傷だらけの身体
「楽しかった楽しかった。満足だよ。ありがとね、美優ちゃん」
礼なんて言いっこなしだ。
散々世話になった俺だが、それは美優も例外ではないのだから。
小さい頃から何かと気にかけてくれていて、漏れなく優しくて。美優が千春のことを”千春お姉ちゃん”と呼ぶのは、それがただ歳上の仲良しだからではなく、本当にそう思えるような間柄であるからだ。
千春の言葉に美優は首を振ると、私も楽しかったから、と一言。
気分的にも実感的にも、それは本音なんだろうと思う。
「悟志も。ほんと、何から何までありがと」
「気にすんな。事情を知っちまった以上は無視なんて出来ないし、加えて知っちまった美優だって、これからは通い詰めになりそうだ」
「よく分かってるね兄さん。勿論、私もお手伝いに行くよ」
明るく微笑む美優。
それに何度救われたことか――とか思ってるんだろうな、千春のやつ。
美優の笑顔は底なしだからな。
それに、救い救われる相互関係。それが、俺たちなのだから。
「さて。んじゃあとはアパートの解約だな」
「うん。ごめんね、ほんと。面倒なら後日でも――」
「こういうもんはきっぱりと直ぐやるに限る。例え明日だろうと、ちらつくのは嫌だろ?」
「うん……じゃあ、ありがと」
「おう」
素直な礼には素直な心で。
惜しみない助けで以って答えようと思う。
諸々と終えて家に戻る俺たち。
その道すがら、車中ではずっと二人が楽しそうに会話をしていた。
拭えはしないだろうが、少しでも元気になってくれたのなら、それは何よりの儲けだ。今日一日で使った金額なんてすぐに忘れて――それは無理か。
何にせよ、明るい笑顔の失われない内が花だ。
「もうちょっとで着くぞ」
「うん。運転まで任せっきりでごめんね、ありがと」
「気にしないで千春お姉ちゃん。自分から”助けになってやる”って言い出したんだもん、甘えたって誰も文句は言わないって」
まったく、勝手なことを言う妹だ。
それを嫌だとも思わない俺も俺だが。
最後の曲がり角。
ここを左折すれば、俺のアパートが見えて――
「ま、まっすぐ…!」
「は…? いや家はこっち――」
「良いから、真っ直ぐ行ってってば…!」
「何なんだよ…」
突如として声を荒げる千春に、俺は抗えずそのまま通りを過ぎていく。
と、後ろでは千春が美優を屈ませていた。
一体何が。
千春が恐れた左方へ、消え入る間際にちらと視線を向けて見た。
アパートより少し奧――歩いているから止まっている訳ではないのだろうが、小太りの男性が一人、こちらに向かっていた。
見たことのないシルエット。他には誰もおらず、何もない。
ただ――
(あの顔……親父さんか…!?)
昔のしゅっとした面影は何処へやら。
随分と丸くなったシルエットの顔だけは、よくよく見慣れたものだった。
(なんでここに……あの様子、偶然か…)
すぐ横にあるアパートには目をくれず、ただ歩いているだけ。
たまたまここに差し掛かったということか。
しかし、それにしても気味が悪いことには変わりない。
位置取り的には、ついさっき解約してきたアパート、俺たちの家、その更に進んだところにこのアパートだ。
千春の住んでいた所を探そうとするのならまだ分かるが、ここのいるのは可笑しい。仕事だって、この三つをおおよそ直線で結んだ線を直角に移動する形で出勤していっていた筈だ。
どうにもおかしい。
「ビジネスホテルでも探すぞ。とりあえず駅前に行こう」
「う、うん…」
消耗しきった声。
事態も分からず疑問符を浮かべる美優だけは、いつも通りのテンションで「うん」と頷いた。
しかし、これは非常にマズい。
迂闊に外も出歩けないではないか。
高々年に一度しか通らないような確率であったとしても、それで見つかってしまえば終わりなのだ
まず安全だ、なんて言い張ったここが、こんなにあっさり崩れよう展開を迎えかけようとは、まったく笑えない話である。
「とりあえず――」
辿り着いたのは、郊外にあるラブホテル。
