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秘密

作者: eiko

 中学一年のじっとりと暑い教室で、現代国語の教師が、突然「朝目が覚めて、晴れだと嬉しい人は?」と問うた。数人がパラパラと手を挙げた。教室の後方へゆっくりと歩きながら、「では、曇りだと嬉しい人は?」と続けた。先程と同じくらいの手が挙がった。私は断然曇りが好きだった。教師は腕組みを解きながら教卓へ戻ると「曇りだと嬉しい人は、気持ちが若い人だそうですよ」心理学でそういう説があるのだと種明かしをしたところで終業のチャイムが鳴ったが、中学生に「気持ちが若い」もあるものかと半ば呆れながら、ただうっすらと記憶には残っていて、時々思い出すことがある。

 その後私の答えはずっと変わらなかった。ところが四十代半ばを過ぎた頃、休日の朝、すきま風にわずかに膨らんだ遮光カーテンを除けた時、注がれた甘蜜のような柔らかい陽射しに、心がほどけていく不覚をとった。どうやら私も人並みに齢を重ねているようだ。


 遥か古にお釈迦様は人間が決して逃れることのできない人生の苦悩を説いた。それは「生」「老」「病」「死」の四苦である。「生」とは生きること自体から生まれる苦しみであり、「老」は老いる苦しみ、「病」は病気の苦しみ、そして厳しい死の苦しみである。ふと思う。「生」「病」「死」には順番がない。不意打ちがある。しかし「老」はどうだろう。それは誰にでも公平にやって来る。ちらほらと覗く生え際の白髪に気付くのをきっかけに、鏡に映る頬の皮膚が下がった不機嫌顔にゾッとし、肉が削げ落ちた鎖骨辺りに触れては、やつれたなぁとため息をつく。「老」はむごく、切なく、残酷である。


「また辛気臭い顔して。由美ちゃんの物思いが始まった」

 幼馴染の吉川典子が氷水の入ったコップをトンとテ―ブルの上に置いた。四十歳を過ぎて「由美ちゃん」と呼ばれるのはさすがに気恥ずかしいから、やめてほしいと以前懇願したのだが、じゃあ「清水さん」「由美子さん」と呼ぶの? 気色悪いわぁと即座に却下された。この店の中庭に向いた木枠の窓から、スルリと吹き入った風を頬に感じると、コップの氷が惜しむように溶けて、水の中に沈んでいった。


 京王線の調布駅北口から二十分ほどバスに揺られ、「深大寺入口」で下車すると、古刹「深大寺」が姿を現す。吉川夫妻は深大寺の参道から分かれた枝道の入り口辺りで、「花車」という甘味処を営んでいる。周辺には複数の湧水があり、多くの蕎麦屋が味を競っているが、実は甘味の名店も多いのである。子宝には恵まれなかった夫婦だが、独り身の私からすれば、仲睦まじい様子は羨ましい限りである。

 この夫婦のなれそめは私のよく知るところでもあり、それは吉川智彦の一目惚れから始まる典子への一途な恋慕だった。典子は目鼻立ちが際立った美人で、太くて濃い直線的な眉の下に、その存在感に負けない黒水晶のような瞳を持っている。屈託のない性格で勉強もよくできた。

 吉川智彦は私達より二学年先輩で、どこか世間知らずのおっとりとした雰囲気で、育ちの良さからくる清潔感があった。ゆくゆくは曽祖父の代から続くこの「花車」を継ぐのである。その人生をなんの疑いもなく、まっすぐに受け入れているように見えた。智彦は高校を卒業すると製菓学校に進み、卒業後は父親が懇意にしている銀座の老舗和菓子店で修行に励んだ。その頃典子は銀座の百貨店で働いており、二人は頻繁に会うようになったらしい。つまり智彦が意を決して告白したというわけだ。このいきさつを私は典子から聞かされていた。智彦が典子に好意を寄せていたのは気付いていたけれど、典子がその思いに応えたのは意外だった。彼女から聞かされてきた過去の恋愛話に出てくる男性とは、智彦は対極にいる存在のように思えたからだ。だが二人の交際は思いのほか順調に進み、そのまま結婚に至ったのである。早いもので、それから二十年以上の月日が経とうとしている。


