エルサーナ叙事詩1 〜母、セル
ひとつの帝国が、大部分を領有する世界。
ただ、帝国とは異なる様式の生活を営む草原だけが、その領有外にあった。
そして、人と宇宙を超えた存在がしろしめす
アナイオン。
アナイオンと、人間・宇宙をつなぐナルセラーサ。
それは、本来、人間とは関わりを持たない世界のはずだった。
が、ナルセラーサを理解し、やがて、その認識がアナイオンに至る人間が誕生した。
草原のエルサーナ。
帝国のラサリオン。
思索者ユーム。
神々の物語が始まる。
そして、英雄たちの物語がそれに続くであろう。
草原の一部族であるアルーサの若き汗、エルラスの愛妾セルは、長らく病床に臥していた。
医師より
「余命幾ばくもない」
と告げられたエルラスは、セルとの間に生まれた四歳の男児エルサーナと、二歳の女児セレナを連れて、セルが療養するゲルを訪れた。
ゲルの入口にエルラスの姿を認めたセルの顔が一瞬輝いた。
しかし、セルの口をついて出たことばは
「あなた、どうかそれ以上は近づかないで下さい」
というものであった。
セルは伝染性の胸の病であった。
一年以上の病臥生活にもかかわらずその美しさは少しも損なわれてはいなかった。むしろその顔色は健康を失った代わりに、より白く、より透明感を増していた。
セルのことばにもかかわらず、エルラスはセルのベッドの傍らにやってきた。
「そういうわけにはいかぬ。今日はお前と最後の別れをするためにやってきたのだ。エルサーナとセレナも連れてきた」
「ああ」
セルの目から涙があふれた。
「エルサーナ。セレナ」
セルの両手がその顔を覆った。
しばし涙に暮れたあと、セルは顔をエルラスに向けた。
「あの子たちに病が移ったら大変です。でもどうか一目だけ逢わせて下さい」
「一目ではない。このベッドに連れてくる。あの子たちに母として最後のことばをかけてやってくれ。
エルサーナとセレナもどんなにお前に逢いたがっていたことか。せめて最後の時くらい抱いてやってくれ。それで病が移ったりするものか。偉大なる神、アナイオン・アルセラフィーユもきっとお許しになる」
セルもそのことばにすがった。信じてもよいと思った。セルはどんなにそれを望んでいたことだろう。
エルラスはゲルの入口を出て、そこに佇んでいた従者にエルサーナとセレナを連れてくるように告げた。
しばらくして、エルラスとともにエルサーナとセレナが入口から姿をのぞかせた。
「お父さま。お母さまのところに行ってもいいの」
四歳のエルサーナがおずおずとエルラスに訊きただした。今まではずっと母のゲルに近づくことをかたく禁じられていたのだ。
「ああ、今日は最後のお別れだ。行きなさい」
そのことばを聞くやいなやエルサーナは母の元に駆け寄った。セレナもあとに続く。
「お母さま」
「おお、エルサーナ、セレナ」
親子は抱き合った。
一年数ヶ月ぶりの抱擁であったが、セレナには母に抱かれた記憶はない。エルサーナにとってもそれは極めて淡い思い出でしかない。
そして、エルサーナとセレナは、セルの記憶にあった姿からはるかに大きくなっていた。
もし、逢うことが許されるなら。
セルには我が子に話したいことはいくらでもあった。しかし、それが現実になると様々な想いが胸に溢れてことばが出てこなかった。
セルは涙に暮れながらしばらくじっと二人の子供を抱きしめた。
だが、偉大なる神、アナイオン・アルセラフィーユから許された時間は決して多くはないはずだ。
セルは我が子をそっと胸から放し、涙を拭きながらその全身をじっと眺めた。
セルはやっとの思いでことばを紡ぎだした。
「エルサーナ、セレナ、大きくなったわねえ」
「お母さま。僕は今度、お父さまに馬をもらうんだ。アークティカとウィングの間に生まれた初めての子供なんだよ。名前は僕がアークトゥルスとつけたんだ。」
草原の民とともに生きる馬は、世界の中で、最高の能力をもつ馬である。
アークティカはエルラスの愛馬であった。
そしてウィングはかつてセルの愛馬だった。
白毛と栗毛のその二頭の馬はそれぞれ、草原に存在する数多の馬のなかでも最も速く、最も賢い牡馬と牝馬であった。
