思いがけず
思わぬ直近の再会に、俺はどうも"笑顔"とやらを忘れてしまっていたらしい。
普通の心から出る笑顔も、営業用の笑顔も。
インターホンの呼び出しから少し遅れて、彼女は、前回と全く変わらぬ様子で玄関扉から歩いて来た。
ありがとうございます、ご苦労様です、と花のような笑顔を向けて。
「あぁいえ、仕事ですから――と、これ、お届け物」
「はい。印鑑……あ、すいません、玄関に置きっぱなしでした。すいません、取ってきますね」
「お構いな――」
く。
言い途中で、彼女が背を向けた瞬間だった。
前回と違う唯一の点は、髪型。
下ろしたストレートのままではなく、
左下で纏めて前に流しているスタイルなのだが――そこから丁度覗く、右側の頸。
真っ白な肌に少しドキリとしてしまったのも束の間、
(首……痣…?)
正しくは"ようなもの"ではある。
光の当たり加減か元からあるものか、あるいは最近付いたものか、前回俺は自分から退いてしまっている為にその真偽は分からないが。
パタンと扉の閉まると同時、俺はつい昨夜、千春から聞いた言葉を思い出した。
――実は全然現実味のある人生だったりするかも知れないでしょ?――
現実味と言うか、これでは――
「すいません、お待たせしてしまって。印鑑、ありました」
気付けば、すぐ目の前から彼女が声をかけてきていた。
「え…? あぁ、はい。ここに――」
「はい」
薄く優しく微笑んで、彼女はシャチハタの蓋を外し、そこにピタと押し当てた。
外すと同時、ふぅと息を吐いて、
「はい、これで」
言いようのない感覚を残して蓋を閉めた。
「えと……ありがとうございました。またのご利用を――」
前回と変わらぬまま、俺は反転して去って行こうと足を踏み出す。
その時だ。
「あの――!」
これもまた、前回と変わらぬ流れ。
帰って行こうとする俺の背に、彼女が声をかけてきた。
無視するわけにもいかず、俺は反射的に足を止めて「何でしょう?」と振り返る。
目をやった彼女の顔は――どこか、不安を孕んだような目をしていた。
そうして放たれる一言。
「――見ました?」
と。
見ました。見ました?
何をだ。
彼女が右手で押さえている頸だ。
「見た――と言うか、見えた。髪型が前と違ってて、つい目がいって…」
包み隠さず話す。
おそらく、玄関のどこかに置いてあった鏡か何かで、そこが露出されている様を確認してしまったのだろう。
営業口調そっちのけで俺がそう言うと、彼女は「そうですか」と眉根を下げた。
「あまり人には、と申しましても、今のは私の不注意でした」
「それは――やっぱり、痣…?」
デリカシーの欠片もない俺の問いに、彼女はコクリと頷く。
やはり。
痣は痣でも、直近ではないにせよ、後天的に付いた、あるいは付けられたものと見て間違いないわけだ。
「普段は、髪を下ろして隠しているんです。あまり見られたくないので。でも、ずっとそれだと蒸れちゃったりして――だから、家ではあぁやって左に流して出しているんです」
「でも、前は――」
「あの日は、学校から帰ってきて着替えたばかりだったので。すいません」
「何で君が謝る?」
「い、いえ、あの、何となく…」
おどおどと他人に気を配る辺り。
不覚にもどこか、俺と少し似ていると思ってしまった。
昔、千春にも『あんたは優しすぎ。気に入らないものは気に入らないでいいのに』と言われたことを思い出した。
彼女は、その痣については語れないと言った。
見てしまったものはもう仕方がないが、それについてだけは話せないと。
別に、無理矢理にでも、仮に彼女の方からであっても、聞き出すつもりも無かったのだが。
恐縮――はしていないようだが、気を遣わせてはいるみたいだ。
「えっと…その、昨日はすいません」
「昨日…?」
「はい。自分で言うのは恥ずかしいけど、ほら、俺の笑顔を褒めてくれたでしょう? あの時、無視するような真似を」
「あぁ、あれですか。大丈夫です、気にしてませんから。今だって、失礼ですが忘れてましたし」
「まぁ、そのようだけど…」
彼女は笑ってそう言った。
気にしていたのは俺だけなのか?
