千春に関するあれとこれ
正解か不正解か。
どちらかは、正直なところ分からない。
ただ、彼女が気にするなと笑ってくれたことは、俺の中で何かが綻んだきっかけにはなっている。
と、思う。
気にしていないと言葉でいうのも、実は裏側で気にしていたのも、彼女にとってはどちらも本当なんだろう。
「ま、上手くいったんなら良かったんじゃない?」
いつものアパートの一室。
バッグ持ちで当然のように上がり込んできた千春に、事の顛末を一応は語っておいた。
よくよく聞けば、千春も実は「正直心配だったから」というのが本音らしかった。
「まぁ、とりあえずはな」
「とりあえずでも、解決は解決だよ。あんたの良い人オーラが伝わってて良かったじゃん」
微妙な言い分ではあった。
ーー微妙と言えば。
「ちと気になることがあってな。その子、首筋に痣みたいなのがあるんだけど、母親がうっかり口にした瞬間、圧をかけるみたいに止めたんだ」
「あざ?」
「うん、痣。よくは分からんが」
首筋にある痣。
詳しくは語られず、こちらも深くは追求しなかったが、確かにそこにあった痣について、俺は見たままのことを話した。
他言無用、なんだろうけどな。
「ふぅん。それが気になるの?」
「気になるっていうか――まぁ他人だから、口出しする気もないんだけどな」
「その子が気になるの?」
「気になる気にならないって言えば、気にな――は、いや待て、そんな話してないだろ」
「私にはまだ好きだって言いながら、宅配先の女の子な惚れちゃったんだ」
「なぁ千春」
「ちょっと傷つくなぁ。そりゃあ別れはしたけどさ。私だって――」
「千春…!」
少しばかり怒鳴ってしまった。
怒鳴ってしまったら、千春ははっと黙り込んだ。
「今日はちょっと変だ。何かあったんじゃないのか?」
「何かって?」
「お前が話さないなら俺は分からん。必要ないなら話さなくても良いけど、それだと何か気になるんだよ」
昔からそうだ。
何かあったとき、あるいは近い未来で何かがあるとか、千春は決まってこの表情でこの態度を取る。
わざとらしく俺を弄るようなふりをするのだ。
しばらく黙って見ていると、不意に「いやぁ」と頬を掻きながら零した。
「今日さ、周りの子らがみんな卒業した卒業したってうるさくてさ。あんたと二人きりでいるのを変に意識しちゃうんだよね」
「ふうん」
「あれ、あんまり驚かない感じ?」
「まぁな」
「そう、なんだ……まぁそれでちょっとね」
そう言い放つ千春も、どこかこともなげな感じだ。
そのまましばらく。
少し貯めた後で千春は、
「もう付き合いも長いし、お互いよく知ってる仲だし――しない、ちょっとエッチなこと?」
そんなことを言ってきた。
柄にもなく。
心にもないことを。
ならばとそのまま目を合わせたままでいると。
次第に視線は逸らされ、それは天井や壁に向かった後、足元に落ち着いて固まった。
頬は赤らむでもなく、照れくさそうな表情をするでもなく。
大方の予想はついていた。
「親父さんか?」
控えめに聞くと、千春は一拍遅れてこくりと頷いた。
なぜ分かったのか、という千春の問いに関する答えとしては。
昨日の今日で来るほど、今までは感覚が狭くなかった。千春が言うところの俺の相談には、後日メールで催促が来るのが通常だ。
加えて今の発言。
千春は、見た目こそ都会の若者風ではあるが、中身は純情そのものである。
俺でも意外だとは思うが、千春はそうなのだ。
間違っても、今はこうでも一度振った相手に、ましてよく上り込む家の相手に、そういった行為を所望するような心は持っていない。
小さな肩が震える。
次第に口元は固く噛み締められ、言葉も熱を帯びていく。
「ちょっと……ごめん、しばらく待って…」
呟き、さらに俯いた。
そうして気が付けば、千春は目元から小さな雫を流していた。
もう随分と長いこと見ていなかった、弱々しい目元から。
俺は無言で頷いて、とりあえずはそれを不用意に見ないよう、肩にブランケットをかけておいた。
千春の家の事情については色々と知っているが、ここまで消耗し切っている様子を見たのは、これが初めてだ。
雫はすぐに大きくなって、それに伴って嗚咽を孕んだ声も出てきて、ついにはどうにも放ちようのなくなった力は、腕を使って床に叩きつけられる。
何があったのか。
そう問いかけるのは、せめてひとしきり泣き終わった後にしよう。
一時間。
千春が何とか声を出せるようになるまでかかった時間だ。
一時間ずっと衰えぬままきっちり泣いて、そこからようやくと涙を拭いた。
何があれば、ここまで消耗出来るのか。
その原因が親父さんとあっては、もう最悪な事態しか想像出来ない。
「泣きすぎた…ごめんね」
「それは全然いいけど。何があったかは、聞かない方が良いか?」
「ううん。あんたになら――悟志だけにしか、こんなこと話せない…」
そう言って泣き腫らした目元を強く擦りながら、千春は事の詳細を語り始めた。
大元は、千春が11の頃に母親が亡くなってしまった時から。
途端に酒癖が悪くなり、更には真夜中に出歩くようになった父。早朝帰ってきては千春の部屋に入り込んで、身内にやるべきでない行為に及びかけることがしばしばあった。
そこまでは、俺も知っている事情である。
事が起こったのは昨夜。
大学入学とともに自立して、家からは離れたアパートで、俺と同じように一人暮らしを始めていたらしい千春だったが、その住所を親父さんには話していなかった。
