「お前の物は皆の物だ」と私の形見まで配る婚約者様、承知しました――貴方の物も皆で分けます~最後に配ったのは、婚約者の座でした~
「お前の物は皆の物だ。独り占めは醜い」
エグモント様は令嬢たちの真ん中で、そう言って微笑む。蝋燭の火が揺れるたび、金の髪が明るく浮かぶ。
令嬢の一人の髪に、私の母の形見の櫛が挿してある。
ベネディクタ様が櫛に指を当てて微笑む。令嬢たちは甘い香りを揺らし、口々に、エグモント様はお優しい方、と声を重ねる。
母は先代の施与官だ。これだけは、あなたの物。そう言って残した銀の櫛は、掌に載せるといつもひやりとした。
私はルイーザ、二十七歳。王宮の施与官を六年務めている。王家が民へ配る物の宛先を決め、手渡し、受け取った者の名を覚える役だ。
施与官は、持ち主が皆の物だと言った物しか配らない。
施与官ではないエグモント様が、私の馬も、冬の外套も、母の櫛も、令嬢たちへ配ってきた。皆の物だとも、返せとも、私は一度も言っていない。返せと言うのは醜い、と王都では言う。私の物だとも、言わなかった。
「お前も、そう思うだろう?」
「承知しました。では、貴方の物も皆の物ですね」
「当然だ。伯爵家の物は、皆の物だ」
令嬢たちが拍手をする。扇の骨がかちりと鳴るたび、蝋燭の火が一斉に傾く。櫛の銀だけが、その光を短く跳ね返す。
柱の側に、殿下が立っている。施与の元締めの王弟で、夜会で施与官の隣に立つ人ではない。その影が肩から下を隠し、目元だけに火が届く。
「殿下も、お聞きでしたね」
「聞いた」
殿下は柱から動かない。声だけが、まっすぐこちらへ届く。
「施与官として配るのか?」
「作法のとおりに。宛先は私が決めます」
「持ち主の言葉が要るな?」
「はい。ただいま、頂きました」
声が、思ったより低く出た。六年、人の物の宛先ばかりを告げてきた喉は、震え方を忘れている。
エグモント様が、令嬢たちの輪の向こうから私を見る。火に照らされた笑みの端が、影へ沈む。
「いったい、何を配る気だ?」
「明朝、施与官として伯爵家へ伺います」
「使用人にでも配るつもりか?」
「宛先は明日、決めます」
「好きにしろ。俺の物は皆の物だ」
令嬢たちが、もう一度拍手をする。先ほどより音が揃い、広間の空気が薄く震える。
「今のお言葉は、皆様がお聞きになりました」
「聞かせたつもりだ」
櫛が、令嬢の髪で揺れている。母が私の髪に挿してくれた日も、鏡の中で同じ揺れ方をし、銀の歯の冷たさが耳元に残った。私は、宛先を決める。手は動かさない。
◇
二日目の朝。伯爵家の門は霜で白く、淡い光を鈍く返す。鉄の桟に触れると、指先が張りついた。離した指の腹が薄く痛む。家令が鍵束を提げて立っている。
「鍵でしたら、こちらにございます」
頼んでいない。家令が鍵束を振ると、金属の音が凍った空気へ散る。皺の寄った顔が、朝の光の中で嬉しそうに崩れる。
「広間の鍵は、どちらでしょう?」
家令が一本を抜いて、私の手に載せる。鍵はその掌の温みを持ち、私の指の冷えと入れ替わるまで少しかかる。
鍵を回して広間へ入ると、錠の奥が固く鳴り、冷えた空気が頬を撫でる。暖炉は消えている。高いところに剣が一振り、壁へ掛かっている。柄に埃はない。下ろすと腕が沈み、思っていたより重い。
門へ戻ると、門番が背を伸ばした。腰の剣は、刃の半ばで欠け、鞘まで冷えて見える。名を聞く。覚えた。
「エグモント様の剣を、門番のあなたへ。皆の物ですので」
門番が剣を見てから、私を見る。その目が、欠けた刃へ戻る。
「……いただいて、いいんですか?」
「持ち主が皆の前で、そう仰いました」
寝間着のエグモント様が、階段を降りて来る。裾が石段を掃くたび、霜が白い筋になって消え、布の湿った音がする。
「それは俺の剣だ」
「皆の物では?」
エグモント様が門番を見る。門番の手は、新しい柄を握ったまま動かない。
