第四話 透明な存在
夜の帳が下りきった頃、僕は家に帰り着いた。
足取りは鉛のように重く、心臓は不規則なリズムを刻んでいる。
優花に拒絶されたあの河川敷から、どうやって歩いてきたのか記憶が曖昧だ。
ただ、街灯の頼りない明かりと、すれ違う人々の視線に怯えながら、本能だけで足を動かしていた気がする。
玄関のドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触が、手のひらから全身へと伝わり、震えを誘発した。
鍵は開いていた。
深呼吸をして、そっとドアを開ける。
「ただいま」という言葉は、喉の奥で消えた。言う資格も、聞いてくれる相手もいない。
リビングのドアが開いていた。
そこから漏れる光が、薄暗い廊下に長い影を落としている。
その光の中に、父が立っていた。
まるで僕が帰ってくるのを待ち構えていたかのような、仁王立ちだった。
「……どこをほっつき歩いていた」
父の声は低く、地響きのように空気を震わせた。
酒の臭いが廊下まで漂ってくる。顔は赤いが、目は血走っていて、酔いよりも怒気が勝っていた。
「……ちょっと、外の空気を吸いに……」
「学校から電話があったぞ」
父が怒鳴り声を上げるのを予感して、僕は身をすくめた。
「お前、学校に行ったらしいな。自宅謹慎中だと言ったはずだ。その上、河川敷で女子生徒に付きまとっていたと、近所の人から通報があったそうだ」
「ち、違う! 付きまとってなんかいない! 友達と話をしたかっただけで……」
「黙れ!」
父の手が伸びてきて、僕の胸倉を掴んだ。
そのまま壁に押し付けられる。背中にドン、という衝撃が走り、呼吸が止まった。
「友達? お前に友達なんているのか? 犯罪者に友達なんているわけがないだろう!」
至近距離で浴びせられる酒臭い息と、唾。
父の瞳孔は開ききっていた。そこには息子を見る慈愛など微塵もなく、ただ排除すべき異物を見る冷徹さだけがあった。
「お前は、どこまで俺の顔に泥を塗れば気が済むんだ。会社での立場も、近所付き合いも、全部お前のせいで滅茶苦茶だ。美智子もノイローゼ気味で薬を飲んでいる。美咲も家に寄り付かなくなった。この家はお前のせいで崩壊寸前なんだよ!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝ることしかできなかった。
無実を訴える気力は、もう残っていなかった。
何を言っても無駄だ。事実はどうあれ、僕が存在すること自体が、この家族にとっての「悪」なのだから。
父は僕を突き放した。
僕は床に尻餅をついた。
「もう限界だ」
父は冷たく言い放った。
「出て行け」
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「……え?」
「聞こえなかったのか。出て行けと言ったんだ。この家から。俺たちの目の前から」
父はリビングのテーブルを指差した。そこには、茶封筒が置かれていた。
「そこに五万円入れてある。それが手切れ金だ。どこへなりとも行け。野垂れ死ぬなり、警察に捕まるなり、好きにしろ。ただし、二度と『佐々木』の名を語るな。二度とこの家の敷居を跨ぐな」
「と、父さん……本気で言ってるの? 僕はまだ高校生だし、行く当てなんて……」
「知ったことか!」
父が怒号と共に、近くにあったクッションを僕に投げつけた。
「高校生だろうが何だろうが、お前は社会のクズだ! クズを養う義務などない! お前がいるだけで、俺たちは窒息しそうなんだよ! 消えろ! 今すぐだ!」
奥のキッチンに、母の姿が見えた。
母は背を向け、シンクに向かって洗い物をしていた。
水道の水を出しっ放しにして、ジャージャーという音で、リビングの会話をかき消そうとしているようだった。
母さん。助けて。
心の中で叫んだが、母の背中は頑として動かなかった。
彼女もまた、僕がいなくなることを望んでいるのだ。
僕さえいなくなれば、平穏な日々が戻ってくるかもしれないと、そう信じて。
「……分かりました」
僕は震える足で立ち上がった。
涙は出なかった。あまりにも絶望が深すぎると、人は泣くことさえ忘れるらしい。
僕はテーブルの上の封筒を手に取った。
薄っぺらい封筒。これが僕の十七年間の対価か。
自分の部屋に戻り、通学用のリュックに荷物を詰めた。
着替えを数枚、充電器、財布。
勉強道具はいらない。もう学校に行くことはないだろうから。
部屋を見渡す。
ここには僕の歴史があった。でも、それはもう過去の遺物だ。
