第1話 異世界にて
ここからは召喚直後からの話になります。
「どうか……、この国をお救いください。勇者様」
耳に届いた落ち着きをもった女性の声に導かれ、眼を見開くと、そこは神殿のような、厳かな雰囲気の漂う空間だった。
いくつもの柱が立ち並び、石造りの床は鏡面まで磨き抜かれ、燦然と輝き放っている。そして今、自分が、否、自分達が立っている場所には、複雑な意匠を凝らした紋様が静かに蠢いていた。
「ど、どうなってんだよ……これ……」
そんな光景を目にした氷上優哉は、動揺を隠すことなく周囲を見まわす。
眼前に立つ人物達に眼を向けることも無かったのは、突然の事態に対する無意識下の抗議であったのだろうか?
(教室にいたはずだけど……他の連中は?)
そう思った優哉は周囲を見まわすが、周囲に人影はなく、眼前の女性の他は僅かに人の気配がするだけである。
「勇者様……?」
「なあ、あんた。これどうなってんだよ。どこだ、ここ、は……」
そんな優哉に対し、何かを探るような声で問い掛けてくる女性。
動揺を隠すことなく、声を荒げながら問い返した優哉であったが、その声の主の姿に思わず息を飲む。
暗がりに灯る青い光に灯された腰にまで伸びる長い黒髪は、暗がりの中にあっても光を纏い、その光そのものすらも彼女自身から発せられているように錯覚をさせられる。
こちらを探るように向けられて来る表情は、いわゆる創作の世界にあるような、この世の物とは思えないほどに整ったそれであり、全身に纏った青い光によって、神々しさすらも感じさせられる。
「ここは、ユディアーヌ帝国正教会、東方教庁です。勇者様」
そんな調子で呆然としている優哉に対し、ゆっくりと頷いた少女は、静かにそう口を開く。口調自体は丁寧なモノであったが、声色はどこか落ち着いていて、威厳を感じさせる。
よくよく見れば、こちらを見据えてくる眼光も、柔らかな表情とは打って変わり、意志の強さを感じさせてくる。
「……色々聞きたいことはあるが、まず、その勇者っていうのは」
そんな少女の姿に、優哉は少々圧倒されそうになりながらも、我に返り、なんとか口を開く。
「突然ことであり、俄には理解しがたいことかもしれませぬ。ですが、今、この国はあなた様方のお力を必要としております。何卒、私どもを……この国をお救いください。勇者様」
「国を救うから、勇者と言うことか?」
「はい。何卒……」
「いったい何から? 魔王からとでも?」
「そう思っていただければよろしいかと」
伏し目がちに言葉を紡ぐ女性であったが、優哉は突然の状況に困惑しながらも彼女が何かを隠しているかのような、そんな気がして仕方がなかった。
こちらの問いかけにも歯切れの悪い答えが返ってくるばかり。
「そんなの俺には無理ですよ。そもそも、戦いなんて」
「その点に関してはご安心を。後ほど、何故にあなた様方をこちらにお呼びいたしたのか。説明をいたします」
「今では駄目なのか?」
そんな少女の歯切れの悪さに、嫌な予感がした優哉ははっきりと自分には不可能であると言うことを告げる。
喧嘩の類はしたことがあっても、命のやり取りになったことがあるはずもなく、何より、国を救えと言われても、一介の学生にそんな大それたことが出来るわけもない。
「……ふむ。そうですね。口で説明するよりは、実際に味わってみることの方が肝要ですね」
「実際にって?」
しかし、そんな優哉の言に、少女は何かを考えるかのように、二、三言頷くと、口元に笑みを浮かべる。
そして。
「ふっ!」
「うわっ!?」
刹那。目の前を垂直に走る閃光。
慌てて身を翻す。しかし、続けざまに自身に向けられる閃光の鋭さは増して行き、考えることよりもそれから逃れることのみに意識が向けられていく。
なぜこんなことを。と、問い掛けようにも、こちらへと向けられてくる閃光。よくよく見ると少女が手にした長剣を縦横に振っている。
いったい何をっ!? と思いもした優哉であったが、彼女の産み出す閃光が止むことはない。
必死に閃光を回避する優哉であったが、ほんの一瞬、視線が交錯する。
笑っている。
そんなことを思った矢先、閃光は止み、少女は静かに長剣を鞘に収める。
それまでの深層の姫君といった様子と打って変わり、戦いに満足した武人然とした気配を醸し出す少女。思えば、先ほどの笑みは、どこか狂気めいているようにも思えていた。
