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無実の僕を「痴漢」と決めつけ捨てた家族へ。真犯人が見つかった今さら、泣いて謝られてももう遅い。僕はもう、どこにもいない。  作者: ledled


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第六話 色彩のない遺影

霊安室の空気は、冷蔵庫の中のように冷たく、そして消毒液のツンとする臭いで満たされていた。

ステンレスの台の上に、白い布がかけられた物体が置かれている。

警察官が、事務的な手つきでその布をゆっくりと捲った。


「……ご確認ください」


そこにいたのは、紛れもなく佐々木健太だった。

数日前まで、この世で呼吸をし、悩み、苦しみ、そして必死に無実を訴えていた十七歳の少年。

だが、その顔は蝋細工のように白く、唇は青紫色に変色していた。

水を含んで少し膨張してはいたが、まだあどけなさの残る寝顔のようにも見えた。

ただ、その目は永遠に閉じられ、二度と開くことはない。


「……健太」


母、美智子が震える指先で、息子の冷たい頬に触れた。

氷のように冷たい。

生きている温もりが、どこにもない。


「嘘よ……ねえ、起きて。風邪引くわよ、こんなところで寝てたら……」


美智子は優しく揺すった。まるで、朝寝坊した息子を起こすかのように。

しかし、健太は答えない。

首がぐらりと力なく揺れるだけだ。


「……う、うぅ……」


父、健一郎は膝から崩れ落ちた。

直視できなかった。

自分が殴った左頬には、まだ薄く痣が残っているように見えた。

家から追い出し、雨の中に放り出した結果が、これだ。

この冷たい肉体こそが、自分の教育と保身が生み出した「成果物」だった。


「ごめん……ごめんな……」


健一郎は床に頭を擦り付け、獣のような声で哭いた。

どれだけ謝っても、もう届かない。

社会的地位も、世間体も、金も、何もかもが無意味だった。

目の前にあるのは、二度と戻らない息子の命という、絶対的な喪失だけだった。


姉、美咲は入り口の近くで立ち尽くしていた。

一歩も近づけなかった。

「なんで生まれてきたの」と言い放った弟の死に顔。

その言葉が、彼を殺した凶器の一つになったのだとしたら、どうやって顔を見ればいい?

嘔吐感がこみ上げ、彼女は口元を押さえて廊下へ飛び出した。

胃の中には何もないのに、胃液だけが込み上げてくる。

自分は人殺しだ。弟殺しだ。

その事実が、全身の血管を駆け巡り、心臓を鷲掴みにしていた。


葬儀は、密葬として執り行われることになった。

マスコミには場所を伏せ、親族とごく一部の関係者だけで静かに行うはずだった。

しかし、斎場の外にはすでに数台のカメラが待ち構えていた。

「悲劇の少年」「冤罪被害者」「家族による虐待」

センセーショナルな見出しを求めて、ハイエナたちが群がっている。


斎場の中は、恐ろしいほど静かだった。

祭壇には、白い菊の花が飾られている。

中央に置かれた遺影は、高校の入学式の時のものだ。

まだ少し大きめの制服を着て、はにかむように微笑んでいる健太。

その瞳には希望の光が宿っている。

今の彼にはもうない、未来への希望が。

遺影の健太だけが、この色彩のない空間で唯一、生き生きとした表情を浮かべていた。


参列者は、家族三人だけだった。

親戚たちは「関わりたくない」と出席を拒否した。

学校関係者も、保身のためか、あるいは罪悪感からか、誰も来なかった。

広い斎場に、ポツンと置かれた三脚の椅子。

読経の声が、がらんとした空間に響き渡る。


健一郎は喪服に身を包み、背を丸めて座っていた。

会社からは懲戒解雇の通知が届いていた。

退職金もなく、社会的信用は地に落ちた。

ネット上では「殺人鬼」と呼ばれ、再就職の道も絶たれている。

だが、そんなことはどうでもよかった。

頭の中を占めるのは、あの日、健太が「違う、俺じゃない」と叫んだ声だけだ。

なぜ信じなかった?

なぜ話を聞こうとしなかった?

自分のプライドを守るために、一番大切なものを自らの手で破壊してしまった。


「……あなた」


美智子が、虚ろな目で健太の遺影を見つめながら呟いた。


「健太、お腹空いてないかしら。ハンバーグ、好きだったわよね。帰ってきたら作ってあげなきゃ」

「……美智子」

「あの子、雨に濡れて風邪引いてないかしら。着替えを用意しておかないと」


美智子の精神は、限界を超えて砕け散っていた。

彼女の中で、健太はまだ生きている。

いや、死んだことを認めてしまえば、自分が壊れてしまうから、必死に妄想の世界に逃げ込んでいるのだ。

健一郎は妻の肩を抱こうとしたが、その手は空を切った。

妻もまた、もう彼を見てはいなかった。


美咲は、ずっと下を向いていた。

涙は枯れ果てていた。

スマホは解約した。外の世界との繋がりをすべて断った。

大学も退学届を出した。

これからどうやって生きていけばいいのか、全く見当がつかなかった。

ただ、弟を死に追いやった姉として、一生十字架を背負って生きていくしかないのだという事実だけが、重くのしかかっていた。


その時、斎場の扉が静かに開いた。

係員が困惑した顔で入ってきた。


「あの……お焼香をしたいという方が、いらっしゃいまして……」

「……誰だ」


健一郎が掠れた声で尋ねた。

マスコミか? 野次馬か?