机の上の家族写真は伏せられたままだ。
一階に降りると、父はリビングのソファに座り込み、ウィスキーを煽っていた。
僕のことなど、もう視界に入っていないようだった。
母はまだ洗い物を続けている。同じ皿を、何度も何度も洗い続けている。
「……さようなら」
小さな声で告げたが、返事はなかった。
玄関のドアを開け、外に出る。
夜風が頬を撫でる。
背後でドアが閉まる音がした。そして、すぐに鍵がかかる音が二回、ガチャリ、ガチャリと響いた。
チェーンロックをかける音まで聞こえた。
二度と入れないという、鉄の意志。
僕は、完全に締め出された。
夜の街を歩き出す。
行くあてなんて、本当になかった。
五万円で何ができる? ネットカフェに泊まれば数週間は持つかもしれない。でも、身分証を見せれば補導されるだろう。
僕は「家出少年」であり「痴漢の容疑者」なのだ。
コンビニの明かりが眩しい。
ガラス越しに、立ち読みをしている高校生や、レジで笑い合っている店員が見える。
彼らは光の世界の住人だ。
僕はガラスの外側の、闇の世界の住人。
透明な壁が、僕と世界を隔てている。
駅前広場のベンチに座った。
サラリーマンやOLが行き交う。
酔っ払った集団が、大声で笑いながら通り過ぎる。
誰も僕を見ない。
あんなにネットで騒がれたのに、現実にここにいる僕には誰も気づかない。
僕はここにいるのに、いない。
透明人間になった気分だった。
あるいは、幽霊か。
生きているのか死んでいるのか分からない、曖昧な存在。
スマホを取り出す。
充電はまだ残っているが、誰からも連絡はない。
SNSを開く気にもなれない。そこにあるのは僕への呪詛だけだ。
ふと、優花のアイコンが目に入った。
ブロックされたままのトーク画面。
『ごめん、今は無理』
その言葉が、リフレインする。
彼女は今頃、温かいベッドで眠っているだろうか。
それとも、僕を切り捨てた罪悪感に苛まれているだろうか。
いや、きっと安堵しているはずだ。
厄介者が消えてくれて、せいせいしているに違いない。
ポツリ、と頬に冷たいものが当たった。
夜空を見上げると、厚い雲が月を隠していた。
雨だ。
降り始めた雨は、すぐに本降りになった。
アスファルトを叩く音が強くなる。
周囲の人々は慌てて傘を開いたり、駅ビルへ駆け込んだりしている。
僕だけが、ベンチに座ったまま動かなかった。
濡れるに任せた。
冷たい雨が、服に染み込み、肌に張り付く。
寒さが骨の髄まで沁みてくる。
でも、その寒さが心地よかった。
自分がまだ肉体を持っていることを、痛みが教えてくれるから。
「……寒いな」
独り言が白い息となって消える。
公園のトイレの軒下に移動しようかとも思ったが、体が重くて動かなかった。
どうせ濡れている。どうせ汚れている。
僕は社会の汚物なのだから、雨に打たれて流されてしまえばいい。
深夜二時を回った頃、雨脚はさらに強まった。
通りから人影が消えた。
世界に僕一人だけが取り残されたような静寂。
雨音だけが、ザアザアと世界を塗り潰していく。
僕はふらりと立ち上がり、あてもなく歩き出した。
靴の中がぐしょぐしょで気持ち悪い。
どこへ向かっているのか、自分でも分からない。
ただ、どこか「ここではない場所」へ行きたかった。
大きな橋に差し掛かった。
下を流れる川は、雨で増水し、黒い濁流となって轟音を立てている。
欄干に手をかけた。
冷たい鉄の手触り。
下を覗き込むと、吸い込まれそうな闇が渦巻いていた。
ここから飛び降りれば、全て終わるのだろうか。
「痴漢」の汚名も、家族からの拒絶も、孤独も、全部。
水に溶けて消えてしまえるのだろうか。
簡単だ。足をかけて、体を乗り出すだけ。
数秒の恐怖の後に、永遠の安らぎが待っている。
「……死にたい」
初めて、はっきりと言葉にした。
死への誘惑は、甘く、優しく、僕の手を引いた。
誰も悲しまない。
むしろ、喜ぶかもしれない。
「やっと死んでくれた」「これで迷惑をかけられずに済む」
父は世間体を気にして葬式を出すだろうか。それとも密葬で済ませるだろうか。
母は泣くだろうか。
優花は……。
欄干に足をかけようとした時、ポケットの中のスマホが震えた気がした。
幻覚かもしれない。
でも、その微かな振動が、僕を現実に引き戻した。
もしかしたら、誰かが心配してくれているのかもしれない。
そんな馬鹿な期待が、捨てきれなかった。
濡れた手でスマホを取り出す。
画面には、見知らぬ番号からの着信が表示されていた。
誰だ?
