第三話 幼馴染の背中
自宅謹慎を命じられていることは分かっていた。
父からは「顔を見せるな」と言われ、学校からは「来るな」と暗に示されていた。
それでも、僕は制服に袖を通した。
家にいれば、息が詰まって死んでしまいそうだったからだ。
それに、確かめなければならないことがあった。
佐伯優花。彼女の真意だ。
昨日、メッセージアプリで送られてきた『ごめん、今は無理』という短い拒絶。あれは本心なのか。それとも、誰かに強制されて送ったものなのか。
幼い頃からずっと一緒にいた彼女なら、僕の無実を信じてくれているはずだ。その希望だけが、今の僕を突き動かす唯一の燃料だった。
「……行くのか」
玄関で靴を履いていると、リビングから母の声がした。姿は見えない。
ただ、その声には心配よりも困惑が含まれていた。
「……うん。ちょっと、学校に用があるから」
嘘ではない。僕にとっては人生をかけた用事だ。
母からの返事はなかった。
重い鉄の扉のような玄関ドアを開け、外の世界へと踏み出す。
朝の陽射しは残酷なほどに明るく、僕の全身を照らし出した。
家の前の電柱には、昨日誰かが貼った『痴漢の家』というビラがまだ残っている。剥がそうとした跡があるが、粘着テープが頑固にこびりついていた。
通りを歩く人々の視線が突き刺さる。
近所の主婦たちが井戸端会議をしていたが、僕の姿を見た途端、ピタリと会話を止め、ヒソヒソと耳打ちを始めた。
「あの子よ」「例の」「よく外歩けるわね」
幻聴ではない。はっきりとした悪意が鼓膜を叩く。
僕は視線を足元に落とし、逃げるように駅とは反対方向へ歩き出した。電車に乗る勇気はもうない。学校までは徒歩で四十分かかるが、満員電車の密室よりはマシだ。
汗だくになって学校の正門に辿り着いた時には、予鈴が鳴り終わっていた。
遅刻だ。でも、今の僕にとって遅刻なんて些細な問題だった。
正門をくぐると、体育の授業でグラウンドに出ていた生徒たちの視線が一斉に集まった。
まるで異物が混入したかのような反応。
ざわめきが波紋のように広がる。
僕は誰とも目を合わせないようにして、昇降口へと向かった。
上履きに履き替えようと下駄箱を開ける。
そこには、大量の画鋲がばら撒かれていた。
上履きの中にも、外にも。キラキラと銀色に光る無数の棘。
「……ッ」
息を呑む。
古典的ないじめだ。ドラマや漫画の中だけの話だと思っていたことが、現実として目の前にある。
僕は無言で上履きを取り出し、逆さにして画鋲を落とした。
チャリ、チャリ、と乾いた音がコンクリートの床に響く。
周囲にいた数人の生徒が、それを見てクスクスと笑った。
「うわ、メンタル強」「俺なら泣いて帰るわ」
嘲笑を背中に浴びながら、僕はまだ画鋲が残っているかもしれない上履きに足を突っ込んだ。
足の裏にチクリとした痛みを感じたが、それを気にする余裕はなかった。
教室のドアの前に立つ。
心臓が早鐘を打っている。
深呼吸をして、震える手でドアを開けた。
教室の中は授業の準備でざわついていたが、僕が入った瞬間、真空になったかのように静まり返った。
四十人の視線。そのすべてが敵意、あるいは好奇心、そして嫌悪に染まっている。
僕は自分の席へと向かった。
教室の後ろ、窓際から二列目。
そこにあるはずの僕の机は、見るも無惨な姿になっていた。
天板が見えなくなるほど、油性マジックで落書きがされていた。
『死ね』『変態』『ロリコン』『学校来るな』『犯罪者』『菌がうつる』
黒や赤の文字が、呪詛のように踊っている。
机の上には、誰かの飲みかけのジュースが置かれ、さらにご丁寧に菊の花が一輪、空き缶に挿されていた。
まるで葬式だ。
僕という人間は、この教室の中ではもう死んだことにされているのだ。
「……おい、佐々木」
教壇に立っていた担任の教師が、不機嫌そうに声をかけた。
「今日は自宅待機と言ったはずだが。何しに来た」
教師の目もまた、冷たかった。
机の惨状を見ても、眉一つ動かさない。
いじめを止めるどころか、この状況を「秩序ある処罰」として容認しているようだった。
「……話が、あります」
僕は掠れた声で言った。
「誰とだ。警察とか」
「違います……友達と」
「友達?」
クラスの誰かが吹き出した。
その笑い声は伝染し、教室中に広がる。
「友達だってよ」「誰だよ」「誰もいねーよ」
嘲笑の渦の中で、僕は視線を巡らせた。
佐伯優花。
彼女は、廊下側の席に座っていた。
