、遠回りでも一つずつ、確実に。
飲み込んだ俺を見送って、田中さんは「次行くぞ」とトラックのエンジンをかけた。
一件、また一件と回るうち、仕事の頭になるとそれも一時忘れていく。
挨拶をして判子をもらって、荷物を渡してまた挨拶をして。
繰り返し、繰り返し。
夕暮れ時。
最後の二件だと名前を確認したところ、久方ぶりにあの屋敷が含まれていた。
また彼女の言葉を思い出して、どうにも悩まされる。
夢。
俺の――一度は手放した、俺の夢は。
千春にも、まして家族にも話さなかった夢が、俺にも一つだけあった。
とうの昔に諦めたものだったが「いつかは――」と願う自分がいることも分かっていた。
それをまた追いかけ直すのも有りは有りだ。まだ若い、と田中さんにも言われたばかり。
しかし。
今一番大切なのは、千春のことだ。
安い同情なんかではなく、俺が自分で守ると決めた以上、どこかでけじめが着くまで手放すことは出来ない。
仕事終わりの夜、休日を、それに費やしてしまっては、千春を守りきれなくなる予感がある。
「夢、かーー」
ふと声に出して呟くと、隣でハンドルを握る田中さんがどうしたと尋ねてきた。
「これから行く例の屋敷。そこの娘さんに言われたんです。小さなものですが、背を高くするのが夢なんだって」
「夢?」
「ええ。俺にも、昔抱いていた夢があるんですけど、それはもう――みたいな。自分で決めた千春のこともありますし」
「夢か。夢ねぇ…良いじゃねえか、追えばよ」
正面は窓ガラスの向こう側に見える景色に集中しながら、田中さんがそんなことを言った。
「何歳になっても、夢は夢だ。自分のやりたいことだ。それに――」
一呼吸置いて。
「なんなら、彼女と追うのも良いだろ。二人三脚を決めたんなら、一緒に出来る何か一つくらい ねぇとな」
「一緒に出来る…?」
「そりゃあそうだろ。ただ守る守られるだけの関係じゃダメだ。なまじ彼氏彼女だってんなら、その子の幸せを願うなら、せめて楽しくなきゃいけねぇ」
「それは――いえ。その通りですね」
まったくもって。
「互いにわがままも言えねぇ関係は、ただの主人と犬だ。そんなの嫌だろ?」
「ちゃんと男で、好きな女の子です」
「なら、一つくらいはな。叶わなかったら叶わなかったで、叶ったら叶っただ。良いじゃねえか」
どちらに転ぶかはその人たち次第。
どちらに転んでも、良いか悪いかを決めるのもその人たち次第。
だから甘えて、我儘も言って、それをある程度許容出来る関係性でなければ、ただの主従。
なるほど、言い得て妙だ。
「ま、ひいては相談や願いじゃなくても、日常的な会話で夢を語ってみるこった。あの子はいい子だからな、大いに賛同してくれるだろうよ」
「話してみないことには、ですかね。まだ誰にも言ったことないですから」
「そうなのか? 勿体ねぇ。俺はこれになるんだって堂々と宣言して後に退けなくなったら、あるは否が応でも叶いそうなもんだぞ」
「軽く言ってくれますね」
「俺は一度は叶えた側の人間だからな」
今は外れているのか。
聞きながら、失礼にもそんなことを思った。
「それで、お前の夢ってやつは?」
話さなきゃダメな空気。走行中の車内は、生憎と逃げ場がない。
まぁ、恥ずかしいものではないし。
誰にも何かしらあって、それを公言出来るくらいじゃなきゃ叶うものも叶わない。
だから俺はーーなのかな。
笑われる覚悟で息を吸い込む。
「俺の夢は――」
「小説家?」
千春だ。
屋敷へ届け物をして帰り、一息ついた後。
鍋が煮えるのを待ちながら、ふと千春に俺の夢について語ってみた。
ただ何となく流れで、ではなく、千春の方から”夢”に関する話題が出た為に、つい口をついてしまったようなものなのだ。
「大学をやめる前、何度か新人賞にも応募した。ラノベじゃなくて、推理とか恋愛とかの純文学」
「へぇ、意外」
「まぁそうだろうな。何せ経験値が全然ねぇんだもんよ。選考ではいつも”リアルさに欠ける”って蹴られたもんだ」
「リアルさって。いやいや、妄想や想像を自由に創作出来るのが、文学の良いところだって私は思うんだけど」
「それを前提とした賞だったんだ。受け取り方次第ってな。まぁ泣く泣く夢を諦めた訳だが」
そうそう忘れられようはずもなく。
過去に抱いていた夢ではあるが、どこかまだ、それに憧れを抱いている自分がいる。
自由に、好きなことを好きなように綴って、それに同意してくれる人が買ってくれて、何か感じ取ってくれて――言葉で言うのは簡単だが、それは死ぬほど嬉しいことなのだ。
自分と同じ感性の共有、あるいは違う感性のぶつけ合い、そんなものが絡み合うのが小説だ。
「認めて貰えなくても、独善的だって貶されても、自分の正直な文字を出せるって良いなって思って」
「小説家か――」
千春はどこか遠くを見るような目で頬杖をつき、息を吐いた。
呆れられたか――といった勘繰りは、ものの見事にお門違い。
少し間を置いた千春は、
「悟志の書いた文章なら、私幾らでも出せる自身あるかも。読んだことないけど」
そんなことを言い放った。
「凄く優しくて、凄く色々考えてて――っていう頭を文字に起こした時、すっごくいい作品が生まれるような気がするよ」
「そうか…?」
「うん。ひいては、今まで没になった作品群を見てみたいかも。データとか残ってないの?」
答えとしては、あるにはある。
ネット応募だった故、ワープロに打ち込んだデータはそのままパソコン上に残っているのだ。
しかし――
「笑わないか?」
少し、不安ではある。
認められもせず、結果も残せなかった俺の文章が、それほど良いものだとは世辞にも言い辛い。
「頑張って賞にも出した全力を嗤うような真似、私は絶対にしない。約束を破ったら、お風呂掃除と洗濯を毎日請け負ってもいいよ」
「そこまでの覚悟はいらんが――やっぱり、お前ってすげぇ良い奴だよ」
「今更だよ」
優しくはにかんでみせる。
思わず息を呑む俺に、千春はそのまま「見せて」と追随して来た。
ノートパソコンを立ち上げて、フォルダ名は”創作関係”をクリック。
没、未完成含め、百を超えるデータが表示される。
すると、千春は顔が当たるか程度のところまで乗り出した。
「凄いね。これ全部あんたが?」
「まぁな」
「ふぅん……嫌なことは言わない、一番自信のあったやつだけ読ませて」
「おう」
短く応じて、俺はスクロールしていく。
恋愛もの、お仕事もの、推理ものにファンタジーにまで手を出した。
あれやこれやと試作していた頃が懐かしい。
一次選考すら通ったことはないが、どれも良い思い出だ。
その、丁度中盤辺り。
ふと顔を出したそれにカーソルを合わせると、千春がそれを口にする。
何より一番の自信作。
リアルさに欠ける、なんて言い分を、飽きる程に何度もクソだと繰り返し口にした、俺がこいつと付き合っていた時分のことをもじった、夢物語。
「”色彩”」
カチ、カチ。