わざわざ彼女の方から声をかけてくれて、それに反発するような態度をとって、まだ一日と経っていないのにか?
他人の散策をする趣味はないが、それは――
なんて、考えても仕方はない。
俺はただの配達員で、彼女は友人でもないのだから。
ただ、非礼は素直に詫びて、認めよう。
「実は、嬉しかったんですよ。ただ、嬉しかった。俺は昔から、この目つきの悪さとガタイだけで、周りからは避けられて来たから――昨日、貴女にあぁやって言ってもらって、実は死ぬほど嬉しかった。他人には言われたことなかったから」
「そうなのですか。それはまた、私もデリカシーのない言葉でしたね」
「あぁいえ、貴女のせいではなくて、これは俺の問題で。人に褒められるこのとに慣れてなくて、俺はつい、俺をそう言う目で見て来た奴らの顔が浮かんでしまうんです」
「怖いのですか?」
「わかりません。ですが、俺は昨日貴女に対し、喜びと同時に"何も知らない癖に"って思った。そんなこと、当たり前なのに」
往々にして、人とは人について理解できないものだ。
だからこそ嬉しくて、イラついて、よく分からない感情に流される。
それを、俺は昨日の時点で分かっていた筈なのに。
「――そういうものですよ」
ふと、彼女が呟くようにそう言った。
顔を上げた俺に向けられていたのは、俺に声をかける時と同じ、優しい笑み。
「そういうものですよ。私にだって、好ましくないものはありますし。それに、あなたにそういう過去があるのなら、それは当然のことな筈です」
「でも、俺は貴女を傷つけたかも知れない。貴女は気にしないって言ってるけど、俺には――」
「もう、本当に気にならなくなりましたよ。こうして謝って頂けたのですから。気にする必要なんて、どこにもありません」
当然のように、それが必然であるかのように、彼女は僕の目を正面に見据えて言った。
気にしていたのは気にしていたのだな、と理解もしたが、それ以上に有り難かった。
気にしていたのが俺だけでも、彼女もだったとしても、それに「許せません」なんて返ってきたらどうしようかと、内心どこかで思っていたから。
その一言に、救われた。
見た目の割に腰が引けていたのが、馬鹿馬鹿しくなってくるくらいに。
あっさりと、事は解決したのだ。
「出がけから謝っておけばよかった」
「ふふ。後悔先に立たず、ですね」
「違いない」
口元に手を添えて笑う。
見た目の麗しさにお似合いの、上品な所作だ。
ふと、俺の頬も緩んでしまっていた。
気が付いた時には、心もどこか穏やかだった。
と、和やかな空気感が場を満たし始めていた時だった。
控えめに開けられた玄関扉から、別の女性が出てきていた。
彼女はそれを見つけるなり、「お母さん」と手招いた。
「宅配取るの遅いから様子を見にきてみれば、その方が美咲の言っていた?」
「はい。とっても優しい方なんですよ」
なんて気恥ずかしい紹介をするのだろう。
それに、俺のことを話してしまっているのか。
「なるほど。確かに身長がお高いですね。美咲は小さいですから、憧れるのも無理はありませんね」
「っと――娘さんからは何と?」
「えっと…褒めたら無視された、と」
その実、凄く根に持っていたことを知った。
「あ、えっと、それは…!」
「いえいえ、良いんですよ。その様子だと、もう話はついたようですし。それに――」
言いかけて、そこで一拍溜めて、
「美咲が誰かと楽しそうに話していることは、私にとって何より嬉しいことですから」
彼女同様に落ち着いた、優しく暖かい笑み。
おっとりと穏やかに、それでいて嫋やかに浮かべられた表情を向けてくる。
些かの安心感を得ると同時に、俺は例えようのない不安が頭をよぎった。
再びフラッシュバックする千春の言葉。
現実味のある人生――
現実味があるというか、それは俺と非常によく似ていて――
「お母さん、それはこの人の前では口にしないでください。すいません、何でもありませんから」
慌てて僕の追随を制する彼女。
別に催促しようとはしていなかったのだが、聞かぬが吉と本人が語るのなら何も聞くまい。
「いや、別に。俺は何も知りませんから」
「ありがとうございます」
ぺこりと上体を倒す。
そのまますぐさま、母を家の中へと押し込んだ。
「すいません、忘れてください」
「あ、あぁ…」
何とも俊敏なことである。