その行為が嫌で家を出たのに、それではまた同じ事の繰り返しになりかねない、と。
しかし。
昨夜俺と別れた後の千春を偶然見つけたらしく、そのままアパートに着いてきたのだ。
自然抵抗する千春を力で押さえつけ、そのまま――
「奪われた……実の父親に…!」
奪われた。
何を。
純潔を。
「最悪……最悪…最悪最悪最悪最悪…!」
言葉とともに何度も、何度も振り下ろされる拳。
途中一回だけ鈍い音が鳴った気がするが、それを意識するよりも激しく、ただただ千春は拳を打ち付ける。
「悔しい…悔しすぎておかしくなりそう…! 私はお母さんの代わりなの…!?」
「落ち着け千春」
「落ち着けないよ…! 落ち着けない……何で――」
床の代わりに、拳が打ち付けられるのは俺の胸。
それは一向に構わないのだが。
「私今日、大学休んできたの。あんたが帰ってくるの、ずっと待ってた……ここならあの人も知らないだろうから」
「それで帰りがけに手を上げてきた訳か」
無理もない。
そんなところにいては、また何時やってくるか分からない。
いっそ家出でもしてしまった方が締まりはいい。
俺も、似たようなものだし。
妹が高校に入って――いやそれ以前からではあるが、友人を家に連れてくることが増えた。
新しい子なら怯え、目を逸らし、その度妹が頭を下げて謝ってきた。
それがどうしても妹に悪くて、母にも何かと迷惑をかけて、だから一人で暮らし始めたのだ。
「千春――」
一緒なんだ。
「そのアパート解約して、しばらくここにいろ。それなら、流石に足も付かないだろ」
「悟志…」
「まぁ知らん仲ではないし――ってか、気心知れてるからな。色々と落ち着くまで、ここにいろ。警察とか云々の相談も乗ってやる」
「悟志…ありがと……」
礼を言われるほどのことではない。
俺も、こいつに色々と救われてきた身だし。
千春一人もいなかったら、俺はきっと引き篭もってすらいただろうと思う。
千春が頷くのを受けて、俺は引き出しを漁った。
そうしてすぐに手にしたそれを千春に渡す。
「合鍵、渡しておく。金庫とか何かとか、お前のことは身内並みに信頼してるからな。好きに出て、好きに帰っててくれ」
「うん…」
「大学は――まぁ、落ち着いて通いたくなったら、ちとルートを変えて行くんだな。何か入り用のものがあったら、裏にコンビニくらいはあるから。モールとか行きたいなら、俺が軽車回してやる」
「うん…うん…」
「後は――あー、まぁ適当でいいか。しばらく経って、万が一にでも出たくなったら、その時は言ってくれ。新しい引っ越し先探すのも協力する」
「……ありがと」
殴りつけられていた拳は、いつの間にか背に回り。
きゅっと握られた、しかし弱い力が加わっていた。
しかし。
「大好き…」
その一言にだけは、どうしても答えられなくて。
「――あぁ」
俺は精一杯、何とかそれだけ返して抱き寄せた。
こんなに細い、それも実の娘に手を出すとは。
落ちるところを越えて落ち続けているな、あの人。
昔の記憶には存外と良い人の像があったのに――今はまるで見る影もない。
「ねぇ、悟志…?」
ふと、怒りが堪えきれず力が入りかけていた俺に、千春が名前で尋ねて来た。
「何だ?」
自然聞き返すと、
「お願い――私と、してくれない…?」
突然の告白。
もう何度も”好き”は貰ってきたが、それ以上は求めたことも求められたこともなかった。
ただ、此度のそれは、普通の意味合いとは違う。
上書き――父親の感覚が残ってるとすぐにでも死にたくなるから、俺にしか頼めない為に、だと千春は言った。
求めたことは確かになかったが、千春と付き合い始めた当初、そんな未来を想像しなかったと言えば、それは嘘になる。付き合い始めたのだから、自然、そういう流れになっていくものだと。
しかし、それでも。
「千春――」
俺は。
「忘れる為に俺が相手になって、仮にそれで満たされたとして――それでも、お前があの人に対する恨みを忘れられる理由にはならないだろ?」
「それは…」
「昨日も言ったけど、俺はまだお前が好きだ。でも、俺たちは今、恋人じゃない。嫌な言い方なのは聞き分けてくれ」
「――分かってる」
千春は苦く笑う。
「俺は、お前とはそんな付き合い方をしたくない。いつでも何でも話せて、話されて、馬鹿言って笑えるくらいが良いんだ。俺だって男だ、お前とそうなる未来を考えなかったわけじゃない。でも――」
「い、いい…! それ以上は…言わないで」
「…悪い」
「ううん。それが嫌味でも嫌いだからでもないってことは、ちゃんと分かってるから。あんたは、誰よりも優しい私の友達。ごめんね、変に焦っちゃって」
「気にしてない。ビックリはしたけど」
「想像しちゃった?」
一転して悪戯な笑み。
まだ、緊張感と言うか硬さは拭えないが。
「アホ言ってないで、先にシャワー使って寝ろ。んでもって、さっそくだが折しも明日は休日だ。実家に取りに行くのはあれだろうから、借りてるアパートの処理、あと入用のものの買い出しに行くぞ。払いは――まぁ、ちょっとなら俺が持つよ」
「悟志――やっぱり私、あんたが好きだわ」
俺だって。
直感的にそう脳裏を過ったが、口に出すには至れなかった。
代わりに「おう」と返して、タオル類を投げて寄越した。
照れ隠し――と見られてなければいいのだが。