第二話 沈黙の食卓
目が覚めたとき、最初に感じたのは強烈な違和感だった。
カーテンの隙間から差し込む日差しはいつもと変わらない夏の色をしているのに、部屋の中の空気は鉛のように重く、淀んでいる。
枕元の時計を見ると、午前九時を回っていた。
本来なら、今は二限目の授業中だ。数学教師の単調な声が教室に響き、僕はノートをとっているはずの時間。
だが、僕は制服に着替えることもなく、ベッドの上で膝を抱えていた。
昨日の出来事は夢ではなかった。左頬に残る鈍い痛みと、スマホの通知ランプが点滅し続けている事実が、残酷な現実を突きつけてくる。
「……っ」
喉が渇いて張り付くようだ。
部屋から出ようとして、ドアノブに手をかけた瞬間、指先が凍りついたように動かなくなった。
ドアの向こう側には、家族がいる。
昨日の父の暴力、母の怯えた目、姉の軽蔑の言葉。それらが脳裏にフラッシュバックし、足がすくむ。
僕は結局、ドアを開けることができなかった。
自分の家なのに、自分の部屋が一つの独房のように感じられる。
階下から、微かに話し声が聞こえてきた。
耳を澄ますと、母と姉の声だ。
「……もう、学校行きたくないんだけど。みんな見てるし」
美咲の苛立った声だ。
「ごめんね、美咲。でも、あなたが休むわけにはいかないでしょ。大学の単位もあるし……」
母が弱々しく宥めている。
「ママのせいじゃないけどさあ。あいつのせいで、なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの? 今朝も駅前でヒソヒソ言われたし。絶対、私のこと指さしてた」
「……お父さんが、なんとかしてくれるって言ってるから。もう少しの辛抱よ」
「なんとかって、示談金払うんでしょ? 結局やったって認めてるようなもんじゃん。最悪」
足音が遠ざかり、玄関のドアが開閉する音がした。美咲が出かけたようだ。
家の中が再び静寂に包まれる。
母は家にいるはずだが、気配を消しているかのように静かだ。
僕はベッドに戻り、震える手でスマホを手に取った。
見たくない。でも、見なければ何が起きているのか分からないという恐怖が、指を動かさせる。
画面を点灯させた瞬間、洪水のような通知が視界を埋め尽くした。
SNSアプリ「Twotter」の通知数は「99+」。メッセージアプリ「MINE」の未読件数も異常な数になっている。
恐る恐るMINEを開くと、クラスのグループチャットが動いていた。
『佐々木、今日休みだってよ』
『そりゃ来れないだろ。痴漢で捕まったんだから』
『マジで? 噂じゃなかったんだ』
『駅で連行される動画見た? あれ完全にクロでしょ』
『うわー、隣の席だったんだけど。机変えてもらおうかな』
『キモすぎ』
スクロールしてもスクロールしても、僕を擁護する言葉は一つもなかった。
昨日まで「おはよう」と言い合っていた友人たちが、今は僕を社会の敵として吊るし上げている。
誰かが貼ったリンクをタップすると、動画共有サイトに飛ばされた。
そこには、昨日の駅のホームでの様子が映っていた。
画質は悪いが、駅員に腕を掴まれ、必死に抵抗する僕の姿がはっきりと映っている。
「離してください! 僕はやってない!」と叫ぶ僕の声は、滑稽な悪あがきのように編集されていた。
コメント欄には、匿名の悪意が溢れかえっている。
『往生際が悪い』
『冤罪主張して逃げる気満々だな』
『こういう奴は社会的に抹殺すべき』
『顔晒せよ』
『佐々木健太っていうのか。住所特定したわ』
背筋が凍った。
住所特定?