「そう、ウィングが子供を産んだの」
セルはかつて自分を乗せて草原を疾走した愛馬に想いをはせた。あれからどれだけの月日が流れたのだろう。
セルが病に倒れたあと、ウィングはその背に誰も乗せようとしないということは、セルは自分を看護する従者からすでに聞いていた。
「エルサーナももう馬に乗れるような年齢になったのね」
エルサーナが話せたのはそれだけだった。
それからあとはセレナが自分のことを話し続けた。
まだ二歳のセレナに系統だった話ができるわけではない。セレナが思いつくままに色々な話をする。
セルはそれにいちいち頷きながらニコニコと聴き続けた。
それはまさに病床にある間中、セレナが思い描いていた光景だった。
夢はかなった。たった一度だけ。
別れの時が近づいた。
「エルサーナ、セレナ」
セルが話し始めた。 愛するわが子に最後のことばを遺さなければならない。
「私はもうすぐ、偉大なる神、アナイオン・アルセラフィーユ様に召されて天に行きます。あなたたちの前からいなくなってしまいます」
エルサーナが目に涙をいっぱい浮かべながらもじっと聴き入った。そのことはエルサーナは既に父親から言い聴かされていた。セレナには母のことばはまだよく理解できなかったが、兄を見習って同じように黙って頷いていた。
「病気になってしまって、私はいつも寝てばかり。あなたたちとちっとも一緒に遊んで上げることが出来なかった。でも私はいつもいつもあなたたちのことばかり考えていました。逢いたくて、逢いたくて。でも私の願いを今日、お父さまが叶えて下さいました」
ここまでしゃべるとセルは再び、二人の我が子を抱きしめた。
「ああ、エルサーナ、セレナ。愛しています、愛しています。私がこの世界からいなくなっても寂しがらないで。私はいつだって天からあなたたちのことを見守り続けています。今までは一緒にいることが出来なかったけれど、これからはいつだって一緒にいます」
しばらくただ抱き合う時間が続いた。
「私のことをどうか忘れないで」
エルサーナがこっくりと頷くのをセレナは胸に感じた。
セレナはかたわらに立つエルラスに視線を向けた。
「あなた、ありがとうございました」
エルサーナとセレナをそっと胸から放した。
エルラスが頷く。
「さあ、エルサーナ、セレナ。行こう」
エルサーナは泣きじゃくりながらも頷いた。
エルラスは左手でセレナを抱き上げ、右手でエルサーナの手をひいた。
草原の民、アルーサの若き汗、エルラスもまた目に涙を浮かべていたが、そのままセルに笑顔をひとつ残してベッドを離れ、ゲルの今は閉まっている扉に向かった。
夫と二人の子供の背中が一歩、一歩セルの視界から遠ざかる。
扉に着いた。
「あっ」
セルが思わず一声発した。エルラスが振り返った。
エルサーナの頭をなでて母の方へ振り向かせた。
エルラスとその胸に抱かれたセレナとそして横に立つエルサーナと。
三人が並んだ。
エルサーナは必死に涙をこらえている。
セルは三人の姿を、その目に、その胸に灼きつけた。
永遠の一瞬が過ぎた。
セルはこっくりと頷いた。
エルラスが頷き返した。
三人の姿が次々に扉から消えていく。
消える瞬間、三人とも、セルに向けて、その持てる最高の笑顔を残した。
セルは目を閉じた。
今、自分の網膜にある映像を他の光景によって置き換えることを拒否するかのように。
セルは家族との最後の別れを行った翌日、静かに息を引き取った。二十一歳だった。
葬儀の行われた日の夕べ、エルサーナは独りアークトゥルスの背に乗って、ゲルの集まった領域を離れて草原を疾駆した。
どこまでも、どこまでも。
彼は母と話がしたかった。
抜群の視力を誇る草原の民。彼もその例にもれなかったが、彼の視力をもってしてももうゲルは見えなくなった。
見渡す限りの草原。周囲全ての方向に広がる地平線。天はそれがありうる最も低い位置から地を覆っていた。
エルサーナはアークトゥルスの背からおりた。
エルサーナは寝転んだ。そして天を見た。
そこは母のいる場所だった。
エルサーナはいつまでもそうしていた。
夜になった。