「……朝から始める気か?」
「宛先が決まりましたので」
その視線が、門番の腰の欠けた刃へ落ちる。門前の音まで、ふっと止む。
「その宛先は、誰が決めた?」
「私です。宛先を決めるのが、施与官の役ですので」
「俺に断りもなく、勝手に決めたのか?」
「昨夜、皆様の前で伺っております」
エグモント様の喉が動く。言葉は唇につかえて出て来ない。私が訊く。
「……昨夜のお言葉を取り消されますか?」
「取り消しは……しない」
門番が新しい剣を腰に着ける。鞘の先が石を打って、澄んだ音が霜の上を走る。門番がエグモント様に敬礼をする。寝間着のまま、返すしかない。
「……独り占めは醜いからな」
「はい。よく覚えておきます」
門番の敬礼を、覚えた。門を出るまで、まっすぐな腕の形は目の裏に、澄んだ音は耳の奥に残っている。
◇
昼の厩は、乾いた藁と汗の匂いでむっと暖かい。馬丁が鞍を外すたび、革が低く鳴る。名を聞く。覚えた。駅逓の馬は、いつも足りない。
「エグモント様の馬を、駅逓へ。皆の物ですので」
「ちょっと待て! それは俺の馬だ。今の言葉は取り消せ」
「皆の物では?」
馬が鼻を鳴らし、私の肩へ鼻面を寄せる。鼻息が頬を温め、毛の下で、大きな体が静かに動く。
「そ、その馬は、この俺が選んだんだぞ!」
「よい馬です。ですから、駅逓へ」
「駅逓へやれば、もう俺の馬ではなくなる」
「王都の皆様の馬になります」
厩を出ると、通りに人が集まり、白い息が重なっている。令嬢たちも居る。軒の柱の側に、王弟〈ハルトヴィヒ〉殿下。元締めは、施与に立ち会う。
「殿下、施与官が俺の物を勝手に……」
「その言葉は昨夜、聞いた」
殿下は柱から動かない。風だけが、その足元を抜けていく。
「取り消すなら、皆の前で言うことだ。俺の物は俺の物だ、と」
エグモント様が令嬢たちを見る。令嬢たちは微笑んでいる。冷たい通りで、扇が小さな音を立てて開き、閉じる。誰も、笑ってはいない。
皆の前で言った言葉は、皆の前でしか取り消せない。
婚約者は、取り消せなかった。
駅逓の者が馬を引いて行く。蹄が石畳を打つ音は、角を曲がって冬の通りへ細く溶ける。馬丁が帽子を取る。冷たい風が、つぶれた髪を揺らす。
「これで、王都の手紙が一日早く着きます」
「……俺宛てには、来ない」
「伯爵家宛ての手紙も、一日早く届きます」
「……そういう話ではない」
「配った物は戻りませんので」
殿下が、柱を離れる。貼りついていた影も、同じ向きへ動く。
「六年、施与官が宛先を間違えるところを、一度も見ていない」
「……ずっと、見ていらしたのですか?」
「門の脇は、元締めの場所だ」
殿下は、答えを一つ飛ばす。残った問いが、行き場を失う。
「六年もの間、気づきませんでした」
「気づかれない場所だ」
宛先を決める目は、自分の背中の側へは向かない。門の脇に誰が立っていても、同じことだ。
「明日も門の脇に、いらっしゃいますか?」
「配る刻には居る」
私は、それを覚えた。傾いた日の光は薄く冷え、柱の影だけが石畳の上をこちらへ長く伸びている。
◇
夕日の中を、荷車が施療院へ行く。葡萄酒の樽を全部載せた。輪が石を踏むたび、樽の中で重たい水音が鳴る。家令が鍵を出した蔵は、空だ。石の壁は、昼の熱を持たないまま暗い。
「エグモント様の葡萄酒を、施療院へ。皆の物ですので」
樽の前に老人が居る。戸口には薄い毛布にくるまった人が並び、荷車の水音のほうへ顔を向けている。名を聞く。覚えた。その手が樽に置かれる。皮膚の下に骨が浮いている。老人が言う。
「伯爵令息様は、なんとお優しい方だ」
ついて来ていたエグモント様が口を開く。甘い匂いの中で、声だけが細い。
「それは俺の……」
老人が、エグモント様の手を両手で握る。薄い指なのに、振りほどけない。その顔を前にして、微笑むしかない。
