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わたしは空気になりたいの。空を掴もうとするように、右手を上げたハルコが突然そう言った。
「それってつまり、死んでここから居なくなりたいってこと?」
わたしはハルコの右手が遮る空を見つめながら聞いた。ハルコの指が遮断できなかったわずかな陽光が眩しいような気がして、瞼でそれを潰した。
「ううん、違うよ」
ハルコはからからと快活に笑いながら続ける。右手を下ろしながら喋るので、わたしも空を見るのをやめた。
「空気みたいに誰の負担にもならなくて、皆と軽く馴染めるようになりたいってこと!」
ハルコの瞳はわたしたちの目の前にひろがる青空を、あるいはその間にある空気を捉えていた。羨ましいなあ。そんな言葉がハルコの唇からあふれ出しそうに見えた。わたしはハルコの心のなかにある大きな憧れを見た気がした。太陽がうっとうしいほどにわたしたちを照らしていた。
「ユリは何になりたい?」
ハルコがわたしのほうへくるりと振り返り尋ねた。その顔は無表情に似た微笑みを浮かべていた。
わたしはその頃、花屋さんになりたいという世の中にありふれた夢を持っていた。理由は花屋さんという仕事が素敵だと思っていたからだ。
しかし、わたしはハルコの問いかけに
「まだ、考え中かな」
と答えた。答えられなかった理由は今聞かれたとしてもよく分からない。ただ、ハルコには言えなかった。恥ずかしいような苦しいようなどろどろとした気持ちが頭のなかに襲い掛かってくる感覚からそのときは逃れたくて仕方がなかった。
「ふうん」
ハルコはそう何の感情もこめずに呟いた。わたしは靴のしたに広がる地面、真っ黒でぼろぼろの白線が伸びているコンクリートを見つめながらそれがゆらゆらと揺れて見えることに気付いた。
「ねえ、ハルコ。わたしね、思うんだ」
わたしはコンクリートに目を落とすのをやめてハルコの瞳を、ハルコの空気を見つめた。そして、ハルコがわたしの言葉に頷いたのを確認して続ける。
「わたしたち、きっと十年後には夢叶えて、笑ってるんだろうなって。もちろんわたしはそれまでに夢を見つけないといけないけどね」
ハルコはくつくつと鍋が揺れるように笑った。
「ユリったら、何言い出すかと思った」
当たり前だよそんなのってハルコは付け足した。もうハルコの夢って叶ったも同然だなあ、と思いながらわたしはそんなハルコを見ていた。
ハルコはわたしにとってすてきなお友達だ。軽く関わりあえる、わたしのことを助けてくれる存在だ。
「ハルコ」
わたしはハルコの名前を呼んだ。
「何? どうかしたの」
わたしは首を二、三回横にふり、ハルコ、と何度も呼んだ。ハルコ、ハルコ、ハルコ。
「大丈夫?」
ハルコはわたしの頭に右手をふわりと乗せて聞いた。わたしは何にも答えないまま、やっぱりハルコ、と呪文を唱えるように言い続けた。そして、ポロリと涙が頬を伝ったことに気付く。
「ユリ、ユリ、泣かないで」
ハルコは半分垂れ下がっていたわたしの頭を起こし、わたしを抱きしめた。するとその瞬間に涙はぴたりと止まってしまった。心の中にちょっとした穴と切なさがぽろりと残っていた。いったいどうしたというのだろう。わたしは自分の考えが見えなかった。十年後とかそんな未来のことを考えるのが怖かったか。ハルコと将来どうつながっていくのかを考えることが怖かったのか。どちらでもないのか。両方なのか。
確かなことはわたしがハルコと未来について少しだけ話し、ぎらぎらと眩しいので直視ができない、それでいてグレープフルーツのようにさわやかな太陽の下でちょっとだけ泣いてみたりしたということだけだ。 そして、それはわたしたちが花屋さんやらケーキ屋さんだなんて六つや七つ知ってた職業にあこがれてなりたいと思わされていた、三年前のことだった。ハルコみたいに空気になりたいと言う子が居るなんて大人でさえも想像するわけがない、小学五年生の甘ったるい夏の午後。