「高校の同級生の方だそうです」


入ってきたのは、制服姿の少女だった。

佐伯優花。

彼女は雨に濡れたような乱れた髪と、泣き腫らした目で、ふらふらと祭壇へと歩み寄ってきた。

手には、小さな花束が握られている。

彼女は家族の方を一瞥もしなかった。

ただ、真っ直ぐに健太の遺影だけを見ていた。


「……健太」


優花は祭壇の前で立ち止まり、崩れ落ちるように膝をついた。

花束を供える手がおぼつかない。

線香をあげることさえ忘れて、彼女は遺影に向かって語りかけた。


「ごめんね……遅くなって、ごめんね……」


彼女の声は震え、途切れ途切れだった。


「私、最低だよね。健太が一番辛い時に、逃げちゃって。自分のことしか考えてなくて」


優花の脳裏に、河川敷での別れが蘇る。

『もう二度と話しかけないで』と言った自分の声。

それに対する、健太の絶望に染まった表情。

あの日、彼が最後に見たのは、背を向けて逃げていく私の姿だったのだ。


「無実だって……分かってたのに……信じてあげられなくて……」


優花は両手で顔を覆い、慟哭した。


「返してよ……健太を返してよ……! 噂なんてどうでもいい! 誰に何を言われてもいい! だから、生きててよ……!」


静まり返った斎場に、少女の悲痛な叫びがこだました。

それは、ここにいる全員が言いたくても言えなかった言葉だった。

時間を戻したい。

あの分岐点で、違う選択をしたい。

でも、時間は残酷なまでに一方通行だ。


美咲が、ふらりと立ち上がった。

そして、優花の背中に手を置こうとして、止めた。

触れる資格がない。

優花もまた共犯者かもしれないが、少なくとも彼女はここに来て、謝罪している。

家族である自分たちは、謝罪することさえ許されない。

ただ、弟の死という結果を受け入れるしかないのだ。


「……優花ちゃん」


美智子が、夢遊病者のように近づいてきた。


「健太と遊んでくれるの? あら、嬉しいわねえ。あの子、最近部屋に籠もってばかりだったから」

「……おばさん」


優花は顔を上げ、美智子の狂気に満ちた目を見て息を呑んだ。


「健太なら、もうすぐ帰ってくるわよ。あの子、ちょっと遠くに行ってるだけだから。待っててあげてね」


美智子は優しく微笑んだ。

その笑顔は、この世のどんな恐怖映画よりも恐ろしかった。

優花は言葉を失い、ただ涙を流しながら首を横に振った。

帰ってこない。もう二度と。

健太は、白い箱の中に冷たくなって横たわっているのだから。


お別れの時間が来た。

棺の蓋が開けられ、花入れの儀式が行われる。

白い菊、ユリ、カーネーション。

色とりどりの花が、健太の遺体を埋め尽くしていく。

まるで、彼が生前受けられなかった優しさや愛情を、死後にまとめて押し付けているかのようだ。

健太の顔は安らかだった。

苦悶の表情はなく、ただ眠っているだけのように見える。

それが余計に、残された者たちの胸を抉った。

彼は死をもって、ようやくこの残酷な世界から解放されたのだ。

誹謗中傷も、暴力も、裏切りもない、静寂の世界へ。


「……健太」


健一郎は、震える手で一輪の花を息子の胸元に置いた。

触れた手は冷たかった。


「すまなかった……本当に、すまなかった……」


涙が溢れて止まらない。

父として、守るべきものを守れなかった。

息子を信じることよりも、世間の目を優先した。

その代償がこれだ。

愛する息子の死体。

一生消えない後悔。


「……起きなさいよ、あんた」


美咲が花を投げ入れた。乱暴な手つきだったが、その目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。


「無実なら、そう言いなさいよ……もっと大声で言いなさいよ! バカじゃないの! なんで死んで証明なんかするのよ!」


彼女は泣きながら、動かない弟の肩を叩いた。


「あんたがいなくなったら、私たちが悪者じゃない! ずるいよ……一人だけ楽になって……!」


罵倒のように聞こえる言葉は、彼女なりの哀悼であり、自分自身への怒りだった。

弟を犠牲にして得ようとした「普通の幸せ」は、もう永遠に手に入らない。


優花は、最後の一輪を手向けた。

彼女はそっと健太の額に口づけをした。


「……好きだったよ」


小さな声で囁いた。


「ずっと、言えなかったけど。大好きだった」