いつもなら目が合うと小さく手を振ってくれる彼女が、今は教科書を立てて顔を隠すようにしている。
その肩が、微かに震えているのが見えた。
「佐々木、帰れ」
担任が冷たく告げた。
「お前がいると授業にならん。他の生徒の迷惑だ」
「……少しだけでいいんです。優花……佐伯さんと、話をさせてください」
僕が彼女の名前を出した瞬間、優花の周りにいた女子グループが過剰に反応した。
「はあ? 優花に関わらないでよ!」
「迷惑なんだけど! 痴漢のくせに!」
「優花がかわいそうでしょ!」
鋭い声が飛んでくる。
優花は教科書に顔を埋めたまま、動かない。
僕はその背中に向かって、必死に呼びかけた。
「優花! お願いだ、話を聞いてくれ! 僕はやってない、信じてくれよ!」
教室中に僕の悲痛な叫びが響いた。
しかし、優花は振り返らなかった。
代わりに、彼女の友人の一人が立ち上がり、僕に近づいてきた。
「あんたさ、マジで空気読めないの? 優花がどれだけ悩んでると思ってんの? あんたのせいで優花まで『Twotter』で特定されかけてんのよ!」
「え……?」
「『犯罪者の幼馴染』ってだけで、優花のアカウントに突撃してる馬鹿がいるんだよ! 全部あんたのせいじゃん!」
言葉が出なかった。
僕のせいで、優花まで?
だから彼女は、昨日『無理』と言ったのか。
自分の身を守るために。
「もういい……佐々木、職員室に来い。親を呼ぶ」
担任が僕の腕を掴んだ。
昨日の駅員と同じ強さで、僕を教室から引きずり出そうとする。
「待ってください! 優花、一言だけでいいんだ! こっちを見てくれ!」
僕は抵抗しながら叫び続けた。
ようやく、優花がゆっくりと顔を上げた。
その目は真っ赤に充血し、涙で濡れていた。
彼女は僕を見た。
その瞳に宿っていたのは、信頼でも、同情でもなかった。
『恐怖』だった。
僕という存在が、彼女の平穏な日常を破壊することへの、根源的な恐怖。
彼女は小さく首を横に振った。
音のない拒絶。
それが答えだった。
僕は力を失い、担任に引きずられるまま教室を出された。
背後でドアが閉まる音。
そして、その直後に聞こえた安堵のため息と、再び始まるざわめき。
「マジ怖かった」「あいつ頭おかしいんじゃね?」「優花、大丈夫?」
閉ざされたドアの向こうから聞こえる声は、僕と彼らの世界が完全に分断されたことを告げていた。
職員室での説教は、右から左へと流れていった。
担任は父に電話をかけ、迎えに来るように言ったらしい。
僕は「気分が悪い」と言ってトイレに行き、そのまま裏口から校舎を抜け出した。
もう、ここにはいられない。
家に帰ることもできない。
僕は当てもなく街を彷徨った。
日中は暑かった空気が、夕方になると少しだけ和らいだ。
茜色の空が街を染めていく。
僕は昔、優花とよく遊んだ河川敷の公園に座り込んでいた。
土手にはカップルや、犬の散歩をする人々がいる。
彼らは幸せそうだ。誰も「痴漢」のレッテルを貼られていない。
透明な世界に生きている住人たち。
僕は一人、泥沼の中に首まで浸かっている気分だった。
「……健太?」
不意に、聞き覚えのある声がした。
心臓が跳ね上がる。
恐る恐る振り返ると、そこには優花が立っていた。
制服姿のままで、手には通学鞄を持っている。
息を切らしているところを見ると、走ってきたのかもしれない。
「優花……!」
僕は立ち上がった。
彼女が来てくれた。教室では周りの目があったから無視したけれど、やっぱり気にしてくれていたんだ。
一筋の光が見えた気がした。
「来てくれたんだね。ありがとう、やっぱり優花は……」
「来ないで」
近づこうとした僕を、優花は鋭い声で制した。
彼女は数メートル離れた場所に立ち止まり、僕を拒むように両手を胸の前で握りしめていた。
その表情は硬く、強張っている。
「……え?」
「ここで健太がサボってるって、SNSで見たから……言いに来たの」
優花はスマホを強く握りしめていた。
「もう、私の名前を出さないで。学校でも、どこでも」
「どうして……? 僕たち、幼馴染だろ? ずっと一緒だったじゃないか」
「だからよ!」
優花が叫んだ。夕暮れの河川敷に、その悲鳴のような声が響く。
「幼馴染だから、みんな知ってるの! 私たちが仲良かったこと! だから私も疑われるの! 『類は友を呼ぶ』って書かれて、私の写真まで晒されて……!」
彼女はスマホの画面を僕に向けた。
そこには『Twotter』の画面が表示されていた。
彼女のアカウントに対するリプライの山。