*
朝、ニュース番組のうるさい音で目が覚める。わたしのお母さんにはテレビの音声は聞こえにくいから嫌だわ、と言って大音量でテレビを見る癖がある。
「お母さん、今日は早朝練習が無いんだからさあ。ゆっくり寝させてよ」
わたしは欠伸をかみ殺しながら、お母さんに向かって文句を言う。こんなことは日常茶飯事なので、この注意も意味が無いのだろう。そう思うと自分がただの学習能力がない奴にも思えるが、困る人も居るんだってことを頭に焼き付けておいてほしいのだ。
「あら、テレビの音量そんなに大きかった? ごめんね」
お母さんはそう言うとようやくテレビの音量を三つくらい下げる。まだまだうるさいような気もするがこれ以上は言っても効かないことを知っているので言わないでおく。
「ユリ、また寝てきてもいいわよ。七時になったらちゃんと起こしてあげるから」 わたしは嫌味か、と思い少しだけお母さんを睨んだ。わたしは一度起きてしまうと二度寝ができなくなってしまう性質なのだ。
「いいよ。起きて文庫本でも読んでるから」
刺々した口調でそう言うと、わたしはスクールバックの中からサリンジャーの本を取り出した。古い訳の本なので読みにくいのだが、わたしはサリンジャーの大人になっても子供心が分かっている――驚くことに、わたしよりも子供らしい子供を知っている――と感じるのであまり苦にしてはいない。
全く、お母さんにもサリンジャーのような心構えを持ってほしいと思う(無理なのは承知だ)。
「ユリー、今日はパンにする? それともご飯がいい?」
三十ページほど本を読み進めたところで、お母さんがわたしにそう聞く。
「食パン。あとできたらベーコンを焼いてほしい」
「そう言うと思った。もうすぐベーコンは焼けるわよ」
わたしは本に栞を挟むと、パンと音を立てて閉じた。お母さんはサリンジャーのように子供心を理解できるひとではないけれど、わたしの好みについてはちゃんと分かってくれている。
「ユリ、今日は学校で何かあるの?」
お母さんは朝食中にいつもそう聞いてくる。
「特に何も。理科が実験だったかもしれないけどね」
答えるのは簡単なことだけれどとても面倒だと感じる。調理実習だとか課外学習だとか特別なことがあるときは事前に報告しているのだから、聞く必要なんて無いのだ。
さっき、音量を下げたばかりのテレビを見る。今日の天気は晴れだと画面の左上に表示されているのを確認すると少しだけ動きを止めた。
「……お母さん、また音量あげた? もしかして」
「だって、小鳥が鳴くしフライパンもじゅーじゅー言うから聞こえないんだもの。それに、ユリは本に集中してると音量のこと何も言わないし、大丈夫かな、と思って」
「…………」
お母さんがにこにこ笑いながらそう言うので何も言い返せなくなってしまった。確かに、本を読んでいるとまわりが見えなくなる、聞こえなくなるのがわたしだ。
「いってきます。多分六時までには帰れると思うから」
わたしはお母さんにそう告げて家を出た。天気予報は今のところ当たっているようで太陽が東の空から絶えずに光を放っていた。あの日と同じ、でも甘くなんてなくなった夏だ。むせ返りそうなほどの気温に、コンクリートの地面が暑いと叫んでいる。しかしまだうっとうしい蝉の声がしないだけいいのかもしれない。
コンクリートの上に細い影が居る。わたしの影、そしてもう一人女の子の影だった。ふっと顔を上げると、見慣れた顔がわたしのほうを向いている。
「カナエ! おはよう」
「おー、おはよう」
カナエは中学に入ってから知り合った子だ。真面目でやさしくて可愛らしい、嫌われることの少ない女の子でまさか友達になれるだなんて、思いもしなかった。
「今日の理科って実験だよね? ほんとかったるーい」
カナエはわたしの隣を歩きながらそう言った。肩より少し長い髪がゆらゆらと小さな風を作って揺れていた。
