第一話 日常の崩落
蝉時雨が、鼓膜を突き破らんばかりに降り注いでいる。
七月の朝。湿度を含んだ生温かい風が、アスファルトから立ち上る陽炎を揺らしていた。
「健太、早くしなさい。父さんが出かける時間よ」
母、美智子の少し甲高い声が、一階のキッチンから階段を駆け上がってくる。
僕は鏡の前でネクタイの結び目を整え、大きく深呼吸をした。何の変哲もない、高校二年生の夏の朝だ。昨日と同じ今日が始まり、今日と同じ明日が来る。そう信じて疑わなかった日常の、ほんの些細な一コマ。
「今行くよ」
短く答えて、僕は通学鞄を手に部屋を出た。
階段を降りると、ダイニングにはすでに重苦しい空気が澱んでいる。その中心にいるのは、父、佐々木健一郎だ。
父は完璧にプレスされたダークネイビーのスーツに身を包み、タブレット端末で日経平均株価をチェックしながらコーヒーを啜っている。中堅商社「グローバル・フロンティア」の部長職にある父にとって、朝の時間は戦場への助走のようなものだ。家族との団欒など、彼のスケジュールには組み込まれていない。
「おはようございます」
僕が席に着くと、父は視線をタブレットから外さずに、微かに顎をしゃくっただけだった。これが我が家の挨拶だ。
向かいの席では、姉の美咲がスマホをいじりながらトーストをかじっている。大学生になってから、彼女のメイクは濃くなり、それと比例するように僕への当たりは強くなった。
「ねえ、健太。あんたまた私の部屋の前で足音立てなかった? 勉強の邪魔なんだけど」
「え……昨日は夜中トイレに起きただけだよ」
「それがうるさいって言ってんの。神経質なんだから、私」
美咲は露骨に不機嫌な顔をして、またスマホに視線を戻した。
母はといえば、父のコーヒーカップが空になるタイミングを見計らうことだけに全神経を注いでいるようだった。僕が席に着いても、母の視線は僕ではなく、父の顔色に向いている。
この家には、明確なヒエラルキーが存在する。頂点に父がいて、その下に姉。僕は一番下で、母はその秩序を守るための調整役だ。
「健太」
不意に父が口を開いた。低い、よく通る声だ。
「今度の模試、結果はどうだった」
「あ、えっと……数学は少し上がったけど、英語がまだ……」
「『まだ』じゃない。お前のその煮え切らない態度は、すべてにおいてだ。佐々木の家の人間として、恥ずかしくない結果を出せと言っているだろう」
父はようやく僕を見た。その目は、息子を見る目ではない。不良品を検品する検査官の目だ。
「すみません……頑張ります」
「口だけなら誰でも言える。結果だ。結果ですべてが決まる。社会に出れば、過程など誰も評価しない」
父は言い捨てると、最後の一口を飲み干し、立ち上がった。
その瞬間、母が弾かれたように玄関へ先回りし、革靴を揃える。
行ってらっしゃい、あなた。今日もお気をつけて。完璧な妻の演技。
玄関のドアが閉まる重厚な音が響き、ようやく家の中に酸素が戻ってきた気がした。
「はあ……朝からパパのお説教とか、マジ勘弁」
美咲が大きなため息をつき、僕を睨んだ。
「あんたがグズなせいで、こっちまで空気悪くなるんだよね。ちゃんとしてよ」
「ごめん」
謝る必要のないことまで謝る癖がついてしまっている。
僕は逃げるようにトーストを口に押し込み、水で流し込んで家を出た。
外は眩暈がするほどの暑さだった。
駅までの道のりを歩きながら、僕はスマホを取り出した。メッセージアプリを開く。
『おはよ。今日の古文、予習した?』
幼馴染の佐伯優花からのメッセージだ。彼女のアイコンは、先日二人で行った水族館のクラゲの写真になっている。
画面の向こうに彼女の笑顔を思い浮かべると、さっきまでの家庭の憂鬱が少しだけ薄れる気がした。
『おはよう。一応やったけど、自信ないかも』
『もー、健太は心配性だなあ。ノート見せてあげるから、早めにおいでよ』
優花は、僕にとって唯一の色鮮やかな世界への入り口だった。
内向的で目立たない僕に、ずっと変わらず接してくれる存在。彼女がいるから、僕はまだこの世界に踏みとどまっていられる。
駅の改札を抜け、ホームへの階段を上がる。
通勤ラッシュのピークを迎えたホームは、黒やグレーのスーツを着た大人たちで埋め尽くされていた。無機質なアナウンスが電車の到着を告げ、黄色い線の内側へと人々が押し寄せる。
