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アオイハル  作者: ぽた
序章
3/8

千春に関するあれとこれ

 正解か不正解か。

 どちらかは、正直なところ分からない。

 ただ、彼女が気にするなと笑ってくれたことは、俺の中で何かが綻んだきっかけにはなっている。

 と、思う。


 気にしていないと言葉でいうのも、実は裏側で気にしていたのも、彼女にとってはどちらも本当なんだろう。


「ま、上手くいったんなら良かったんじゃない?」


 いつものアパートの一室。

 バッグ持ちで当然のように上がり込んできた千春に、事の顛末を一応は語っておいた。

 よくよく聞けば、千春も実は「正直心配だったから」というのが本音らしかった。


「まぁ、とりあえずはな」


「とりあえずでも、解決は解決だよ。あんたの良い人オーラが伝わってて良かったじゃん」


 微妙な言い分ではあった。


 ーー微妙と言えば。


「ちと気になることがあってな。その子、首筋に痣みたいなのがあるんだけど、母親がうっかり口にした瞬間、圧をかけるみたいに止めたんだ」


「あざ?」


「うん、痣。よくは分からんが」


 首筋にある痣。

 詳しくは語られず、こちらも深くは追求しなかったが、確かにそこにあった痣について、俺は見たままのことを話した。

 他言無用、なんだろうけどな。


「ふぅん。それが気になるの?」


「気になるっていうか――まぁ他人だから、口出しする気もないんだけどな」


「その子が気になるの?」


「気になる気にならないって言えば、気にな――は、いや待て、そんな話してないだろ」


「私にはまだ好きだって言いながら、宅配先の女の子な惚れちゃったんだ」


「なぁ千春」


「ちょっと傷つくなぁ。そりゃあ別れはしたけどさ。私だって――」


「千春…!」


 少しばかり怒鳴ってしまった。

 怒鳴ってしまったら、千春ははっと黙り込んだ。


「今日はちょっと変だ。何かあったんじゃないのか?」


「何かって?」


「お前が話さないなら俺は分からん。必要ないなら話さなくても良いけど、それだと何か気になるんだよ」


 昔からそうだ。

 何かあったとき、あるいは近い未来で何かがあるとか、千春は決まってこの表情でこの態度を取る。

 わざとらしく俺を弄るようなふりをするのだ。


 しばらく黙って見ていると、不意に「いやぁ」と頬を掻きながら零した。


「今日さ、周りの子らがみんな卒業した卒業したってうるさくてさ。あんたと二人きりでいるのを変に意識しちゃうんだよね」


「ふうん」


「あれ、あんまり驚かない感じ?」


「まぁな」


「そう、なんだ……まぁそれでちょっとね」


 そう言い放つ千春も、どこかこともなげな感じだ。


 そのまましばらく。

 少し貯めた後で千春は、


「もう付き合いも長いし、お互いよく知ってる仲だし――しない、ちょっとエッチなこと?」


 そんなことを言ってきた。


 柄にもなく。

 心にもないことを。


 ならばとそのまま目を合わせたままでいると。

 次第に視線は逸らされ、それは天井や壁に向かった後、足元に落ち着いて固まった。

 頬は赤らむでもなく、照れくさそうな表情をするでもなく。


 大方の予想はついていた。


「親父さんか?」


 控えめに聞くと、千春は一拍遅れてこくりと頷いた。


 なぜ分かったのか、という千春の問いに関する答えとしては。

 昨日の今日で来るほど、今までは感覚が狭くなかった。千春が言うところの俺の相談には、後日メールで催促が来るのが通常だ。


 加えて今の発言。

 千春は、見た目こそ都会の若者風ではあるが、中身は純情そのものである。

 俺でも意外だとは思うが、千春はそうなのだ。

 間違っても、今はこうでも一度振った相手に、ましてよく上り込む家の相手に、そういった行為を所望するような心は持っていない。


 小さな肩が震える。

 次第に口元は固く噛み締められ、言葉も熱を帯びていく。


「ちょっと……ごめん、しばらく待って…」


 呟き、さらに俯いた。

 そうして気が付けば、千春は目元から小さな雫を流していた。

 もう随分と長いこと見ていなかった、弱々しい目元から。


 俺は無言で頷いて、とりあえずはそれを不用意に見ないよう、肩にブランケットをかけておいた。

 千春の家の事情については色々と知っているが、ここまで消耗し切っている様子を見たのは、これが初めてだ。


 雫はすぐに大きくなって、それに伴って嗚咽を孕んだ声も出てきて、ついにはどうにも放ちようのなくなった力は、腕を使って床に叩きつけられる。


 何があったのか。


 そう問いかけるのは、せめてひとしきり泣き終わった後にしよう。






 一時間。

 千春が何とか声を出せるようになるまでかかった時間だ。


 一時間ずっと衰えぬままきっちり泣いて、そこからようやくと涙を拭いた。

 何があれば、ここまで消耗出来るのか。

 その原因が親父さんとあっては、もう最悪な事態しか想像出来ない。


「泣きすぎた…ごめんね」


「それは全然いいけど。何があったかは、聞かない方が良いか?」


「ううん。あんたになら――悟志だけにしか、こんなこと話せない…」


 そう言って泣き腫らした目元を強く擦りながら、千春は事の詳細を語り始めた。


 大元は、千春が11の頃に母親が亡くなってしまった時から。

 途端に酒癖が悪くなり、更には真夜中に出歩くようになった父。早朝帰ってきては千春の部屋に入り込んで、身内にやるべきでない行為に及びかけることがしばしばあった。

 そこまでは、俺も知っている事情である。


 事が起こったのは昨夜。