「ほんと、実験とか教科書で確認だけでいいよね」 あはは、なんてわざとらしく声を出してわたしたちは笑った。今度はカナエの髪が作った風ではない、地球の吐息がわたしたちを通りすぎ、スカートを軽く翻していった。
学校につくとわたしとカナエは二年B組の教室へ入る。一年B組の中にはすでに早朝練習の無い同級生たちが戯れていた。その中で一人で椅子に座っている女の子――ハルコだった――が右手を軽く上げ、
「あ、カナエちゃんとユリ、おはよう」
ふわりと頬を緩ませた。
「おはよう、ハルコ」
カナエは何も言わず、わたしだけがそう言った。ハルコは表情を少し曇らせて、苦笑した。
ハルコは中学に入ってから皆と疎遠になってしまったように思う。いや、ハルコが近づかないのでなく、皆がハルコを避けているのだ。一時、カナエとハルコと一緒に行動していた時期もあったがそれはつかの間のことだった。カナエはハルコについていくことができなくなり、ハルコを避けていたクラスの中心的女子の考えに染まってしまったのだ。でも、わたしはカナエを責めることもできない。カナエは小学校が一緒だった子たちに比べたら持ちこたえたほうだと言える。人を避けることを正当化するわけではない。しかし、今まで何年も友達で居たはずなのに、急に嫌いになったなんてどれだけハルコが傷つくか考えなかったのだろうか。そう思うとただ小学校が一緒だった子たちが憎い。
「ハルコ、宿題やってきた? わたし昨日の夜に気付いてさあ、ほんとぎりぎりで終わったの」
鞄を自分の机の上に置くと、わたしはハルコの傍に行き、そう話しかけた。ハルコはにっこり笑って、やったよ、と答えた。
「でも眠かったから、途中で寝そうになった」
くつくつとわたしたちは笑う。寝なくてよかったね。そう言うとハルコはあははは、と小さく声を出して笑った。わたしはこんなときにハルコは普通の子だと確信する。普通っていうのは極一般的によく居る中学生だということだ。ちょっとだけ哲学的なところがあるけれど、そんなところは親しくなったひとにしか見せない。
それなのに、変わってるとか奇人変人だとか、そんなくだらない理由で皆がハルコを拒否する。ばかげていると思う。
「また今度さ、ハルコの家電話していい?」
「勿論いいよ。いつでもお問い合わせください、なんてね」
「ありがと。もう最近全く授業ついてけないよー」
わたしはそう言い、自分の髪を手ぐしで軽く梳いた。するり、と指は髪を通り抜けた。
その時、ユリ、とわたしを呼ぶちょっとだけ尖った声が聞こえた。声の主はカナエだった。わたしがカナエを見たのを確認すると、カナエは言葉を継ぎ足す。ちょっとここ教えてほしいんだけど、こっち来てくれない?
カナエはハルコに近づきたくないの、と必死で主張するように見えた。わたしはハルコにごめんね、と動作で誤り、ハルコが大丈夫だよ、と言ったのを聞いてからカナエに小走りで寄っていった。何? 昨日の宿題だったらやったけどよく分かんなかったよ。
わたしはカナエと話しながらも、気付かれないようにハルコの様子を常に目で捉えていた。俯いて、本を読んでいるだけにさらっと見るだけでは感じるが、よく見るとハルコはとても悲しそうな表情をしていて本のページは一度もめくられていない。ハルコは本を読むのがとても早いので、一分に一度もページが音を立てないだなんておかしいのだ。
カナエは笑顔でぺらぺらと喋っている――わたしも表面上はにこにこしている――のに、どうして三人が笑顔で居る瞬間が無いのだろう。カナエはもうハルコなんて迷惑の欠片にしか思っていないのだろうか。そう思うと心苦しくてむせ返りそうになる。湖のそこから浮かび上がってきた不気味な泡みたいなものが、心の中でうごめいているようだ。
「……ねぇ、カナエ。カナエはハルコのこと嫌いになっちゃったの?」
ものすごく唐突な気がしたけれど、わたしの唇がそう聞いていた。カナエは目を一瞬見開いたけれど、冷静を取り戻し返答する。
「んー、そうかも、ね」
