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無実の僕を「痴漢」と決めつけ捨てた家族へ。真犯人が見つかった今さら、泣いて謝られてももう遅い。僕はもう、どこにもいない。  作者: ledled


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第五話 暴かれた真実

雨が上がった翌日の空は、皮肉なほどに青く澄み渡っていた。

佐々木健太が家を追い出されてから、三日が経過していた。

佐々木家の朝食の風景は、以前とは少し異なっていた。テーブルの上の食器が一組減り、あの重苦しい沈黙の原因となっていた「異物」が排除されたことで、奇妙なほど整然とした空気が流れていた。


父、健一郎は新聞を広げている。

母、美智子は無言で味噌汁をよそっている。

姉、美咲はスマホをいじらず、大人しくトーストをかじっている。

誰も健太の話をしなかった。彼の名前を口にすることは、この家ではタブーとなっていたからだ。

彼がいなくなったことで、近所からの誹謗中傷のビラは減った。嫌がらせの電話も少しずつ鳴り止んできている。

父は会社で針のむしろに座らされながらも、「息子とは絶縁した」「厳しく処断した」と周囲に吹聴することで、なんとか体面を保とうとしていた。


「……今日から、少し遅くなるかもしれない」


健一郎がコーヒーを飲みながら言った。


「部長昇進の話は流れたが、新規プロジェクトの補佐に入ることになった。挽回のチャンスだ」

「そうですか……無理なさらないでくださいね」


美智子が抑揚のない声で答える。彼女の目は少し虚ろで、目の下の隈が化粧でも隠しきれていない。

美咲は黙々と食事を続け、ふと時計を見た。


「私、今日は大学休む。まだ視線が痛いし」

「そうしなさい。ほとぼりが冷めるまでは、目立たないのが一番だ」


健一郎はそう言って立ち上がり、スーツの上着を羽織った。

「厄介払い」は済んだ。

多少の犠牲は払ったが、これで佐々木家は正常な軌道に戻れるはずだ。

そう信じていた。いや、そう信じなければ、自分のしたことの正当性を保てなかったからだ。


その時だった。

リビングの大型テレビから流れていた朝のニュース番組が、速報のチャイムとともに画面を切り替えた。


『ニュース速報です。本日未明、警視庁は都内で頻発していた連続痴漢事件の容疑者として、無職の男(35)を逮捕しました』


健一郎の手が止まる。

美咲が顔を上げた。

美智子は味噌汁のお椀を持ったまま凍りついた。


『容疑者は、主に満員電車を利用し、女子高生などを狙って犯行を繰り返していたと見られます。警察の調べに対し、容疑者は犯行を認めており、自宅からは犯行を記録したと見られる動画データが大量に押収されました』


アナウンサーの声が、淡々と事実を伝えていく。

画面には、フードを深く被った男が警察車両に乗せられる映像が流れている。


『なお、今回の逮捕により、先週◯◯線で発生した男子高校生による痴漢事件についても、この男の犯行であったことが判明しました』


空気が凍結した。

「先週◯◯線」「男子高校生」。

それは紛れもなく、健太が巻き込まれたあの事件のことだ。


『警察が押収した動画の中に、当該事件の被害者女性を盗撮したものが含まれており、さらに動画には、近くにいた男子高校生が冤罪を主張する様子や、容疑者自身の手が犯行に及んでいる瞬間が鮮明に映っていたとのことです。警察は、誤認逮捕された男子高校生について、本日中にも謝罪会見を開く方針です』


「……え?」


美咲の口から、乾いた音が漏れた。


「嘘……でしょ?」


健一郎はリモコンを握りしめ、画面を凝視していた。

顔色がみるみるうちに蒼白になり、脂汗が額に滲む。


「誤認逮捕……? 真犯人が、別にいた……?」


美智子の手からお椀が滑り落ちた。

ガシャン、という激しい音と共に、味噌汁が床に広がる。しかし、彼女はそれを拭こうともせず、テレビ画面を見つめたまま震え出した。


『繰り返します。先週の事件で逮捕・送検されていた男子高校生は無実であり、警察は誤認逮捕を認め、謝罪する方針です。少年の潔白が、証明されました』


テレビの中のアナウンサーが、残酷なまでに明るい声で告げた「潔白」という言葉。

それは、佐々木家にとっては救いではなく、死刑宣告にも等しい響きを持っていた。


「あ、ありえない……だって、あいつは……」


健一郎は譫言うわごとのように呟いた。

警察も認めた。被害者も証言した。示談金も払った。

だから「あいつがやった」ことにしたはずだ。

それが全て、間違いだった?

間違いだったのなら、俺がしたことは?

殴り、罵倒し、家から追い出したあの行為は?