この時、月は新月の時期で、天においてはその最も鋭利な姿があった。そして雲は一片も存在しなかった。
満天に星が溢れる。その全ての星にただ独り向かい合う少年。
天と対峙するエルサーナの心中に存在したもの。
それは、彼はまだ知るべくもない概念であったが「永遠」ということばが最もふさわしいものであったろう。
あるいは「神」と呼ばれうるものであったかもしれない。
エルサーナが生まれて最初の記憶。
それはおのれを抱く母の姿であった。彼にはもうそれが現実のことだったのか、夢の世界のことであったのか判らない淡い映像であった。
彼は全てを母にゆだねていた。ひたすらな安心感、慈愛、美。
これらのことばが意味するものはエルサーナにとってはこの時の母の姿に他ならない。
しかし、その慈しみ深き人はエルサーナの元からいなくなってしまった。
母が病臥するゲル。その存在を意識した時、エルサーナはどんなにかその場所に憧れたことだろう。何度、その扉を開けようと想ったことだろう。
それをさせなかったのは父の言った
「セルもそれを望んでいない」
という一言があったからであった。
憧れぬいた末にようやく逢うことが出来た母。母はエルサーナの記憶のとおり、いやそれを超えて美しい人だった。
そして優しい人だった。
エルサーナは天を見る。そこは母のいる場所だ。
「人は天から降り立ち地に生まれる。そして、死して再び天に還る」
エルサーナはそのように教えられた。
エルサーナは天に行きたいと想った。
母の元に行きたいと強く想った。
突然、エルサーナは自らの全身が何者かによって包まれたのを感じた。
体が浮遊する。
満天に散らばる星がエルサーナの方に近づいてくる。
いや、そうではなかった。エルサーナが天に向かって飛んでいた。
星がその光度を増してくる。
さらに天に近づく。
もう星は個々の姿としては存在せず、エルサーナの目にはただ光だけが溢れた。
光の中に飛び込んだ。
エルサーナは光につつまれた。
光の彼方に母の姿があった。
母はあの至上の優しさをたたえた笑顔でエルサーナを見つめていた。
エルサーナは母の胸に飛び込み、母に抱かれた。
エルサーナは母と自分をつつむ光に目を凝らした。
エルサーナのもつことばではその光景を、そして今、その心に満たされた想いを表現することは出来なかった。
いや、たとえどんな碩学であっても人間には表現できることではなかった。
しかしエルサーナは……
全てを理解した。
翌朝、エルサーナは幼なじみのアールショーに発見された。
寒さ厳しい草原で一夜を明かしたエルサーナは、瀕死の状態であった。
彼の傍らにはやはり幼い当歳馬アークトゥルスがいて、その鼻先をエルサーナの体にこすりつけていた。
三昼夜、生死の境をさまよったのち、エルサーナは生還した。
エルサーナは変貌していた。
元々、母親に似たとても美しい少年であったが、優しい心の克ったやや弱々しい印象を見る人に与えていた。
生還したエルサーナには、彼を見る人が思わず頭を下げざるをえない威があった。
それはたかだか四歳の子供が、本来もてるようなものではなかった。そして、その容姿は人を超えた神聖なるものを感じざるをえないものとなっていた。
エルサーナとセレナの兄妹の日常は、母が病に倒れてからは、マンドハイという名前の少女が面倒を見ていた。
セルが亡くなったときでまだ十五歳であったが、母がいなくなったこの兄妹に対して、それまでにも増した愛情で接し続けた。
「アイラルフィン」
いつもそうあるように、目を閉じて、アナイオンにその精神を遊ばせていたアルセラフィーユの瞼が開き、傍らにあった妹の方にその精神を向けた。
「はい、アルセラフィーユお兄さま」
「あなたも感じましたね」
「ええ」
「今、アナイオンに何か別の世界のものが訪れました。六年前にもここを訪れるものがいましたが、これは……」
アイラルフィンがアルセラフィーユの精神を静かに受けとめ、その先をうながした。
「何かが始まろうとしているのか。それとも……」
アルセラフィーユは再び目を閉じた。
しばらくして、その瞳から再び光が発せられた。
「何かが終わるのか」