「お分かりになりましたか?」
そして、再び深層の姫君となって優哉に対しに問い掛けてくる。
その姿に、先ほどの出来事は夢物語であったかのような錯覚に襲われる。しかし、彼女の問いかけこそが、それが事実であることを物語っている。
「なっ、なにがだよっ!?」
思わず口調を荒げながら答えた優哉であったが、口を開いてから、自分の息がまるで切れていないことに気付く。
あれほど必死で動けば、普通は息が切れもする。もちろん、体力には自信があったが、激しい運動の際に息が切れないことはあり得ない。
「気付いたようですね。加えて申し上げますれば、私はあなたを斬り捨てるつもりでおりましたよ?」
「いったい、どういう……?」
斬り捨てるつもりであった。そう言った少女の表情に嘘はないように優哉には思えた。思えただけで確信はないが、どういった経緯であれ、わざわざ手順を踏んで自分をこの場に招き寄せたのである。
それをあっさりと斬り捨てるような真似をするとは思えない以上、最悪の事態に至ることはないという確信があったのだろう。
しかし、なぜ自分がそんなことが出来たのか。少なくとも、それまでの自分であれば、どう足掻いても少女の剣から逃れることなど出来なかったはずである。
「古来より、教庁にて異界より召喚された者は、人智を凌駕した力を持つ。とされております。勇者様に関しましては、身体能力を中心に大いなる力を得ております」
「召喚……」
「加えて、現実からの逃避、奇跡への羨望などが強い人間ほど、得られる力は強くなると……勇者様はそのお気持ちが非常に強かったのでしょうね」
静かに目を閉ざしながらそう口を開いた少女は、短く言葉を返した優哉の言に頷くと、彼の右腕へと視線を向けてきていた。
「……それで、もう一度聞きますけど、俺はいったい何をすれば良いんですか?」
何かを知っているのは明白な視線であり、正直、嫌悪感が残るだけであった優哉は、それを遮るように口を開く。
魔王を倒す。という、ゲームなどの創作物でありがちな敵は存在する様子だが、状況を把握できたわけではない。
「それは、帝都に赴いた後に。それから、名を申しておりませんでしたね。私は、ユディアーヌ帝国第一皇女アヴィーネイギス・ノルン・ユディアーニア。アヴィネスともアヴィとも呼ばれています」
「皇女殿下……でいいんだよな? で、ございましたか。ご無礼をいたしました。私は、氷上優哉。です」
そして、優哉の問いに答えた少女、アヴィネスに対し、一瞬目を見開いた優哉は、一端口調を整えて名を名乗る。
正直なところ、眼前の少女は身に着けている衣服から、高位神官の類だと思っていたのだが、皇女という思いがけない地位に思わず居住まいを正す。
この辺りは、一日本人の特性であるが故か、それとも当初から感じていたアヴィネスの姿に確証を得たからであろうか?
「畏まる必要はございませぬが……。まあ、よいでしょう。何かご質問はございますか?」
「それでは、なんで帝都に行ってからじゃないと駄目なんですか?」
「勇者様への命は、勅命となりまする。私の口から申し上げることではございません」
「皇女殿下でも駄目なんですか?」
「アヴィネスで構いませぬ。――皇女は皇帝の子女に過ぎませぬ。至尊の冠を戴く人間はこの世にただ一人のみなのですよ」
「は、はあ……。それで、帝都にはどうやって?」
他にも聞くべきことはいくらでもあるだろうが、正直なところ頭はまだ混乱している。
とりあえずは流れに身を任せるしかないと優哉は思った。
「転移方陣にて。と、もうしたいところでございますが、教庁は神域という特性上、法術の使役が制限されておりまする。そのため、ここから三日ほどの位置にございますエフィスまでは軍馬での移動になります」
「? ちょっと待ってください。俺は馬になんて乗ったことないですよ?」
「私が先導致します故に、問題はございませぬ」
「えっと、皇女殿下も同行されるのですか?」
「アヴィネスで構いませぬと……。それと、同行も何も、私と二人で行くのですが?」
「は?」
しかし、流れに身を任せようと思うのもつかの間、思いがけぬアヴィネスの言に、優哉は目を丸くするしかなかった。