遅すぎた告白。

生きていれば、伝えられたかもしれない想い。

二人は恋人になれたかもしれない。一緒に大学に行って、大人になって、幸せな家庭を築いたかもしれない。

そんな「あり得たかもしれない未来」が、棺の中で花に埋もれていく。

優花は、自分の青春の一部が、ここで死んだことを悟った。


棺の蓋が閉じられる。

重い音が響き、健太の顔が見えなくなる。

世界から、彼の色が完全に失われた瞬間だった。

出棺のサイレンが鳴り響く。

長い、長い警笛。

それは、無実の少年の魂を彼方へと送る、悲しみの汽笛だった。


火葬場の煙突から、一筋の煙が昇っていく。

空は晴れていたが、その煙だけが灰色に濁って、空に溶けていく。

健太は骨になった。

真っ白で、脆い、骨の欠片。

それを骨壺に収めるとき、健一郎の手は激しく震え、箸を取り落とした。

美智子は骨壺を抱きしめ、「温かいわねえ」と頬ずりをした。

その異様な光景を、美咲と優花は虚ろな目で見つめていた。


数ヶ月後。


佐々木家は売りに出された。

「曰く付き物件」として、相場よりもかなり低い価格で買い叩かれた。

健一郎は地方の小さな運送会社で、トラック運転手として働いている。

かつてのエリート商社マンの面影はない。作業着に身を包み、日焼けした顔で黙々と荷物を運ぶ。

休憩時間にスマホを見ることはない。ニュースも見ない。

ただ、財布に入れた一枚の写真――笑顔の健太の写真を、擦り切れるほど見つめるだけだ。


美智子は、精神科病院に入院している。

症状は改善していない。

彼女は毎日、病院の庭で誰かを待っている。

「もうすぐ息子が帰ってくるんです。冤罪だったんですよ、あの子は。いい子なんです」

看護師や他の患者に、そう語り続けている。

彼女の時間の中で、健太はまだ雨の中、家に向かって歩いている途中なのだ。


美咲は、ネットカフェを転々とする生活を送っていた。

実名と顔写真が晒され、まともな就職はできなかった。

夜の仕事で食い繋いでいるが、客と目を合わせるのが怖かった。

ふとした瞬間に、弟の視線を感じるからだ。

「姉ちゃん」と呼ぶ声が聞こえる。

彼女は、自分が幸せになることを自らに禁じていた。

一生、底辺で這いつくばって生きることが、弟への贖罪だと信じて。


優花は、大学に進学した。

第一志望の大学に合格したが、そこに喜びはなかった。

キャンパスですれ違う男子学生の背中に、健太の面影を探してしまう。

似た後ろ姿を見つけるたびに、胸が締め付けられる。

彼女は「Twotter」のアカウントを消し、SNSを一切やめた。

スマートフォンのアルバムには、健太の写真は一枚も残っていない。

怖くて全部消してしまったからだ。

でも、記憶の中の彼は消えない。

「ごめん、今は無理」と言った自分のメッセージが、呪いのように心に焼き付いている。

彼女は一生、誰かを愛することを恐れて生きていくだろう。

また、大切な人を裏切ってしまうかもしれないという恐怖と共に。


ある冬の日。

更地になった佐々木家の跡地に、誰かが花束を供えていた。

白い菊の花束。

誰が置いたのかは分からない。

優花かもしれないし、通りすがりの誰かかもしれない。

あるいは、この事件を忘れまいとする、見知らぬ善意の人かもしれない。


冷たい風が吹き抜け、花束のリボンを揺らす。

そこには、何も書かれていないメッセージカードが添えられていた。

言葉など、もう必要なかった。

『彼は無実だった。だけど、誰もその声を聞かなかった』

その事実だけが、風に乗って街を漂い続ける。


満員電車は今日も走る。

無数の人々を乗せて、無機質に、正確に。

その中には、新たな冤罪の種が潜んでいるかもしれない。

第二、第三の健太が、今もどこかで「違う」と叫んでいるかもしれない。

だが、その声はヘッドホンの音や、スマホの画面に夢中な人々の耳には届かない。

世界は何も変わらなかった。

一人の少年が死に、一つの家族が壊れただけ。

それだけのこととして、日常は残酷なまでに平然と続いていく。


灰色の空の下、色彩のない遺影だけが、誰にも届かない微笑みを浮かべ続けていた。

僕の無実は証明されたよ。

でも、もう誰もいないんだね。

そんな声が、空虚な風の中に溶けて消えた。

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