 今私の目の前にいる典子には、女としての余裕が感じられた。細い指先を彩るコーラルピンクのネイルが、気怠そうに頬杖をついた口元で、この上ないほど美しい。

「幸せな奥様は退屈そうね。羨ましいこと」

「幸せそうに見える?」

 これは漫才でいうところのボケなのか、ツッコミなのか。この返答に私の力量が試されている。

「だって智彦さん、優しいでしょ?」

 凡庸な台詞を返すと

「優柔不断なだけよ。回りに流されて生きている感じ」

 典子は私には視線を向けず、そう呟いた。結婚というものを経験していない私には、その愚痴めいた答えを鵜呑みにしてよいものか、脳みそをフル回転させて思案しても答えは出るはずもなかった。


 和菓子独特の甘い匂いをくゆらせながら「抹茶とみたらし団子のセット」を運んできたのは、端正な顔立ちの青年だった。

 典子は私の顔を覗き込むと

「こちらはアルバイトの井上貴也くん。よろしくお願いします」

 なんとも慈愛に満ちた表情で、その青年を紹介した。青年はペコリとお辞儀をすると、ちょうど入って来た客に「いらっしゃいませ」と声をかけながら下がっていった。

「あの子ね、俳優なのよ」

「えっ?」

「ご両親に反対されて、アルバイトを掛け持ちしながら頑張っているの。うちの『離れ』に下宿しているから、ここでは隙間時間に少しだけ」

「まだ高校生でしょ。親御さんが反対されているのに問題ないの?」

「貴也くんは二十一歳。俳優一本で頑張っているのよ」

 高校生くらいにしか見えなかったと、藍色の暖簾の前で行儀よく立っている「井上貴也君」を見直した。

「まぁ『推し活』みたいなものよ」

「オシカツ?」

「あら、知らないの?」

 典子が言う「推し活」の「推し」とは、愛でて応援する対象のことらしい。一途にその活躍を支えるが、なにより願うのは「推し」の幸福なのだという。そしてそのひたむきな思いがいつしか自らの人生を潤し、自身こそが幸福になっていることに気付く。なるほど、深い。典子の黒水晶のような瞳はクルクルと良く動き、いつにも増して早口になっている。こんな表情豊かな典子を見るのは中学以来かもしれないと、やや上目遣いで見つめながら、お薄の抹茶を飲み干した。

「ご馳走様でした。美味しかったわ」

 私はバッグを肩にかけながら、ゆっくりと立ち上がった。

「毎度どうも。明日もお待ちしております」

 典子は会計をしながら、大仰に深々と頭をさげた。今日も豊かな黒髪を結い上げ、久米絣を粋に着こなしている。縦糸を括って織り出した流水文様が清々しい。

「最近、朝起きて天気が良いとほっとするの。年を取った証拠よね」

 帰り際にそう投げかけてみたが、典子からは「誰だってそうでしょ」と、そっけない返事が返ってきた。どうやら彼女はあの現代国語の授業のことなどすっかり忘れているようだ。


 店を出ると、陽射しはまだ西に傾ききっておらず、石畳を守るように植えられた緑はその色のまま鮮やかに薫っていた。人波が途切れ始める細道は、緩やかな上り坂が続く砂利道で、小学校から高校まで通い慣れた通学路でもあった。高校を卒業すると、私は地元を離れ地方の国立大学へ進学した。その後中学校の現代国語の教師になり、いくつかの学校で教鞭をとったが、結局この街に戻って来たのは、両親が残してくれた家を手放したくなかったからである。

 父は生真面目な銀行員で、私が生まれると、一念発起して一軒家を買ったのだと、母が目を細めて話してくれたことがあった。当時は珍しくなかった平屋建てで、台所とリビング、六畳の和室が二間ある。さすがに浴室はユニットバスに、トイレも洋式に改修したが、その他は親子三人で暮らしていた当時のままで、特に不便は感じていない。きれい好きだった母を見習い掃除は怠らず、必要最小限の家具だけを揃えている。父が通勤に着ていたスーツは、もうその主はいなくとも、定期的にクリーニングに出し洋服ダンスに並べている。母の着物も数枚桐箪笥に眠っているが、ある時、黄ばんだ「たとう紙」にくるまれた、仕付け糸がついたままの黒紋付を見つけた時、私の心はすすり泣くように痛んだ。ひとり娘の花嫁姿を両親がどれほど夢見ていたであろうかと思いめぐらすたびに、私の残りの人生は、贖罪の意味をもつものとなりつつある。定年まで勤め上げたあと、私はこの家を守って生きていくと決めていた。独り暮らしに慣れきっている私には、変化を求める気持ちなど微塵もないから、これからもこの街の秩序ある静寂のなかで、「時」はただ流れ去るものでしかないだろう。