わたしは氷に触れたときの感覚を思い出した。それと同じような冷たさが砕けたものが空気中に漂っていた。
「嘘!」
わたしは声を荒げてそう言った。カナエは本当はハルコに罪悪感を感じているんだって思いたくて、乱暴な言葉で心を追求しようとした。カナエは重たくなった口を小さく開き、言った。
「ハルコちゃんが嫌いってわけじゃないけど、ハルコちゃんの周りの空気が嫌いだよ。だからハルコちゃんと仲良くなんて難しいよ」
途切れ途切れの言葉だったけれど、嘘偽りじゃない本心だってことがひしひしと伝わってきた。本音って言われたら楽なもんだって思っていたから大津波に襲われたようにどこかがぼろぼろになった。勝手に決め付けるように尋ねて、勝手にぼろぼろになった。だけど
「そっか。じゃあハルコ自体は嫌いじゃないんだね? 嫌いじゃないんだ、ね?」
カナエが声を出さずに、でもはっきりとそう言った瞬間に躊躇わず頷いてくれたのはよかった。わたしたち三人はきゃあきゃあ仲良くしていた時に戻れなくなってしまったけれど、誰一人としてそれを望んだことが無いって分かった。
カナエは頬を少しだけ赤く染め小さく俯いていた。ごめん、ありがとう。そう呟くとにこっと苦笑に似た笑顔をくれた。そしてまたわたしたち、今は二人、はもとの話題へと何も無かったように帰っていった。
ハルコがまだ俯いていたのはとても気にかかった。わたしたち二人が話し合って納得しても、わたしたち三人が全員納得できたわけじゃないのは当たり前だ。わたしはカナエと数学の応用問題が難しすぎる、と批判の声をあげながら、今夜ハルコに電話し、ハルコの家――わたしの家から五百メートルくらいのところにある。案外近かったりするのだ。――に行こうと決めた。ハルコと二人きりで話がしたい。そう強く思った。
淡い夏の匂いがわたしたちの鼻を掠めていった。でもだれも夏の匂いがする、なんて言わなかった。
わたしは案の定、その日の授業にはあまり集中できなかった。理科の実験中もまた例外なく、ハルコはわたしたちの明日を考えて胸がつまっていた。
だからなのか、ハルコの家の電話番号を押すと何故だか異様に緊張した。もともとわたしは電話が嫌いなので電話をするとどきどきしてしまうのだが、今日は特別にどきどきした。
電話の呼び出し音が鳴り始め、ハルコは五コール目で電話に出てくれた。ハルコのお母さんが出るかと思っていたのに、ハルコがでたので少し驚いた。
「ハルコ、ちょっと直接話があるんだけど。ハルコの家、今から行ってもいいかな? わたしのお母さんはハルコの家ならいいよ、って言ってるんだけど。都合悪いかな」
ハルコは五秒間の間を置いてからいいよ、と電話越しに言った。その声は笑いを含んでいるように明るくて、ちょっとだけ痛々しく感じた。ハルコは今、心から笑っているのだろうか。それともこれも上辺だけの笑いなのだろうか。
「じゃあ、今から走ってくから! 五分くらい待ってて」
電話はわたしから切った。ハルコはいつも電話を自分から切らない。
薄いブランケットを手に取り、それを軽く羽織るとわたしは朝よりも大きな声で言った。
「いってきまーす!」
行ってらっしゃい、早く帰ってくるのよ。もうすでに走り始めていたわたしにお母さんがそう言った。
外の空気は夏なのに冷たかった。何千本もの針に頬を突き刺されたような痛みがし、ハルコの家が何キロも先にあるように感じる錯覚に陥った。それでもわたしは息を切らしながら猛スピードで走り続けた。ハルコにとても会いたかった。
「……ハルコ」
ハルコの家に着くと、ハルコは玄関の前に立ってくれていた。確かに今は夏だけれど、夏だって夜は少し寒いはずだ。
「へへ、ちょっとだけ待ち遠しかったの。……ユリちゃん?」
わたしは何も言わず唐突にハルコの胸に寄りかかっていった。安堵感が胸を満たしていくのが分かった。そして、あの日と同じようにハルコ、と何度もハルコの名を呼んだ。あの日と違ったのはわたしが泣かなかったことだけで、ハルコはわたしのことをやさしく宥めてくれた。