『こいつも同類か』
『痴漢の彼女? ウケる』
『性犯罪者を擁護する女もクズ』
『この女の住所特定班求む』
罵詈雑言の嵐。僕に向けられたものと同じ悪意が、彼女にも向けられていた。
「怖いの……学校行くのも、スマホ見るのも、全部怖いの!」
優花は泣き崩れるようにしゃがみ込んだ。
「私、推薦で大学行きたいの。こんなことで人生台無しにしたくない。パパにもママにも怒られた。『あの子とは縁を切れ』って」
「……でも、僕はやってないんだ。優花なら分かるだろ? 僕がそんなことする人間じゃないって」
僕は必死に訴えた。
論理や証拠じゃない。僕という人間そのものを信じてほしかった。
優花は涙を流しながら顔を上げた。
その目には、深い葛藤の色があった。
きっと、彼女の心の奥底では、僕が無実かもしれないと思っている。昔のよしみで、助けたいとも思っている。
でも、恐怖がそれを上回っているのだ。
集団心理という化け物が、彼女の良心を食い荒らしている。
「……分かんないよ」
優花は震える声で言った。
「火のない所に煙は立たないって、みんな言ってる。健太がやってない証拠なんて、どこにもないじゃない」
「優花……」
「もし健太を庇って、私がもっと攻撃されたら? 誰が責任取ってくれるの? 健太は取れないでしょ? 自分のことすら守れないのに!」
その言葉は、真実だった。
今の僕には何の力もない。彼女を守るどころか、巻き込んで不幸にする疫病神でしかない。
「ごめんね、健太。私、自分が一番大事なの。健太よりも、自分の未来の方が大事なの」
優花は立ち上がり、涙を拭った。
その動作には、決別への意志が込められていた。
「さよなら。もう二度と話しかけないで」
彼女は背を向け、走り出した。
夕日の中へ、遠ざかっていく背中。
栗色の髪が風になびく。
かつては隣を歩いていたその背中が、今は永遠に届かない彼方へと消えていく。
「待ってよ……行かないでくれよ……!」
僕は手を伸ばしたが、声は喉の奥で詰まって出なかった。
追いかけることもできなかった。
彼女の言った通りだ。僕が近づけば、彼女まで傷つく。
僕にできる唯一の誠意は、彼女の望み通り、彼女の世界から消えることだけだった。
優花の姿が見えなくなると、周囲の景色から色彩が失われたように感じた。
空の赤も、草の緑も、川の青も。
すべてがモノクロームの、冷たい灰色の世界へと変わっていく。
最後の希望だった。
世界中が敵に回っても、彼女だけは味方でいてくれると信じていた。
その糸が、ぷつりと切れた。
僕は河川敷の草の上に大の字に寝転がった。
空はどんどん暗くなっていく。
一番星が光り始めたが、それは昨日の詩織……いや、優花がつけていたヘアピンのように綺麗には見えなかった。ただの冷たい石ころが宇宙に浮いているだけだ。
スマホが震えた。
また通知だ。
『お前、公園にいるだろ』
『今から凸るわ』
『逃げんなよ』
誰かが僕を見つけて、リアルタイムで実況しているのだ。
監視社会。逃げ場のない檻。
優花もこれを見て、ここに来たのだろうか。
そして僕を切り捨てて、安堵を得たのだろうか。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
もう、どうでもよくなってきた。
父も、母も、姉も、友人も、そして優花も。
誰も僕を見ていない。
彼らが見ているのは「痴漢をした少年」という虚像だけだ。
本物の佐々木健太は、もう誰の目にも映っていない透明人間だ。
ゆっくりと体を起こす。
家に帰りたくない。
でも、ここにもいられない。
正義の鉄槌を下そうとする「誰か」が、もうすぐここまでやってくる。
僕は影のように立ち上がり、夜の闇に紛れるようにして歩き出した。
行くあてなんてない。
ただ、どこか遠くへ。
誰も僕を知らない、誰も僕を指ささない場所へ。
そんな場所がこの世界のどこにあるというのだろう。
ポケットの中で、握りしめた小銭がジャラリと音を立てた。
それが、今の僕が持っている全財産であり、僕の命の値段のようにも思えた。
夜風が冷たい。
夏なのに、凍えるように寒かった。
僕は上着の襟を立て、背中を丸めて歩いた。
その背中は、きっと誰から見ても、みすぼらしく、救いようのない敗北者のそれだったろう。
かつて愛した幼馴染の背中を見送った僕は、今度は自分自身が、誰からも見送られることのない孤独な背中となって、闇の中へと消えていくのだった。