「……皆の物だ」
「はい。皆の物です」
「いつまで配る気だ?」
「皆の物が尽きるまでです」
老人が、もう一度握り直す。節ばった指が、その甲に重なる。
「……この老人は、俺に礼を言っているぞ」
「はい。受け取った方は、持ち主にお礼を言います」
「俺は何も渡していないぞ」
「手渡したのは私ですが、出したのはエグモント様ですので」
老人の手は温かい。握られたのは私の手ではないのに、見ているうちに、冷えた指の先まで同じ温度になっていく。渡した先から人の熱まで返るとは、教わらなかった。
帰り道、樽の重さが手のひらに残っている。母の櫛は、令嬢の髪にある。配るのが私の仕事で、配られる側に立ったことがない。宛先を決める人は、誰の宛先にもならない。殿下が六年見ていたと言った。それが何なのかを、私はまだ取っていない。門を通る足が、石の上でわずかに遅れる。息を一つ吐くと、白いものが夕闇にほどけて消える。
伯爵家の壁に剣が無く、厩に馬が無く、蔵に樽が無い。空いた場所ばかりが目につく。明日も伺うと、家令に言った。
◇
三日目の朝。広間の壁に、釘だけがある。その周りだけ壁紙の色が濃く、剣の形が影のように残っている。暖炉に火は入っておらず、息が薄く白い。令嬢たちは、長椅子に並んで掛け、衣擦れの音だけを重ねている。ベネディクタ様は、まだ来ていない。家令が鍵束を振ってみせる。金属の音だけが広く響く。開ける物が、無い。
「もう、配る物は無い」
令嬢たちがエグモント様を見る。並んだ視線に、逃げ道はない。
「配る物なら、まだございますわ」
「何が残っている?」
令嬢たちが、私を見る。扇が止まると、広間の音が消える。
「伯爵家の物が、一つだけございますわ」
「なら、言ってみろ」
「昼に、皆の前で申し上げます」
「今ここで言え」
「お一人、足りません」
エグモント様が、空いた席を見る。背もたれに落ちた窓の光が、誰もいない肩の形を作る。
「勿体ぶるな」
「施与は、宛先の前で。ベネディクタ様がお見えになってからです」
「あれを待つ理由がどこにある?」
「手渡すお相手の前で手渡すのが、作法ですので」
窓の外を荷車が通って行く。誰の荷でもない車輪の音が、物の無い広間の奥まで響く。
「作法、作法と。お前はそれしか言えんのか?」
「はい。六年、それだけで足りております」
令嬢たちの衣擦れが、止まる。火のない暖炉が、黒い口を開けている。
「……それで、お前は何が欲しい?」
「私は、頂く役ではありませんので」
「……昼まで待てと言うのか?」
「昼までには、皆様がお揃いになりますので」
令嬢たちが顔を見合わせる。空いた席は、一つだけだ。そこへ落ちる光が、ゆっくり傾いていく。
◇
昼。ベネディクタ様が来て、令嬢たちの席が埋まる。高い窓から白い光が落ち、髪の櫛の銀を冷たく輝かせる。ベネディクタ様が、エグモント様の隣に立つ。
「エグモント様の婚約者の座を、ベネディクタ様へ。形見の櫛をお持ちですから、ひと揃いで」
ベネディクタ様の顔が明るくなる。令嬢たちが拍手をし、扇の骨まで軽く鳴る。
「本当に、よろしいんですの? ルイーザ様の……」
「持ち主が皆の前で仰いました。ですから、宛先を決めました」
「待て。婚約者の座は物ではない」
「伯爵家の物では?」
令嬢たちの拍手が、まだ鳴っている。
「その座は、家が決める物だ」
「はい。ならば、伯爵家の物ですね」
エグモント様が息を吸う。吸っただけで、言葉にならない。喉元が動き、広間の冷気だけが戻ってくる。
家令が咳払いをして言う。その音が、拍手の切れ間へ収まる。
「伯爵家の物は皆の物、と仰せでした。婚約者の座も、伯爵家の物にございます」
エグモント様が令嬢たちを見る。昨日と同じ顔で、黙る。誰も、目を伏せない。髪の銀だけが、窓の光を返している。