それで話したいことってなあに。ハルコがそう聞いたとき、わたしは夏の夜空をじっと見つめていた。まだどこか明るくて、星が食べられてしまったかのように少ない夜空は胸のなかにあるぽっかりとした気持ちをそのまま表しているようだった。
「……あのさ、ハルコ。覚えてるかなぁ。小学校のときさ、ハルコ、空気になりたいって言ってたよね」
わたしは心なしか重く感じた唇を開かせてそう言った。夜空を見つめたまま、ハルコの吐息を感じた。
「言ったね。ちゃんと、覚えてるよ。わたしたち夢を叶えて、十年後には笑ってるんでしょ?」
わたしは、そうだよ、と一言だけ言った。あとはハルコは繋げてくれるだろう、そんな確信が胸のどこかに存在していた。ハルコとわたしの間には沈黙が流れ始めたけれど、ぴゅうぴゅうと小さく音を立てながら夜風がわたしの心に冷静を保たせてくれた。でも。そんなか細い声が聞こえたときにはもう我慢が千切れてしまいそうだったけれど、そんな思いはハルコの顔を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
「わたし、分かんないよ。わたし、今までずっと、空気だけしか見てなかったのに……」
音もなく涙がハルコの頬を流れていた。ひくひくとしゃくりあげる声がハルコの言葉の中に苦しそうに混ざって、ハルコの心の叫びそのものが胸にどすんと入ってきたような感覚に襲われた。ぽんぽんと背中をやさしく叩いてあげるほかに、わたしは何もできないままハルコの次の叫びを待った。
「……ごめんね、ユリ。取り乱しちゃって。でも止まんないからこのままでいい?」
もちろん。わたしが言うと同時にハルコは宣言通り涙を流したまま、思いを吐き出し始めた。
「わたし、ずっと空気みたいになりたかった、よ」
うん、とわたしは適度に相槌を打ちながらハルコの輪郭を辿っていく涙を見つめた。こんなに綺麗な涙を流すひとに泣く必要なんて本当は無いのだ。
「なのにさ、わたしのまわりの空気はまずくて、わたしを忌み嫌うひとたちが増えていくたびに、憧れていたものは黒ずんで重たいだけの物質になっちゃたんだよ。――……ねえわたし、何かどこかで道を間違えたのかな。空気になりたいなんてそれが愚かだったの? ねえもうどうしたらいいか、分からないんだよ。ユリ、どうしたらいいの? わたし、違う意味で空気とそっくりになっちゃったよ。みんなに重たく圧し掛かるだけの黒ずんだものになっちゃったよ」
ハルコは言い終えるとぐずぐず言ったまま、首を静かに下ろした。わたしは冷静さを失ってしまいそうなくらい、ハルコの思いに心が燃えた。ふとハルコの視線の先を見つめると、靴の傍のコンクリートが滴った涙でぽたぽたと模様をつくっていた。わたしは五秒ほど息を止め、思いっきり酸素を肺に取り入れると拳を作りながら、意を決して口を開いた。それは、わたしはね。そんなふうにもごもごと言葉を返し始めても、ハルコは俯いたままだったのが少しだけ残念に思えた。それでも言葉を続ける。
「空気は優しいんだよ。ハルコが優しいのと同じで空気も優しいの。うまく言えないけど、空気は……辛いことも全部吸い込んじゃうから、そのひとの苦痛を知ってしまうから重たくなってしまっても、それを絶対心地いいって感じてくれるひとは居るの。少なくともここに一人、わたしが居るよ」
照れくさい言葉なのに、ハルコがちゃんと聞いてくれているって信じていたから、笑い流さないって知ってたから恥ずかしさを知らずにそう言えた。言い終えたあとで少しだけ頬が紅潮していく感覚を得たような気もしたけれど、ハルコがくしゃくしゃになっている泣き顔をゆっくりと持ち上げてわたしのほうを向いてくれたからそんなものは吹き飛んでいった。まるで、もとから何にも無かったように。
「……ありがとう。ねえ、わたしはカナエちゃんにとっては重たいだけの空気になっちゃったけど、大丈夫かな。やり直せるかな」