 陽が落ち始めると、西の空はあっという間に橙色に染まり、浮遊する雲は飴細工のように自在に形を変え始める。やがて視線の先に赤い自動販売機が見えてくる。その角を曲がった時、私は(あっ)と心の中で声を上げた。レースのカーテン越しに家の灯りが透けて見えている。自然と小走りになり、乱暴に玄関の扉を開けた。

「ねぇ、カーテンを閉めてよ。家の中が丸見えじゃない」

「おかえり」

 その一言で、この人はすべてを済まそうとする。潰れたビールの空き缶が乱雑に畳の上に転がっている。いったいいつから来ていたのだろう。

「お店に戻らなくていいの?」

「典子がいれば、俺のすることはないさ」

 そんな自虐的な言葉を、この人は愛する妻の前では決して吐かないはずだ。弱音や自嘲は私にだけぶつけているのだという身勝手な妄想がくすぶって、私の全身を焼いている。


 吉川智彦は私の初恋の相手だった。中学生の頃、制服を着た二学年上の智彦は、とても大人びて見えた。智彦の視線はいつも典子だけに注がれていたから、私は彼に気付かれることなく、彼のすべてを見つめ続けることができた。思慮深げな奥二重の瞳と、まっすぐな鼻筋から続くやや薄い唇。なにより耳の形が美しく、耳たぶと頬のつながるところに小さなホクロがあるのだった。

 智彦の父親である先代は、将来は店を改装し、甘味だけではなく、あまり格式張らない懐石料理の店をさせたいと考えていたようだが、智彦にはそういった上昇志向は皆無で、「花車」は昔ながらの木造造りのまま、入り口の暖簾の海老茶色も褪せていくばかりであった。

「さて、そろそろ帰るかな」

 智彦は少しよろけながら立ち上がった。もともと酒はあまり強くない人なのだ。

「そのほうがいいわ。気を付けてね」

「ああ」

 背中を向けながら右手をだるそうに上げると、いつものように玄関から出て行った。裏口から出てほしいと何度頼んでも言うことをきいてくれない。この辺りは顔見知りが多いから、家の前で誰かと鉢合わせやしないかと気が気ではないのに。

 私はいつも智彦を見送ることはせず、わざと台所に立ち、雪駄が砂利を踏んでいく不均衡な音を聞きながら、ほろ酔い加減で去っていくその人を思っていた。


  二年前の蒸し暑い夏の夜。私が帰宅すると、あの赤い自動販売機のあたりで、智彦がうずくまっていた。どうしたのかと訊くと、気分が悪いという。私は少し横になったらと、家に招き入れた。

「すまない」

「かまわないわよ。貧血かしらね」

 私はよく冷えた天然水のペットボトルを渡した。 冷房をつけると、狭い六畳間はすぐにひんやりとしてくる。無造作に倒れこんだままの智彦に肌掛けをかけてやると、すやすやと寝息をたてているではないか。よくもまぁ女房の女友達の独り暮らしの部屋で、こんなにも無防備に眠れるものだ。耳たぶの下のホクロが、静脈の拍動に合わせて規則正しく動くのを見ていると、妙な気持が湧いてくる。ふと見ると、時計の針は午後八時を指していた。

「智彦さん、起きて」

 やや強めに背中を叩くと、智彦の体の熱が伝わってきて、思わず手のひらを浮かせた。生きている人間の体はこんなにも暖かいものなのか。

「いかん。眠ってしまったみたいだな」

 智彦はうっすらと目を開けたが、そのくぐもった声はどこか遠い彼方から聞こえてくるようだった。

「気分はどうなの?」

「だいぶよくなったよ。すまなかった」

「もう八時よ。早く帰らないと、典子が心配するわ」

 すっかりぬるくなってしまったペットボトルに手を伸ばすと、突然、背中に何かが覆いかぶさってきた。私が振り返ると、それは紛れもなく智彦で、彼はそのまま体を預けてきたから、その重さに、私は畳の上に仰向けに倒れ込んだ。智彦の顔がすぐそばにあった。

「智彦さん、大丈夫?」

 言い終わらないうちに、彼の薄い唇で私の言葉は遮られた。そのまま次の日の朝まで、智彦は私の隣で眠っていた。私が出勤しようとすると、鍵を置いていけと言う。合鍵を作るからと、当たり前のように言った。私は断り切れず、ためらいながら枕元にそっと鍵を置いて家を出た。