知っているビジネスホテル、及び漫喫は軒並み満員で、それでもどこか――となれば、ここくらいしか泊まれる場所がなかったのだ。
実家が隣同士なだけに、俺の家に止まらせることも叶う筈もない。
足を踏み入れると、感じたこともない異様な空気が流れていた。
丁度俺たちだけだったから、余裕を持って行動出来るのは幸いではあるが。
「一番安い部屋にしておこう。ベッドは二人で使ってくれ、俺は床でいい」
「う、うん…」
すっかり虚ろな目に戻ってしまった千春の同意を以って、俺は件の最安値部屋を手配する。
そのまま進み、少し先でエレベータのボタンを押した。
『三人だぞ』
『ラブホで女二人抱くとかやば』
すぐ背後から聞こえたそんな野次。
勝手に言ってろ。こんな状態にある幼馴染と実の妹に手を出すような真似、例え億額貰えようとも絶対にしない。
どう間違えても、興奮なんて出来ようはずもない。
そう意気込む俺とは裏腹に。
耳にも入っていない様子の千春は、ずっと俯いて影を落としている。つい先日のことを思い出しているのだろう――それもそうか。仲の良い美優と一緒にいて少しくらい紛れようとも、一時のものに過ぎないのは至極当然のことだ。
その美優は――
「私、我慢できるよ、兄さん。千春お姉ちゃんを護る為だもん」
流石に高校生ともなれば、自然大人な知識も入ってはいるのだろう。
どうにもはっきりとしない複雑な表情をしながら、しかし強気に拳を握って、耳を打った後方からの言葉に抵抗してみせている。
「――お前はほんと、よく出来た妹だよ」
そう呟くと同時。
エレベータが到着して、千春を支えながら乗り込んだ。
そして分厚いドアが閉まると、鬱陶しい喧噪は途端に聴こえなくなった。
千春の表情こそ変わらないが、美優はふぅと息を吐いている。
程なくして指定した階に着くと、迷わず足早に部屋を目指した。
たまにまた鬱陶しい喘ぎも聴こえるが、すれ違う者もなく、何とか辿り着いた。
靴を脱ぎ、もう言葉も通じなくなりかけていた千春も無理やり脱がすと、とりあえず風呂に放って落ち着かせることに決めた。
流石に、と美優に任せて浴室に向かわせる。
目は映ろ。足取りもぎこちなく。
「千春…! とりあえず立て、立ってシャワーだけでも浴びてこい…!」
眉一つ動かない。
「くっそ…!」
美優と二人で浴室まで運んで、なるべく見ないように――なんて配慮も忘れたままに服を脱がしていく。
と、最後に下着まで剥いだところで、俺は美優と同じタイミングで息を呑んだ。
露わになった胸元には痣。背中には蚯蚓腫れ、陰部は少しばかり腫れたまま。
先日――いやそれまで受けた行為の全てが、その細い身体には夥しい程に刻まれていた。
「望結…」
「千春お姉ちゃん…なに、これ…」
「望結…!」
「兄さん…これ、やだ…見たらダメだよ…!」
「適当に泡付けるだけでも湯をかけるだけでもいいから、早く…!」
「で、でも…」
流石にきつ過ぎたか。
怒鳴った非礼を詫びるより早く、代わりに素手にボディソープを付けて洗い、シャワーでざっと流した。
シャンプーも手短に手早く。
どうしたら、いい年の女の子がこんなに華奢に――
考えるよりも、泡が中度半端に残ったままの千春を抱き上げ、水気も拭き取らずにベッドの上へ。
どうせ汚れる空間だ、どれだけ濡らそうとも文句は言われまい。
「悪い、望結。お前に任せた俺の間違いだ」
「う、ううん、私は……それより、千春お姉ちゃんの身体…聞いてたよりも酷いよ」
「――あぁ。俺も、見たのはこれが初めてだ」
行き場のない不安と怒りは、溜息となって盛大に零れた。
例え嘘でも、よく俺を行為に誘ったものだ――とも思ったのだが。
千春に言わせれば俺は真面目過ぎるらしい。断られることを知っていて、いや、ともすればそれが狙いで、わざわざあんな行動に出たのだろう。
気を許した俺にも見られたくないものを、自ら”見ない”と宣言させる為に。
「千春…」
どれだけ傷ついても、身内以上に信じられない他人を信じるなんて、お前は本当に馬鹿だ。