わたしは右手をハルコの輪郭に沿わせ、涙を親指できゅっと拭う、と同時ににっこりと唇の両端を釣り上げて笑う。
「当たり前だよ、人は空気を欲するものだしいつまでも空気が特定の人に攻撃的で居るわけじゃないもん」
時間はいくらでもあるからゆっくり繕っていこう? ハルコはわたしがそう付けたし、もう一度笑顔をみせると自分の手で涙を拭った。そして、まだ涙声ながらもはっきりと言う。
「そうだよね。わたし、まだいける」
その声には何か明るくて温かなものが確かに存在していた。わたしはハルコのその声がゆらゆらと空気中を漂って、夜空に溶けていく瞬間を見たような気がした。夜空を見つめながら、わたしたちは生まれた沈黙を殺めないまま、どちらともなく手を重ねた。二人とも頬に小さく微笑みを浮かべて、五分程そのままでいた。
「ハルコ、今夜はごめんね。ありがとう」
家にそろそろ帰らなくてはいけないことに気付いて、わたしはそう慌てた口調で言った。
「ユリこそ。ユリのおかげで救われた。本当に、ありがとう」
ハルコはわたしの慌てた声におかしいとでも言うように笑いを堪えながらそう言った。
「じゃあね」
手を軽く振ってそう言うとハルコはこくんと頷いた。また、明日。
てくてくと小さな歩幅でわたしは、ハルコの家から遠ざかっていった。どうしてわたしたちはわざわざ玄関で話したのだろう、ハルコの部屋でもよかったはずなのに。そのことに気付くとちょっとおかしくなって笑いそうになった。ハルコの家をくるっと振り返って見ると、ハルコはまだ玄関先に立っていた。
「ハルコ! わたしさ、子供心がよく分かってるサリンジャーが好きだけど、親にするならわたし自身のことを深く分かってくれてるお母さんたちのほうがいいよ。それと同じで、わたし! ハルコだから友達だよ! カナエも絶対、ハルコだからってことを持ってる。だから、自信持ってよー!」
すう、と大きく息を吸って、ハルコに向かって叫んだ。分かった、ありがとう。ハルコの唇が遠くで動き、少し遅れてそんな言葉が聞こえた。もうハルコは大丈夫だ。わたしは胸の中で確信を手にした。歩きながらハルコに大きく手を振ると、ハルコも同じように返してくれた。
ハルコが視界に入らなくなったところでわたしは手を振るのを止め、最速で家まで走った。空気は不思議に思えるくらい、冷たさを放っていなかった。
「ユリ、おはよう! カナエちゃん、おはよう!」
次の日、カナエと一緒に教室に入ると、ハルコが活発な声でそう言った。雰囲気が変わったなあ。そう驚いた頭で感じながら、わたしは「おはよう」といつも通りに言った。すると、わたしの声に重なって小さな「おはよう」が聞こえた。え、と小さく声を漏らし、くるっとカナエの顔を振り返って見ると、カナエは照れくさそうな顔をしていた。
……ハルコのいつもと違うテンションに圧倒されてしまったらしい。
わたしはそれでも嬉しくて、髪の毛を右手で耳に掛けながらにやにやと笑った。カナエがわたしの顔を指差して言う。
「あー、ユリってば何にやけてんの! やらしいなあ。ね、ハルコちゃん」
突然話題を振られたハルコは一瞬戸惑い、くつくつ笑って
「ほんとだー。ユリってばやらしーい」
わたしの肩をぽんと叩いた。わたしはこの温かくて明るい空気が嬉しくて、笑いながら言った。
「何よう! 二人して酷いなあ!」
ハルコもカナエもあはは、と声をあげて笑っていた。よかった、と思った。
これからもわたしたちは空気を重たいと感じてしまう日を体験する。でも今日は、空気が重力から逃れたように軽く感じることができている。だから、わたしたちは重たい空気を乗り越えることだってできるのだ。
わたしたちは飽きずにからからと笑い続けていた。昨日よりも清々しい夏の匂いを感じ、蝉が鳴き始めていることに気付いた。蝉もまた、わたしたちと同じように飽きることなくみんみんと同じリズムで鳴き続けている。
結構長めの小説ですが、読んでいただいてありがとうございました。