 そんな関係を続けながら、私は時折「花車」を訪れていた。久しぶりに海老茶色の暖簾をくぐると、典子が満面の笑みで駆け寄ってきた。

「貴也君、今度ドラマに出るから見てあげて」

「えっ、凄いじゃない」

「やっとオーデションを突破できたの」

 典子はきっと私の何百倍も幸福の種を持っている。そのなかのたった一つの種を盗んだところで、いったいどれほどの罪になるというのだろう。


 中学生の頃、私の「推し」は間違いなく吉川智彦だった。やがて智彦が典子の恋人になり、夫になっても、その思慕を消すことはできなかった。だから、その抗えぬ感情に身を任せ、じっと心を閉じてきた。そして、その肉体に手が届く関係になった時、私は彼に愛されていると思ってしまった。しかしそれは浅はかな思い違いだった。智彦はこの現実の世界をいつもふわふわと漂っていて、つかみどころがなかった。私は彼といると、自分がそこら辺にある飯碗や湯飲みや雑巾のような、単なる日用品になったような虚しさに襲われた。彼と見つめ合うのは不可能なことで、その眼はいつも目の前の私を通り越して、どこか遠くを探っていた。高揚も失望も与えてはくれず、形が無くなるほどに壊してもくれない。透明なセル状の四角い牢獄の中で、私は膨れ上がる孤独の伴走者で、灼熱の砂漠を歩きながら、あんなにも欲していた水が、ふと気が付けばまったく飲みたくなくなっていた。私は初めて自分の人生に、吉川智彦という存在を必要としなくなっていた。


「おはようございます」

 ゴミ置き場で声をかけられ、振り向くと隣家の住人だった。ゴミ袋の封を閉じ直しながら、ビールの空き缶が増えているのが疎ましかった。

「ゴミ出しって本当に面倒ですよね」

 見ると、隣人の七十リットルのゴミ袋はパンパンに膨らんでいる。

「あっ、私一人暮らしなんですけど、一週間に一回しかゴミ出さないので」

「そうですか」

 半年ほど前に越してきた隣人は、背が高く真っ直ぐな長い足をしている。こんな美人が、なぜ空き家同然のみすぼらしい一軒家に越してきたのか。タワマンの最上階のほうがよほど似合っている。

 しかし、今の私にとって彼女は最も危険な存在だった。私の家と彼女が住む家は、どちらも十五坪ほどの広さで、庭もなく、建築法に違反しないギリギリの間隔で建てられている。地主の考えなのか、一区画にわざわざ小さな家を二軒建てたわけだ。回りには鬱蒼とした手付かずの雑木林が広がっていて、この二軒だけが周囲から隔絶されていた。つまり、私の家に出入りする智彦を目撃する確率が最も高い人物なのである。

 今この瞬間も、奥の六畳間でだらしなく布団を被っている智彦が、のっそりと起き上がり、玄関を開けて出てくるかもしれない。私は軽く会釈をすると、逃げるようにその場を立ち去った。隣人の視線を背中に感じたが、振り返る勇気などあろうはずもなかった。


 今私が教鞭をとっているのは日野市にある公立の中学校で、最寄り駅は「平山城址公園駅」という京王線の小さな駅である。調布駅からは下り電車に乗ることになるから、通勤ラッシュは免れている。

その日は改札を出ると、霧雨が降っていた。風が吹くと、粉雪のように舞い落ちる弱々しい雨である。わざわざ傘をさす必要もあるまいと歩き出した時、ふとある光景が蘇った。

 それは私が新人教員の時のことだ。終業までに数分余ってしまったので、生徒たちに例の質問を投げかけてみたのだ。するとたった一人だけ、晴れでも曇りでもなく「雨の朝が好き」と答えた女子生徒がいた。彼女は授業が終わると私のところへやって来て

「先生、雨の匂いって知ってる?」

 そう訊いてきた。

「雨の匂い?」

「朝目が覚めて最初に窓を開けた時や、自転車を漕いでいる時に、その匂いを感じると必ず雨が落ちてくるの」

「『雨の匂い』て、とても詩的な着想ね。素敵な散文詩が書けそう」

「私に詩が書けるかしら」

「あなたなりの表現を考えてみて。今度の授業までの宿題にしましょう」

「はい」

 長い黒髪を片方だけ耳にかける仕草をすると、少し複雑な表情で頷いた。その生徒の名前は「竹石ゆり」といった。現代国語のテストはいつも九十点以上を取るが、ほかの教科は四十点くらいがやっとで、担任教師から、やる気にさせる良い方法はないかと相談を受けたことがあった。