滑り込んできた車両は、すでに満員だった。
ドアが開くと同時に、吐き出される熱気と、乗り込もうとする人々の圧力。
僕はその流れに逆らえず、車両の奥へと押し込まれた。
背中には汗ばんだサラリーマンの背広、目の前には誰かの鞄。四方八方から人体が密着し、逃げ場のない圧迫感が襲ってくる。
つり革に掴まることさえできない。足の踏み場を確保するのがやっとだ。
電車の揺れに合わせて、人の塊が波のように動く。
湿気と、整髪料と、汗の混じった不快な臭いが鼻をつく。
次の駅でも、さらに人が乗ってきた。
もう限界だ。肋骨がきしむほどの圧力がかかる。
僕は誰かの背中に押し付けられる形になり、両手を胸の前で小さく折り畳んで、身を縮こまらせた。ただ、この苦痛の時間が過ぎるのを待つ。いつも通りの、不快だが耐え忍ぶべき通学時間。
その時だった。
「……きゃっ!」
短い悲鳴が、すぐ近くで上がった。
電車の走行音にかき消されそうなほどの、小さな叫び。
だが、その声は確かに、僕の目の前の空間で弾けた。
「やめてください!」
今度は、はっきりとした拒絶の言葉だった。
満員電車のざわめきが一瞬、凪いだように静まり返る。
僕の目の前にいた制服姿の女子高生が、涙目でこちらを振り返っていた。
彼女の手が、震えながら僕の右腕を掴んだ。
「この人……痴漢です!」
世界が、凍りついた。
彼女の指先が指し示したのは、紛れもなく僕だった。
周囲の乗客たちの視線が、一斉に僕に突き刺さる。
軽蔑、嫌悪、敵意。それらが物理的な質量を持って、僕に降り注いだ。
「え……?」
声が出なかった。喉が引きつり、空回りする。
何を言われているのか理解できない。痴漢? 僕が?
両手は胸の前にある。鞄を抱えている。誰にも触れていない。
「ち、違います。僕は何も……」
「触った! お尻、触ってたじゃないですか!」
彼女は叫んだ。その瞳には確信と恐怖が宿っている。
嘘をついているようには見えない。彼女自身は、本当に触られたと感じているのだろう。
だが、それは僕じゃない。絶対に違う。
「違う、俺じゃない! 誰かと間違えて……」
「往生際が悪いぞ!」
横にいた中年の男性が、僕の肩を乱暴に掴んだ。
その手は正義感に満ち溢れ、容赦がない。
「逃げる気か! 卑怯者め!」
「違います、本当に違うんです! 僕は鞄を持ってて……」
「うるさい! 駅員室に行けば分かることだ!」
「次の駅で降ろせ!」
「警察だ、警察を呼べ!」
周囲の声が、怒涛のように押し寄せてくる。
さっきまで無関心な他人同士だった乗客たちが、「悪を裁く」という一点において強固に団結し、僕を敵とみなしていた。
弁解の言葉は、誰の耳にも届かない。
「違う」という言葉は、「嘘」として処理される。
電車が駅に滑り込み、ドアが開いた。
僕は男性客と駅員によって、引きずり出されるようにホームへ降ろされた。
ホームにいた人々の視線が集まる。「何だ?」「痴漢か?」「最低だな」というひそひそ話が聞こえる。
無数の視線が、僕の制服を、顔を、存在を、汚物を見るように舐め回す。
「離してください! 僕はやってない!」
必死に抵抗したが、大人たちの力には勝てない。
両腕をねじ上げられ、僕は駅事務室の薄暗い廊下へと連行された。
頭の中が真っ白だった。
これは夢だ。悪い夢だ。目が覚めれば、僕はベッドの中にいて、また憂鬱な朝食の席に着くんだ。
しかし、腕に食い込む指の痛みは、残酷なほどに現実だった。
駅事務室の奥にある、狭い取調室のような小部屋。
パイプ椅子に座らされた僕の目の前には、駅員と、遅れてやってきた警察官が立っていた。
女子高生は別の部屋で事情聴取を受けているらしい。
「で、触ったのか、触ってないのか。どっちなんだ」
年配の警察官が、事務的に尋ねてきた。彼にとって、これは日常茶飯事の出来事なのだろう。僕の人生がかかっているというのに、彼の態度は書類整理をする事務員のそれだった。
「やってません! 僕は両手で鞄を持っていました。周りが混んでて、身動きも取れなかったんです」
「被害者は君の手が触れたと言っている。目撃者も、君が彼女の背後に密着していたと言っているぞ」
「満員電車だったから、密着してたのは僕だけじゃないです! 他の誰かの手が……」