まさか。
いや、制服や鞄の特徴、そして僕の名前から、学校や居住地域を絞り込むことなんて、今のネット社会では造作もないことなのだろう。
恐怖で呼吸が浅くなる。
見えない敵が、無数に僕を取り囲んでいる。
スマホを放り出し、僕は布団を頭から被った。
外部との繋がりを遮断したかった。でも、一度目にしてしまった言葉たちは、脳裏に焼き付いて離れない。
「健太……」
不意に、ドアの外から母の声がした。
ビクッと肩が跳ねる。
「……母さん?」
「……そこに置いておくから」
それだけ言って、足音が遠ざかっていった。
数分待ってから、そっとドアを開ける。
廊下の床に、お盆が置かれていた。
冷めたトーストと、ラップのかかったサラダ。そしてコップ一杯の水。
まるで囚人への差し入れだ。あるいは、野良犬への餌やりか。
母は僕と顔を合わせることすら避けたのだ。
涙が滲んで視界が歪む。
お盆を部屋に入れ、またすぐに鍵をかけた。
食欲なんてあるはずがない。
でも、何かを口にしなければ倒れてしまいそうだった。
トーストを一口かじる。砂を噛んでいるように味がしなかった。
昼過ぎ、家の固定電話が鳴り響いた。
一度切れても、またすぐにかかってくる。
執拗なコール音。
一階のリビングで、母が受話器を取る気配がした。
「……はい、佐々木です」
「……ええ、そうですが」
「……違います、そんなことは」
「やめてください! 迷惑です!」
ガチャン、と受話器を叩きつける音が聞こえた。
その後すぐに、また電話が鳴る。
今度は取らなかったようだ。
留守番電話のアナウンスが流れ、ピーという音の後に、男の低い声が録音されるのが、二階の僕の部屋まで聞こえてきた。
『おい、犯罪者を匿ってんじゃねえぞ。早く出て行けよ。この街の恥さらしが』
心臓が鷲掴みにされたように痛む。
僕のせいで、家族が攻撃されている。
父の言った通りだ。僕が「疑われるようなこと」をしたせいで、この家の平穏が壊された。
でも、僕は本当に何もしていないのに。
満員電車に乗っていただけなのに。
どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
午後三時を過ぎた頃、今度は玄関のインターホンが鳴った。
一度、二度、三度。
宅配便か? それとも警察か?
母が出る様子はない。居留守を使っているのだろう。
やがて、ドアを激しく叩く音が響いた。
「おい! いるんだろ! 出てこいよ!」
「痴漢野郎! 説明しろ!」
複数の男の声。
YouTuberか、あるいは正義感を暴走させた一般人か。
ドンドン、ドンドン。
鉄の扉が悲鳴を上げている。
僕は窓のカーテンを固く閉ざし、部屋の隅で耳を塞いだ。
怖い。殺されるかもしれない。
ここはもう、安全な場所じゃない。
三十分ほどして、ようやく外が静かになった。
恐る恐るカーテンの隙間から外を覗くと、家の前の電柱に何かが貼られているのが見えた。
遠目だが、赤い文字で殴り書きされた紙だということは分かった。
『痴漢の家』
『変態家族』
『出て行け』
そんな言葉が並んでいることは、想像に難くない。
夕方になり、日が傾き始めると、部屋の中はさらに薄暗くなった。
電気をつける気にもなれず、僕はベッドの上で体育座りをしていた。
ふと、優花のことを思い出した。
昨日の夜、僕が連行されたことを知って、彼女はどう思っただろうか。
メッセージを送ろうとして、指が止まる。
もし、彼女まで僕を疑っていたら?
もし、彼女まで僕を拒絶したら?
それが何よりも怖かった。
でも、彼女だけは信じてくれるかもしれない。幼馴染として、ずっと近くで僕を見てきた彼女なら。
縋るような思いで、MINEを開き、優花のトーク画面を表示した。
昨日の朝の『ノート見せてあげるから、早めにおいでよ』というメッセージが、遠い過去の遺物のように残っている。
『優花、昨日はごめん。連絡できなくて』
『ニュースとかで見たかもしれないけど、あれは誤解なんだ』
『僕はやってない。信じてほしい』
震える指で文字を打ち込み、送信ボタンを押した。
既読がつかない。
数分、数十分、一時間。
画面を見つめ続ける目が痛くなる。
夜の七時を回った頃、ようやく『既読』の文字がついた。
心臓が高鳴る。
なんて返ってくるだろう。「大丈夫?」「信じてるよ」
そんな言葉を期待していた。
入力中の表示が出る。書いては消し、書いては消しているのだろうか。
長い沈黙の後、たった一言だけが送られてきた。
『ごめん、今は無理』
それだけだった。
頭を殴られたような衝撃が走った。
無理? 何が? 話すことが? 信じることが?