 その後、彼女から宿題の提出はなく、卒業式が間近に迫った或る日、「先生」と呼ぶ声に振り返ると、竹石ゆりが立っていた。

「一緒に帰ってもいいですか?」

 私は、もちろん構わないと答えた。私達は少し遠回りをして、駅まで続く遊歩道を歩いた。弱い雨が降り出していた。

 竹石ゆりはずっと黙っている。

「卒業式までには間に合いそう? 宿題の答え」 

「今答えます」

 そう言うと、突然私の真正面に立ち

「雨の朝が好き」

「雨の匂いが好き」

 そこまで言うと、大粒の涙の筋が彼女の頬を伝って落ちていった。予期せぬ出来事に、私は思わず彼女の黒髪を撫でていた。

 「先生、私のことを覚えていてくださいね。きっとまた、どこかで出会いますから」

 竹石ゆりはそう言い残し、走り去っていった。揺れ跳ねていた長い黒髪と予言めいた言葉が、この霧雨の煙る匂いのせいで、残像のように蘇ったのだ。

 

 知らぬ間に雨は上がり、下校する頃には薄日も射していた。私は冷蔵庫の残り物を頭の中で反芻しながら、今日は買い物の必要はないだろうとスーパーを通り過ぎた。一人分の食材は十分にある。赤い自動販売機の角を曲がると、視界に入った我が家の遮光カーテンは、きっちりと閉められていた。ところが玄関を入ると、智彦の体臭とアルコールの匂いが混ざりあった、萎えるような臭いが立ち込めていた。

「窓を少し開けるわよ」

「君がカーテンを閉めておけと言ったんじゃないか」

 智彦は肘をついて、だらしなく寝そべっている。

「まさか、朝から家に帰っていないの?」

「帰ったよ。でもすぐに出てきた」

「どういうこと?」

「腹が減ったな。なにか作ってくれよ」

 智彦はだるそうに体を起こすと、ビールの空き缶を次々に振って、中身を確かめている。

「夕飯なら、家に帰ってお食べなさいよ」

 息がしづらいような無言の時間が流れて、突然、もうこの人とは終わりにしなければと、私は観念した。ふたりでいても分かち合えるものは何もなく、積み上げていけるものもない。心が削がれ、空洞が広がっていくだけなのだ。

「由美子」

 名前を呼ばれてギクリとした。

「結婚しようか」

「えっ?」

「ここを俺の墓場にしてくれよ」

「どういう意味?」

「生きていなくてもいい場所にさ」

「気味が悪いわ」

「俺は至って正気さ」

 抱き寄せようと伸ばしてきた智彦の腕を、私は思い切り払いのけた。

「あなたはもう典子と結婚しているじゃない」

「よせよ」

「それにここは私の家なの。両親が残してくれた大切な家なの。私はこの家を守っていく。それを『墓場』だなんて許せないわ」

 自分の声が震えているのがわかった。

「そうか」

 呑気そうな無表情の智彦に苛立ち、私はさらに声を荒げた。

「もう二度と来ないで」

「・・・・・・わかったよ」

 力なく答えると、智彦はゆらりと立ち上がった。私は合鍵を返してほしいと頼んだ。

「合鍵かぁ、さてどこかな」

 智彦はポケットをパンパンと軽く叩いているが、一向に見つからない様子だ。枕替わりにしていた座布団をめくろうと上半身をかがめた時、そこにあった新聞紙を踏んでしまい、「あっ」という小さな声とともに足元をとられ、体がふわりと宙に浮いたかと思うと、そのまま低い箪笥の角に首の付け根辺りをぶつけて倒れてしまった。その箪笥は飛騨高山の銘木で作られた一品で、角に鉄で作られた飾り金具がついている。

「智彦さん?」

 名前を呼んでみたが答えがない。近寄ると耳からブドウジュースのような赤黒い液体が流れている。胸に耳を近づけてみると、心音が聞こえないような気がした。赤黒い液体は眼球からも流れ始めた。

 目の前が真っ白になり、呼吸が上手くできない。早く救急車を呼ばなければと、携帯を持つ手が震えた。ふと思い直し、智彦の体に手を伸ばした時、そのあまりの冷たさにゾッとして飛びのいた。その瞬間、自分でも驚くほどの叫び声をあげていた。


 どれほどの時間がたったのか、不意に玄関のインターホンが鳴った。もしかしたら、かなり前から鳴り続けていたのかもしれない。いったい誰だろう。こんなに煌煌と部屋の明かりがついているのに、居留守を使うのは不自然だ。なんとかごまかして帰ってもらうしかない。ゆっくりと玄関に近寄ると、今度はドアをドンドンと叩いている。

「どなたですか」と尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「先生、先生、大丈夫ですか?」

(先生?)