最後に配ったのは、婚約者の座だった。
ベネディクタ様の扇を、隣の令嬢が眺めている。ベネディクタ様がそれを握る。指の白さが、骨の色と変わらない。
「では、わたしの扇も皆の物になるのでしょう?」
「それは伯爵令息がお決めになります」
「……そんな。これは、わたし自身が選んだ物ですのに」
「配る物を選ぶのは、持ち主ですので」
空いた手が、櫛へ上がる。指先は、銀に触れる前から固い。
「……では、この櫛をお返ししてもよろしいでしょう?」
「配られた物は、返りません。手渡しの慣いですので」
「でも……形見ですもの」
「形見でも返りません。私が返せと言えば、醜いと言われます」
ベネディクタ様の指が、櫛の背をゆっくりなぞる。銀の表を、爪の先が滑る。
「……ルイーザ様は、それでよろしいの?」
「よくはありません。それでも、慣いですので」
「……これは、わたしのせいですの?」
「いいえ。持ち主が皆の物だと仰っただけです」
ベネディクタ様が櫛を抜きかけて、やめる。歯が窓の光を受けて、一度だけ白く光る。手を伸ばせば届く。伸ばさない腕のほうが、肩から先まで重い。
伯爵令息が、私を呼ぶ。声になるまでの間が、妙に長い。
「……ルイーザ」
「施与の門へ戻る刻ですので。伯爵令息、ベネディクタ様、どうぞお幸せに」
広間を出る。石の廊下は足の裏から冷たく、背中では拍手がまだ続いている。壁に、剣が無い。その空白だけが、通り過ぎる私を見送る。
◇
夕暮れ。施与の門を閉める刻に、門柱の側で殿下が待っている。手に、銀の櫛。暮れかけた光の中で、それだけが小さな月のように浮いている。
「あの令嬢が、言い値で売った」
「……どこで、お求めになったのですか?」
「あの夜から、櫛の在り処は知っていた」
沈みかけた日が、銀の面を薄く光らせる。夕暮れの赤が、細い縁にだけ残る。
「……ずいぶん、お高かったでしょう?」
「櫛の値ではない」
「……では、何の値でしょう?」
「私には、惜しくない値だ」
買った物は、買った者の物だ。そこには、施与官の作法も要らない。
「配られていない物が、一つある」
「……それは、何でしょう?」
「六年、門の脇で見ていた。……見ているだけだった」
「……私は、宛先しか見ておりませんでした」
殿下が、門柱を離れる。門の蝶番が、閉める刻の音で軋む。柱の影が私の足元まで滑り、止まる。
「配るのではない。返す。それから、その配られていない物を、私に貰いたい」
殿下が櫛を差し出す。配る手ではない。私はおずおずと受け取った――――。
銀の歯が指に冷たく、掌の熱をゆっくり奪う。手渡された物は、受け取った者の物になる。
「母が、私に。これだけは、あなたの物だと」
私は櫛を、自分の髪に挿す。銀の歯が髪を分ける感触が、指先から静かに戻って来る。母に挿してもらった場所へ――。
「お似合いだ。それがあなたの物だとは知っている。あの夜、櫛を見ていたのはあなただけだった」
「……六年、一度も仰いませんでした」
「あそこは、言う場所ではなかったからな」
門の外は、もう暗い。灯りを入れる刻だ。冷えた石の匂いの中で、互いの顔だけはまだ見える。
「殿下、それで――『配られていない物』とは、何でしょうか?」
「君だよ、ルイーザ」
「……え?」
いきなりのことに私は言葉を失った。
「私と一緒に人生を歩んでほしいんだ」
「そ、それって……」
「ダメかな?」
私はゆっくりと息を吸う。殿下の瞳は優しく輝き、誠実さを湛えている。
「ダメです。私だけは、配りませんわ」
「え?」
「差し上げる先を、自分で決めましたので。ふふっ」
「その宛先は?」
息を、一つ。冷たい空気が入って、言葉の置き場所が空く。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」
私はそっと殿下の手を取った。