 大学入学とともに自立して、家からは離れたアパートで、俺と同じように一人暮らしを始めていたらしい千春だったが、その住所を親父さんには話していなかった。

 その行為が嫌で家を出たのに、それではまた同じ事の繰り返しになりかねない、と。


 しかし。


 昨夜俺と別れた後の千春を偶然見つけたらしく、そのままアパートに着いてきたのだ。

 自然抵抗する千春を力で押さえつけ、そのまま――


「奪われた……実の父親に…!」


 奪われた。

 何を。


 純潔を。


「最悪……最悪…最悪最悪最悪最悪…!」


 言葉とともに何度も、何度も振り下ろされる拳。

 途中一回だけ鈍い音が鳴った気がするが、それを意識するよりも激しく、ただただ千春は拳を打ち付ける。


「悔しい…悔しすぎておかしくなりそう…! 私はお母さんの代わりなの…!?」


「落ち着け千春」


「落ち着けないよ…! 落ち着けない……何で――」


 床の代わりに、拳が打ち付けられるのは俺の胸。

 それは一向に構わないのだが。


「私今日、大学休んできたの。あんたが帰ってくるの、ずっと待ってた……ここならあの人も知らないだろうから」


「それで帰りがけに手を上げてきた訳か」


 無理もない。

 そんなところにいては、また何時やってくるか分からない。

 いっそ家出でもしてしまった方が締まりはいい。


 俺も、似たようなものだし。

 妹が高校に入って――いやそれ以前からではあるが、友人を家に連れてくることが増えた。

 新しい子なら怯え、目を逸らし、その度妹が頭を下げて謝ってきた。

 それがどうしても妹に悪くて、母にも何かと迷惑をかけて、だから一人で暮らし始めたのだ。


「千春――」


 一緒なんだ。


「そのアパート解約して、しばらくここにいろ。それなら、流石に足も付かないだろ」


「悟志…」


「まぁ知らん仲ではないし――ってか、気心知れてるからな。色々と落ち着くまで、ここにいろ。警察とか云々の相談も乗ってやる」


「悟志…ありがと……」


 礼を言われるほどのことではない。

 俺も、こいつに色々と救われてきた身だし。

 千春一人もいなかったら、俺はきっと引き篭もってすらいただろうと思う。


 千春が頷くのを受けて、俺は引き出しを漁った。

 そうしてすぐに手にしたそれを千春に渡す。


「合鍵、渡しておく。金庫とか何かとか、お前のことは身内並みに信頼してるからな。好きに出て、好きに帰っててくれ」


「うん…」


「大学は――まぁ、落ち着いて通いたくなったら、ちとルートを変えて行くんだな。何か入り用のものがあったら、裏にコンビニくらいはあるから。モールとか行きたいなら、俺が軽車回してやる」


「うん…うん…」


「後は――あー、まぁ適当でいいか。しばらく経って、万が一にでも出たくなったら、その時は言ってくれ。新しい引っ越し先探すのも協力する」


「……ありがと」


 殴りつけられていた拳は、いつの間にか背に回り。

 きゅっと握られた、しかし弱い力が加わっていた。


 しかし。


「大好き…」


 その一言にだけは、どうしても答えられなくて。


「――あぁ」


 俺は精一杯、何とかそれだけ返して抱き寄せた。

 

 こんなに細い、それも実の娘に手を出すとは。

 落ちるところを越えて落ち続けているな、あの人。

 昔の記憶には存外と良い人の像があったのに――今はまるで見る影もない。


「ねぇ、悟志…?」


 ふと、怒りが堪えきれず力が入りかけていた俺に、千春が名前で尋ねて来た。


「何だ?」


 自然聞き返すと、


「お願い――私と、してくれない…?」


 突然の告白。

 もう何度も”好き”は貰ってきたが、それ以上は求めたことも求められたこともなかった。

 ただ、此度のそれは、普通の意味合いとは違う。


 上書き――父親の感覚が残ってるとすぐにでも死にたくなるから、俺にしか頼めない為に、だと千春は言った。


 求めたことは確かになかったが、千春と付き合い始めた当初、そんな未来を想像しなかったと言えば、それは嘘になる。付き合い始めたのだから、自然、そういう流れになっていくものだと。

 しかし、それでも。


「千春――」


 俺は。


「忘れる為に俺が相手になって、仮にそれで満たされたとして――それでも、お前があの人に対する恨みを忘れられる理由にはならないだろ?」


「それは…」


「昨日も言ったけど、俺はまだお前が好きだ。でも、俺たちは今、恋人じゃない。嫌な言い方なのは聞き分けてくれ」


「――分かってる」


 千春は苦く笑う。


「俺は、お前とはそんな付き合い方をしたくない。いつでも何でも話せて、話されて、馬鹿言って笑えるくらいが良いんだ。俺だって男だ、お前とそうなる未来を考えなかったわけじゃない。でも――」


「い、いい…! それ以上は…言わないで」


「…悪い」


「ううん。それが嫌味でも嫌いだからでもないってことは、ちゃんと分かってるから。あんたは、誰よりも優しい私の友達。ごめんね、変に焦っちゃって」


「気にしてない。ビックリはしたけど」


「想像しちゃった?」


 一転して悪戯な笑み。

 まだ、緊張感と言うか硬さは拭えないが。


「アホ言ってないで、先にシャワー使って寝ろ。んでもって、さっそくだが折しも明日は休日だ。実家に取りに行くのはあれだろうから、借りてるアパートの処理、あと入用のものの買い出しに行くぞ。払いは――まぁ、ちょっとなら俺が持つよ」


「悟志――やっぱり私、あんたが好きだわ」


 俺だって。

 

 直感的にそう脳裏を過ったが、口に出すには至れなかった。

 代わりに「おう」と返して、タオル類を投げて寄越した。


 照れ隠し――と見られてなければいいのだが。


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