「隣の竹石です。先生、開けてください」

「えっ?」

 ドアを開けると、そこにいたのは「竹石ゆり」の面影だけで作られた美しい造形の人だった。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。彼女は「失礼します」と言って、私の横をすり抜け、まっすぐ奥の和室に入っていくと「もう亡くなっていますね」と、合掌した。

「どうして?」

「先生の叫び声が聞こえたので」

 それはそうだろうが、私は彼女がなぜ隣に住んでいるのかを尋ねたかったのだ。

「人間は死ぬと土に還るんですよ。日本では火葬で焼いてしまうけれど、放っておけば自然と土に還るんです」

 突然なにを言い出すのだろうと訝しんでいると、 竹石ゆりは突然畳を上げ始めた。

「シャベルありますか?」

「えっ?」

 その時私は彼女が描く物語の登場人物になった気分だった。これからどうなるのか、筋書きは自分たちでいくらでも修正できるような気持ちになっていた。だが、すんでのところで私は正気に戻った。教え子を死体遺棄の犯罪者にするわけにはいかない。

「ゆりさん、待って。やはり警察に連絡します」

「死体遺棄は懲役三年以下の実刑です。不倫もばれて、教師も辞めなくてはならない。「花車」の女将さんとは友達なんですよね」

 そして、あっという間に私から携帯を取り上げた。

「あなた、私を脅すの?」

「いいえ」

「じゃあ、なに?」

 竹石ゆりは、あの中学生の時のように、私の正面に立った。

「私は、先生と二人だけの秘密を持ちたいだけ。一生破られない秘密。私と先生が守れば、それで大丈夫なの」

 人間は頭がおかしくなる時があるのだと初めて知った。自分が犯罪を犯すなど考えたこともなかった。なぜだろう。もう意識が保てないほど眠くて堪らない。


 あれから数年の時が流れ、二軒の家は何事もなかったかのように静かな佇まいのままである。私と竹石ゆりの日常は、毎日互いの家を行き来して朝食や夕食を共にする。彼女は気丈夫で、私は弱い。愛と依存は似て非なるものなのか。よくわからないが、今の私には竹石ゆりが必要だった。彼女は相変わらず私を「先生」と呼ぶ。だから、自分の名前で呼ばれることは皆無になっていた。  


「由美ちゃん、由美ちゃん」

 懐かしい声に振り向くと、声の主はやはり典子だった。

「最近来てくれないから、どうしたのかと思っていたの」

「ごめんなさい。学年主任になったら、いろいろと忙しくて」

「いいのよ、気にしないで」

 典子は着物ではなく、落ちついたベージュの地に上品な花柄のワンピースを着ていた。栗色に染めて、肩までカットした髪もよく似合っている。

「うちの店、職人が変わったの。少し味も違うと思うから、今度食べに来て」

「えっ、そうなの。それは楽しみね」

 典子と微笑み合いながら、こんな他愛のない会話ができるのか不思議だった。だから私は油断した。

「智彦さんは、どうしているの?」

 典子は、淀みなく答えた。

「別に。普通にしているわよ」

「そう・・・・・・」

 典子の黒水晶の瞳には一片の翳りもなかった。

「ああ、そうだわ。あの美しいお嬢さんと一緒にいらしてよ」

「そうね」と答えたつもりだが、その声は典子に届いていただろうか。

 この翳りのない黒い瞳に、今の私はどう映っているのだろう。紅蓮の血にまみれているのだろうか。右手も左手も、右足も左足も、胴体さえもまったく関連性がなくなり、それぞれが別の場所にあり、しかし互いを求めあっている。私の根幹の部分がそれらをつなぎ合わせようと努め、私をなにものかに戻そうとしている。私は死して生きているのである。


 吉川智彦は、とうに土に還ったであろうか。


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