警察か? それとも父か?
迷った末に、通話ボタンを押した。
「……はい」
『あ、佐々木くん?』
聞き覚えのない、若い男の声だった。
『俺、隣のクラスの田中だけど、覚えてる?』
田中? 顔も思い出せない。
『あー、よかった繋がって。いやさ、単刀直入に言うんだけど』
男の声は、妙に明るく、そして残酷だった。
『お前が痴漢した駅の動画さ、もっと高画質のやつ持ってる奴いねーかなって探してて。お前、なんか持ってない? 自分の犯行現場の記念とかさ』
全身の血が凍りついた。
悪ふざけだ。
ただの興味本位の、悪意ある野次馬。
「……持ってない」
『えー、まじで? ケチだなあ。あ、じゃあさ、今どこにいんの? リアルタイムで反省会配信しようぜ。俺のチャンネルに出てくれたら、少しは同情票集まるかもよ?』
プツン。
僕は通話を切り、スマホの電源を落とした。
期待した僕が馬鹿だった。
この世界に、僕を心配する人間なんて一人もいない。
誰一人として。
スマホを握りしめたまま、僕はその場に崩れ落ちた。
橋の上、雨の中。
大声で叫びたかったが、声が出なかった。
ただ、喉の奥から獣のような嗚咽が漏れた。
悔しい。悲しい。苦しい。
なぜ僕なんだ。
なぜ僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
神様がいるなら、今すぐ僕を殺してくれ。
この心臓を止めてくれ。
こんなに痛いなら、心なんていらない。
雨は降り続く。僕の涙を洗い流すように、あるいは隠すように。
僕は欄干にしがみつき、いつまでも泣き続けた。
飛び降りる勇気さえ、僕には残っていなかった。
死ぬこともできず、生きる場所もない。
ただの透明なゴミとして、ここに存在するしかなかった。
***
その頃、佐々木家では。
リビングの明かりは消され、静寂が支配していた。
二階の寝室からは、父の大きないびきが聞こえてくる。彼は酒の力で強制的に意識をシャットダウンしたのだ。
母、美智子は、一階のリビングのソファに座っていた。
暗闇の中で、膝を抱えている。
手には、息子が使っていたマグカップが握りしめられていた。
健太が出て行ってから、四時間が経過していた。
外は激しい雨だ。
あの子は傘を持っていっただろうか。
いいえ、持っていなかった。リュック一つで、追われるように出て行った。
「……これで、よかったのよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
あの子がいなくなれば、夫の機嫌も直る。近所の噂もそのうち消える。美咲も落ち着くだろう。
家庭の平和を守るためには、犠牲が必要だった。
それがたまたま、健太だっただけ。
母親として失格かもしれない。でも、私だって人間だもの。怖いもの。
社会から村八分にされる恐怖。夫から見放される恐怖。
それらに耐えられなかった。
でも。
ふと、玄関の方を見る。
あの子が帰ってくることはない。
二度と、「ただいま」という声を聞くことはない。
雨音が窓を叩く。
その音が、まるで健太がドアを叩いている音のように聞こえて、びくりと体を震わせる。
「開けてよ、母さん。寒いよ」
そんな幻聴が聞こえる気がした。
「……っ」
美智子はマグカップを強く握りしめた。
指先が白くなるほどに。
胸の奥から、黒くて冷たい何かがせり上がってくる。
それは、見て見ぬふりをしてきた罪悪感だった。
あの子は本当にやったのだろうか。
「違う」と叫んでいたあの子の目は、嘘をついているようには見えなかった。
もし、本当に無実だったら?
私は、無実の我が子を、夫と一緒に追い出したことになる。
雨の中に。地獄の中に。
「健太……」
名前を呼んでみる。
返事はない。あるはずがない。
広すぎるリビングが、急に恐ろしく感じられた。
家族を守るために排除したはずなのに、その結果訪れた静けさは、安らぎではなく、死のような静寂だった。
美智子は震える手で自身の口を覆った。
吐き気がした。
自分の弱さが、浅ましさが、どうしようもなく気持ち悪かった。
時計の針は午前三時を回ろうとしている。
雨は止む気配がない。
美智子はソファに蹲り、耳を塞いだ。
雨音を聞きたくなかった。
それが、捨てた息子の泣き声のように聞こえてならなかったからだ。
家の外では、『痴漢の家』という張り紙が、雨に濡れて剥がれ落ち、泥水の中に沈んでいった。
しかし、その家に刻まれた見えない傷跡は、雨ごときでは決して洗い流せないほど深く、醜く、家族の心を蝕み始めていた。