「パパ……どういうこと?」


美咲が悲鳴のような声を上げた。

彼女は震える手でスマホを取り出し、SNSを開いた。

数日前まで健太を叩いていたタイムラインが、凄まじい勢いで反転していた。


『うわ、佐々木健太くん、無実だったってよ』

『真犯人逮捕されたらしい。動画も出てきたって』

『じゃあ、あの子マジで冤罪だったんじゃん』

『かわいそうすぎる。警察何やってんの?』

『ていうか、家族は? 家族もあの子のこと犯人扱いしてたよね?』

『親父が会社で「絶縁した」って言ってたらしいぞ』

『最低な家族だな』

『息子を信じずに切り捨てた毒親』

『佐々木家の住所ここだよね? 謝れよ』


情報の波が、今度は「被害者遺族」であるはずの家族へと牙を向けて襲いかかってきた。

美咲のスマホが通知で埋め尽くされる。


『弟さん、無実だったんですね。信じてあげなかったんですか?』

『人殺し』

『お前も同罪だ』


「いや……嫌ぁぁぁぁぁッ!!」


美咲はスマホを放り投げ、耳を塞いで絶叫した。


「違う、私は悪くない! パパが悪いんでしょ!? パパがやったって言ったから! 警察もそう言ったから!」

「お、俺のせいにするな!」


健一郎が怒鳴り返した。だが、その声にはいつもの威厳はなく、恐怖で裏返っていた。


「警察が間違えたんだ! 俺は被害者だ! 騙されたんだ!」

「あなたが……あなたが追い出したのよ……!」


床に座り込んだまま、美智子が呻くように言った。

彼女の目は焦点が合わず、狂気を帯びていた。


「健太は言ったわ。『違う』って。『信じてくれ』って。何度も、何度も……」


美智子の脳裏に、雨の中へ消えていった息子の背中が蘇る。

あの時、呼び止めていれば。

あの時、話を聞いてあげていれば。

取り返しのつかないことをしたという実感が、巨大な波となって彼女を飲み込んだ。


「あの子は無実だったのよ……! 私たちが、無実の子を捨てたのよ!」

「うるさい! 黙れ!」


健一郎は妻の叫びを遮ろうとしたが、その時、家の固定電話が鳴り響いた。

けたたましい呼び出し音。

誰も出ようとしない。

留守番電話に切り替わる。


『……あー、警視庁の◯◯です。佐々木健一郎さんのご自宅でしょうか。この度は、大変申し訳ないご連絡がありまして……』


警察からの電話だ。

健一郎は、逃げるように受話器を取った。

怒鳴りつけてやりたかった。お前らのせいで俺の人生は滅茶苦茶だと。

だが、受話器の向こうから聞こえてきた言葉に、彼の言葉は喉で詰まった。


『真犯人が見つかりました。息子さんの容疑は完全に晴れました。つきましては、直接謝罪をさせていただきたいのと、手続きがありますので、息子さんに代わっていただけないでしょうか』

「…………」


健一郎の唇が震える。

代わる?

誰に?


『もしもし? お父さん? 佐々木健太くんはいらっしゃいますか?』

「……いない」

『え? 学校ですか? 本日は登校されているのでしょうか』

「……いないんだ」


健一郎は、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。


「追い出したんだ……俺が……」

『はい?』

「俺が、あいつを家から追い出したんだ! 二度と帰ってくるなと言って……!」


受話器の向こうで、刑事が絶句する気配がした。

長い沈黙。

それは、警察による誤認逮捕よりもさらに重い、親による「育児放棄」と「虐待」の事実が露見した瞬間だった。


『……佐々木さん。息子さんは、今どこに?』


刑事の声が、事務的なものから、非難を含んだ厳しいものへと変わった。


「知らん……金だけ渡して……行先なんて……」

『直ちに捜索願を出してください! 未成年を、しかも精神的に追い詰められた状態の少年を放り出すなんて、何を考えているんですか!』


電話を切られた後も、ツー、ツーという電子音が虚しく響いていた。

健一郎は受話器を握りしめたまま、呆然と床を見つめていた。

会社? 昇進? 世間体?

そんなものはもう、灰のように崩れ去っていた。

残ったのは、「無実の息子を捨てた鬼畜の父親」という、一生消えない烙印だけだ。


***


同じ頃、佐伯優花は通学路の途中にいた。

スマホの画面を見つめたまま、彼女は立ち尽くしていた。

周囲の生徒たちが、ヒソヒソと話をしながら通り過ぎていく。

「見た? ニュース」「佐々木、無実だって」「マジかよ」「あいつかわいそう」

昨日まで彼を嘲笑っていた口が、今日は掌を返したように同情の言葉を吐いている。


優花の指先が震え、スマホを取り落としそうになった。

画面には、トレンド入りした『#佐々木健太くん無実』のハッシュタグ。

そして、無数の謝罪ツイート。


『ごめんなさい、信じてあげられなくて』

『誤解しててごめん』

『犯人扱いしてすみませんでした』


優花は呼吸がうまくできなくなった。

胸が苦しい。心臓が痛い。

無実だった。

健太は、本当に何もしていなかった。

あの電車の日、彼が訴えていたことは真実だった。

河川敷で、必死な目で「信じてくれ」と言った言葉は、嘘じゃなかった。


『ごめんね、健太。私、自分が一番大事なの』

『さよなら。もう二度と話しかけないで』


自分が彼に放った言葉が、鋭利な刃物となって自分自身に跳ね返ってくる。

私は何をした?