続けてメッセージを送ろうとしたが、送信エラーが表示された。
ブロックされたのだ。
目の前が真っ暗になった。
優花。君まで。
一番信じてほしかった人が、僕を切り捨てた。
その事実は、ネット上の何千もの誹謗中傷よりも深く、鋭く、僕の心を抉った。
午後八時。
父が帰宅する音がした。
玄関のドアが開くと同時に、張り詰めた空気が家全体に広がる。
重い足音が階段を上がってくる。僕の部屋の前で止まった。
ノックはなかった。
ガチャリと鍵が開けられ(合鍵を使ったのだ)、ドアが開いた。
逆光の中に、父のシルエットが立っている。
酒の臭いがした。
「……起きているか」
低く、押し殺した声。
僕はベッドの上で身を硬くした。
「は、はい」
「学校から連絡があった。当面の間、自宅謹慎処分だそうだ」
父は部屋に入ろうとはせず、入り口に立ったまま言った。
「会社でも噂になっている。お前の名前が出たわけじゃないが、俺が警察に呼び出されたことは隠しようがない。……部長昇進の話は、白紙に戻ったよ」
「……え」
父が長年目指していたポストだ。そのために休日も返上し、ゴルフ接待に明け暮れ、家庭を犠牲にしてきた。それが、僕のせいで。
「お前のおかげでな」
父の声には、怒りを通り越した冷たい諦念が含まれていた。それが余計に恐ろしかった。
「示談金は払った。相手の親も、金を受け取って告訴は取り下げると言っている。だが、学校の処分はまた別だ。退学になるかもしれん」
「そ、そんな……僕はやってないのに……」
「まだ言うか!」
父が突然声を荒らげ、ドアを拳で殴りつけた。
ドンッ! という衝撃音が響く。
「やっていようがいまいが、結果としてこうなったんだ! 社会的信用を失ったんだ! 真実などクソ食らえだ! お前は俺の人生を滅茶苦茶にした、その事実だけが残るんだよ!」
父は肩で息をしながら、僕を睨みつけた。
「飯は下にある。食いたければ食え。食いたくなければ勝手にしろ。……顔を見せるな」
バタンとドアが閉められ、再び鍵がかけられた。
遠ざかる足音を聞きながら、僕は暗闇に取り残された。
階下からは、母の泣き声と、父の怒鳴り声が聞こえてくる。
「どうしてあんな子に育ったんだ」「お前の教育が悪いからだ」「近所の目が怖くて買い物にも行けない」
罵り合い、責任を押し付け合う声。
かつて家族だったものが、音を立てて崩れ去っていく。
その中心にいるのは僕だ。僕という存在が、この家の癌なのだ。
お腹が空いたという感覚は麻痺していたが、喉の渇きだけはどうしようもなかった。
夜中、家族が寝静まったのを見計らって、僕は部屋を出た。
廊下は真っ暗だ。
抜き足差し足で階段を降りる。自分の家なのに、泥棒のように気配を消して歩く。
リビングのドアを少し開けると、ダイニングテーブルの上にラップのかかった食事が残されていた。
冷え切ったハンバーグと、固くなったご飯。
母が作ったものだが、そこには温かみのようなものは一切感じられなかった。
義務感だけで作られた、エサ。
キッチンで水を飲み、リビングを見回した。
壁には家族写真が飾られている。
僕が中学に入学した時の写真だ。桜の木の下で、四人が並んで笑っている。
父も、この時は少しだけ笑っていた。母も幸せそうだった。美咲もピースサインをして、僕の肩に手を置いていた。
今のこの家には、この写真の面影は欠片もない。
写真の中の僕は、未来に希望を持った目をしている。
自分が「犯罪者」として扱われる未来など、想像もしていない無垢な目。
衝動的に、その写真を伏せた。
見たくなかった。
「……あ、健太」
背後から声がして、心臓が飛び跳ねた。
振り向くと、パジャマ姿の美咲が立っていた。手には空のコップを持っている。水を飲みに来たのだろう。
彼女は僕を見ると、露骨に顔をしかめ、後ずさりした。
「……うわ、びっくりした。泥棒かと思った」
「……ごめん」
「ていうか、リビング来ないでよ。汚れる」
美咲は冷たく言い放ち、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。
そして、僕の横を通り過ぎる時、わざとらしく鼻をつまんだ。
「なんか臭いんだけど。お風呂入ってないの? あ、そっか。犯罪者は風呂入る資格もないもんね」
「姉ちゃん……言い過ぎだよ……」
「はあ? 被害者は私なんだけど。あんたのせいで、大学でどれだけ肩身狭い思いしてるか分かってんの? ゼミのグループLINEでも話題になってるし、彼氏にも『弟、大丈夫?』とか気を使われて最悪なんだけど」
美咲は僕を睨みつけた。その目には、軽蔑以外の感情は見当たらない。
「あんたさえいなければ、うちは普通の幸せな家庭だったのに。なんで生まれてきたの?」
その言葉は、鋭利な刃物となって心臓を貫いた。
なんで生まれてきたの。
姉の本心からの言葉だろう。