「そうやって言い訳をするのが一番良くないんだよ、君」
警察官はため息をつき、面倒くさそうに頭を掻いた。
「いいか、高校生。素直に認めれば、初犯だし、反省してるってことで示談で済む場合もある。でもな、否認し続ければ裁判になるかもしれない。そうなったら学校にも連絡が行くし、退学になるかもしれんぞ。親御さんにも迷惑がかかる。分かるか?」
「認めるも何も、やってないんです! やってないことを認めるなんてできません!」
僕は叫んだ。涙が滲んで視界が歪む。
どうして信じてくれないんだ。
日本は法治国家じゃないのか。疑わしきは罰せずじゃないのか。
ここでは、「女学生が被害を訴えた」という事実だけが真実とされ、僕の言葉は空気よりも軽かった。
「頑固だな……。とりあえず、親御さんに連絡するから。電話番号は?」
父の顔が脳裏をよぎった。
恐怖で心臓が早鐘を打つ。
父に知られたら。あの父が、この状況を知ったら。
けれど、他に選択肢はなかった。僕は震える声で、父の携帯番号を告げた。
それからの時間は、永遠のように長く感じられた。
狭い部屋の壁に掛けられた時計の秒針が、カチ、カチ、と無慈悲に時を刻む。
一秒ごとに、僕の日常が削り取られていく。
学校はどうなる? 今日のテストは? 優花との約束は?
すべてが遠い彼方の出来事のように思えた。
一時間ほど経っただろうか。
不意に、ドアが乱暴に開かれた。
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
入ってきたのは、父だった。
仕事中だったのだろう、ジャケットは着ていなかったが、ワイシャツの袖を捲り上げ、形相は鬼のように険しかった。
その後ろには、申し訳なさそうな顔をした駅員が続いている。
「父さん……!」
僕は椅子から立ち上がりかけた。
助けに来てくれた。どんなに厳しくても、家族だ。僕が無実だと分かれば、きっと守ってくれる。
そう思った瞬間だった。
父は大股で僕に歩み寄り、何一つ言葉を発することなく、右腕を振り上げた。
バチンッ!!
破裂音が狭い部屋に響き渡る。
強烈な衝撃が左頬に走り、僕はパイプ椅子ごと床に転げ落ちた。
口の中に鉄の味が広がる。耳がキーンと鳴り、目の前がチカチカと明滅した。
「……ッ」
何が起きたのか理解するのに数秒かかった。
床に這いつくばったまま見上げると、父が僕を見下ろしていた。
その目は、朝の食卓で見た「検査官」の目ですらなかった。
そこにあったのは、憎悪だ。
自分の所有物が、泥を塗られたことに対する、激しい怒りと軽蔑。
「お前は……ッ! 一体何をやっているんだ!」
父の怒声が頭上から降り注ぐ。
「父さん、違うんだ! 僕はやってない、冤罪だ!」
僕は必死に訴えた。頬の痛みを堪え、父の足元に縋りつくようにして叫んだ。
「信じてくれ! 満員電車で、誰かと間違えられただけなんだ!」
「黙れ!」
父は僕の言葉を遮り、さらに怒鳴りつけた。
「警察から会社に電話がかかってきた時の、俺の気持ちが分かるか! 『息子さんが痴漢で捕まった』だと? ふざけるな! 俺が今までどれだけ苦労して今の地位を築いたと思っている! お前のせいで、お前のその愚かな行為のせいで、俺の顔に泥が塗られたんだぞ!」
「だ、だから、僕はやってないって……」
「火のない所に煙は立たん! 疑われるような真似をしたお前が悪いんだ!」
父は警察官の方へ向き直ると、先ほどの激昂した態度を一変させ、深々と頭を下げた。
その変わり身の早さが、僕をさらに絶望させた。
「警察の方々、そして被害者の方には、多大なるご迷惑をおかけしました。愚息のしつけが行き届かず、恥ずかしい限りです」
「いやあ、お父さん。息子さんは否認してるんですがね」
「言い訳など聞く必要はありません。私が責任を持って厳しく指導します。示談で……相手の方には誠心誠意、謝罪とお支払いをさせていただきますので、どうか穏便に……」
父は、僕の話を聞こうともしなかった。
「無実かどうか」なんて、彼にとってはどうでもいいことなのだ。
大切なのは、この場をいかに早く収め、世間に知られずに処理するか。
自分のキャリアに傷がつかないように、金を払ってでも事実をねじ曲げ、蓋をすること。