一番苦しい時に、一番近くにいた私が、彼にとどめを刺した。

保身のために。

自分が傷つきたくないという、ただそれだけの理由で。


「……あ、あぁ……」


優花はその場に蹲った。

胃液がせり上がってくる。

彼を信じなかった罪悪感と、取り返しのつかないことをしてしまった絶望感で、視界が歪む。

もし、あの時「信じるよ」と言っていれば。

もし、あの時彼の手を握っていれば。

彼は救われたかもしれない。


「優花、大丈夫?」


友人の一人が声をかけてきた。昨日、健太を罵倒した子だ。


「優花も被害者だよねー。あいつのせいで巻き込まれてさ。でも無実でよかったじゃん。これで優花への誹謗中傷も止むよ」


友人は悪びれもせずに言った。

その軽薄さが、優花の中の何かを壊した。


「……違う」


優花は友人の手を振り払った。


「よかったことなんて、何一つない……!」

「え?」

「私たちが殺したのよ! 健太の心を、私たちが殺したの!」


優花は叫んだ。通りすがりの人々が驚いて振り返る。

涙が溢れて止まらなかった。

もう遅い。

謝りたくても、彼はもう学校にはいない。

噂では、家も追い出されたという。

彼はどこに行ったの?

あの雨の夜、彼はどんな思いで街を彷徨っていたの?

私が拒絶したせいで、彼は帰る場所さえ失ったんじゃないの?


「健太……っ、ごめんなさい……ごめんなさい……!」


アスファルトに涙が落ちてシミを作る。

いくら謝っても、あの日の夕暮れは戻らない。

優花の世界は、色を取り戻すどころか、永遠に消えない灰色の後悔に塗り潰された。


***


夜になっても、佐々木健太は見つからなかった。

警察による捜索が始まったが、手掛かりは皆無だった。

佐々木家の前には、マスコミが押し寄せていた。

かつては「痴漢の家」として石を投げられた家が、今は「悲劇の少年を追い詰めた虐待家族の家」としてカメラのフラッシュに晒されている。


リビングのカーテンは閉め切られたままだった。

健一郎は酒を飲む気力もなく、ソファで頭を抱えていた。

会社からは「当面の間、出社を見合わせろ」という事実上の謹慎命令が出た。

ネット上では、彼の名前も、勤務先も、役職も、すべて晒され、炎上していた。


『こんな父親がいる会社の商品なんて買わない』

『子供を守れない奴が管理職とか笑わせる』

『人殺し企業』


美智子は、健太の部屋にいた。

主のいない、冷え切った部屋。

机の上には、突っ伏して泣き崩れた跡のようなシミが残っていた。

ゴミ箱の中には、破られたプリクラがあった。

健太と優花が笑顔で映っている写真。

それを拾い上げ、美智子は胸に抱いて泣いた。


「帰ってきて……健太……」


美智子の精神は限界を迎えていた。

幻聴が聞こえる。

階段を上がる足音。ドアをノックする音。

「母さん、お腹すいたよ」という声。

慌ててドアを開けても、そこには暗い廊下が広がっているだけ。


美咲は自分の部屋に引きこもり、布団を被って震えていた。

大学の友人グループからは退会させられ、SNSのアカウントは削除した。

それでも、ネットの海に残ったデジタルタトゥーは消えない。

彼女が弟を罵倒していたという証言が、次々と掘り起こされていた。

自分の人生を守ろうとして弟を切り捨てた結果、彼女自身の人生が完全に終わってしまった。


深夜。

電話が鳴った。

警察からだった。

健一郎は、祈るような気持ちで受話器を取った。

「見つかりました」という言葉を期待して。

生きてさえいれば、やり直せる。

土下座して謝ろう。何でも言うことを聞こう。

だから、生きていてくれ。


『……佐々木さんですか』


刑事の声は、重く、沈んでいた。


『息子さんの……所持品と思われるものが、発見されました』

「……所持品?」

『はい。リュックサックです。中には、学生証と……着替えが入っていました』

「それは、どこで……」


健一郎の声が震える。


『K川の、下流です。河川敷に……放置されていました』


心臓が止まるかと思った。

K川。

昨夜の豪雨で増水していた川だ。


『現在、川の捜索を行っていますが……水量が多いため、難航しています』

「嘘だ……」

『念のため、確認に来ていただけますか』


受話器が手から滑り落ちた。

カタン、と乾いた音が響く。

その音は、佐々木家が完全に崩壊したことを告げる、終わりの鐘のようだった。


「あなた……?」


美智子が幽霊のようにリビングに現れた。


「健太は……見つかったの?」


健一郎は答えることができなかった。

ただ、絶望に顔を歪め、涙を流すことしかできなかった。

無実だった。

彼は潔白だった。

その真実が明らかになった今、世界はあまりにも残酷な答え合わせを突きつけてきた。


雨上がりの星空の下、佐々木健太という少年の存在は、すでにこの世のどこにもないのかもしれない。

「誰もその声を聞かなかった」ことの代償は、残された者たちが一生背負っても償いきれないほどに、重く、冷たいものだった。

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