今まで積み重なっていた不満や鬱屈が、この事件をきっかけに爆発したのだ。
僕は何も言い返せなかった。
唇を噛み締め、俯くことしかできなかった。
「……さっさと部屋戻りなよ。目障りだから」
美咲はそう言うと、足音高く二階へと上がっていった。
残された僕は、冷たいリビングで一人、立ち尽くした。
「ごめん……」
誰にともなく呟いた言葉は、虚空に消えた。
テーブルの上の冷えたハンバーグを見る。
食欲は完全に失せていた。
僕は逃げるように二階へ駆け上がり、部屋に逃げ込んだ。
ベッドに入っても、眠気は来なかった。
目を閉じると、満員電車の光景が、父の平手打ちが、姉の言葉が、優花の『無理』という文字が、ぐるぐると回り続ける。
外では風が出てきたのか、木々がざわめく音が聞こえる。
それはまるで、世界中が僕を非難するざわめきのようだった。
グループLINEの通知音が鳴った。
恐る恐る見ると、僕が参加していた「MINE」のクラスグループから、『佐々木健太が退会させられました』というシステムメッセージが表示されていた。
管理者が僕を強制退会させたのだ。
これで、クラスとの繋がりも断たれた。
僕は完全に孤立した。
宇宙空間に放り出されたような、絶対的な孤独。
酸素が薄くなっていくような息苦しさを感じながら、僕はスマホの電源を切った。
画面が暗転し、僕の顔が映り込む。
酷い顔をしていた。目の下には隈ができ、目は虚ろで、生気がない。
これが「痴漢」の顔なのか。
違う。僕は無実だ。
でも、誰も聞いてくれない。
誰も。
「助けて……」
布団の中で小さく呟いた。
その声はあまりにも弱々しく、自分自身の耳にさえ届くか怪しかった。
涙はもう枯れていた。代わりに、黒くて重い澱のような絶望が、心の中に沈殿していくのを感じていた。
明日が来るのが怖い。
いや、明日はもう来ないのかもしれない。
僕の時間は、あの電車の中で止まってしまったのだから。
このまま目が覚めなければいいのに。
そう願いながら、僕は意識を手放すように目を閉じた。
長く、暗い夜は、まだ始まったばかりだった。
沈黙の食卓は、僕の魂を静かに、確実に蝕んでいた。
もう、あの場所に戻ることは二度とできないだろうという予感だけが、妙に鮮明だった。
夜明け前、ふと目が覚めた。
喉の渇きを覚え、サイドテーブルのペットボトルに手を伸ばす。
ぬるくなった水を飲み干し、窓の外を見た。
空が白み始めている。
カラスの鳴き声が聞こえた。
「アホ、アホ」と鳴いているように聞こえるのは、被害妄想だろうか。
また一日が始まる。
地獄のような一日が。
不意に、部屋のドアの下から紙切れが差し込まれた。
白い封筒だ。
僕はベッドから降り、這うようにしてその封筒を拾い上げた。
宛名は書かれていない。
中を開けると、一枚の便箋が入っていた。
父の字だ。
几帳面で、角ばった、威圧的な筆跡。
『これ以上、家族に迷惑をかけるな。お前には失望した。ほとぼりが冷めるまで、親戚の家に預けることも考えている。覚悟しておけ』
手が震えて、便箋を落とした。
捨てられる。
家族から、家から、排除される。
「親戚の家」というのは体裁のいい言葉で、事実上の追放だ。
もう、ここには居場所がない。
父にとって、僕はキャリアの汚点でしかない。母にとって、僕は恐怖の対象でしかない。姉にとって、僕は邪魔者でしかない。
そして優花にとっても……。
僕は床に座り込み、膝を抱えた。
朝日が差し込み、部屋を照らし始める。
明るくなればなるほど、僕の影は濃くなる。
透明人間になりたいと思った。
誰にも見られず、誰にも認識されず、ただ消えてしまいたい。
この世界から、佐々木健太というノイズを消し去りたい。
その願いは切実で、そしてあまりにも悲痛な、十七歳の少年の結論だった。
沈黙の食卓から始まった拒絶は、ついに僕の存在そのものを否定するところまで来てしまったのだ。
「……もう、いいや」
僕は小さく呟いた。
その言葉は、諦めと、奇妙な解放感を含んでいた。
もう戦わなくていい。弁解しなくていい。信じてもらおうと足掻かなくていい。
ただ、受け入れればいいのだ。
自分が「不要な存在」であることを。
窓の外では、今日もまた、けたたましいほどの蝉時雨が始まろうとしていた。
僕の心を置き去りにして、世界は何事もなかったかのように回っていく。
その残酷なまでの無関心さが、今の僕には唯一の救いのように思えた。
僕はゆっくりと立ち上がり、机の引き出しを開けた。
そこには、かつて優花と撮ったプリクラが貼られた手帳があった。
僕はそれを手に取り、しばらく見つめた後、ゴミ箱へと放り込んだ。
過去との決別。
それは、自分自身を殺すための、最初の儀式だった。
僕の日常は、完全に崩落し、瓦礫の山となった。
そこにはもう、希望の花が咲く余地など、どこにも残されていなかった。