そのためなら、息子の尊厳など容易く切り捨てられる。
「父さん、やめてよ……認めたら、僕がやったことになるじゃないか……」
床の上で、僕は力なく呟いた。
涙が溢れて止まらなかった。頬の痛みよりも、心が引き裂かれる痛みが強かった。
唯一の味方であるはずの家族が、僕を「犯罪者」として定義した瞬間だった。
「立て、健太」
父は冷たく言い放った。
「家に帰るぞ。これ以上、ここで恥を晒すな」
警察での手続きの間、僕はもう何も言わなかった。
何を言っても無駄だと悟ってしまったからだ。
父が書類にサインをし、示談の手続きが進められていくのを、僕はただ虚ろな目で眺めていた。
それは、僕の人生が「痴漢の少年」として確定していく儀式だった。
署を出ると、太陽はすでに高く昇り、じりじりとした熱線が肌を焼いた。
駐車場の高級セダンに乗り込むまでの間、父は一度も僕を見なかった。
車内は冷房が効いていて涼しかったが、それは死体安置所のような冷たさだった。
重苦しい沈黙の中、車は滑るように走り出す。
流れる景色はいつもと変わらない街並みなのに、僕にはもう、別の世界の風景のように見えた。
「学校には、体調不良で休むと伝えてある」
ハンドルを握りながら、父が前を向いたまま言った。
「しばらくは家から出るな。近所の目がある。美智子や美咲にも迷惑がかかる」
「……母さんと姉ちゃんには、なんて言ったの?」
「ありのままを伝えたまでだ。痴漢をして捕まったとな」
心臓が冷たく収縮した。
もう、家にも居場所はない。
あの母が、あの姉が、僕をどう見るか。想像するだけで吐き気がした。
家に到着し、玄関のドアを開けると、そこには母と姉が立っていた。
母は顔を蒼白にし、ハンカチを握りしめて震えている。
美咲は腕を組み、汚いものを見るような目で僕を睨みつけていた。
「健太……あなた、なんてことを……」
母が涙声で言った。
駆け寄って抱きしめてくれるわけでも、心配してくれるわけでもない。
その目は恐怖に怯えていた。
「犯罪者の親」になることへの恐怖。近所からの噂話への恐怖。
「信じられない。最低」
美咲が冷たく吐き捨てた。
「私の弟が痴漢とか、マジでありえないんだけど。大学で噂になったらどうしてくれるの? 私の人生まで終わらせる気?」
「ち、違うよ……姉ちゃん、僕は……」
「言い訳しないでよ! パパが警察に呼び出されるなんて、よっぽどのことじゃない!」
美咲の声が金切り声となって突き刺さる。
父は無言のまま、僕の背中を強く押した。
「部屋に行け。二度と出てくるな」
僕はよろめきながら階段を上がった。
背中には、家族三人の冷ややかな視線が突き刺さっている。
自分の部屋に入り、ドアを閉め、鍵をかけた。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れ、僕はその場に崩れ落ちた。
暗い部屋の中で、膝を抱える。
昨日まで、ここには僕の安らぎがあった。
机の上には読みかけの小説があり、壁には好きなバンドのポスターが貼ってある。
でも、今の僕にはそれらがすべて、借り物の景色のように思えた。
スマホが震えた。
ポケットから取り出すと、画面には大量の通知が並んでいる。
クラスのグループLINE、SNSのメンション。
『おい、佐々木が痴漢で捕まったってマジ?』
『電車で連行されるの見たやついるらしいぞ』
『うわ、佐々木ってそういう奴だったんだ』
『見損なったわ』
『死ねよ変態』
情報は、光の速さで拡散していた。
誰かが、連行される僕の写真を撮っていたのかもしれない。
「違う、俺じゃない」
声に出しても、誰にも届かない。
指先が震え、スマホを取り落とした。
液晶画面の向こう側で、世界中が僕を笑い、罵り、石を投げている。
僕は布団に潜り込み、耳を塞いだ。
蝉の声が、まだ聞こえる。
ジージーと、僕を嘲笑うかのように鳴き続けている。
今朝、家を出た時の僕は、もうどこにもいない。
たった半日で、僕の十七年間の人生は否定され、塗りつぶされ、ゴミ箱に捨てられた。
家族も、友人も、社会も。
誰も僕の声を聞こうとはしなかった。
暗闇の中で、僕はただ一人、声を殺して泣いた。
涙が枯れる頃には、僕の中の何かが完全に壊れてしまっていることを、ぼんやりと予感していた。




