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宇宙のアルバイト ーー最終日ーー

作者: 真野真名



 “宇宙アルバイトは禁止だ”


 これは航空宇宙企業局訓練学校の学生なら誰でも知っている常識である。だが常識というのは、守るより破る方が面白い。少なくとも、俺たち三人――パイロットの引田、作業員の棚田と俺・戸来――はそう思っていた。


「バイトって言っても、掃除だろ? 宇宙の。道徳的にはむしろ良いことしてんじゃん」

 と棚田は言った。


「掃除って言っても、宇宙デブリだぜ。スチールの破片と、ペンのキャップと、たぶん誰かの夢の残骸」

 と引田が笑う。


 俺はと言えば、笑いながらも手のひらの震えを隠していた。なにせ今回が初の実地宇宙作業なのだ。バイト料は破格。授業料半年分に相当する。命の値段としてはちょっと安い気もするけど、学生には十分すぎる数字だった。


 清掃作業船〈ユリカゴ3号〉は、外見こそ小汚いが、中身は案外しっかりしていた。というか、ボロい分だけ愛嬌がある。操縦席の計器盤には、前任者のガムの包み紙が貼り付いたまま。


「芸術だな」と棚田が言う。

「それも誰かの夢の残骸かもしれないぞ」と俺が言い足すと、引田が鼻で笑った。


 仕事は単純。デブリをマニピュレーターで掴み、コンテナに詰め、太陽に向けて射出する。それだけ。地味で退屈、けれど確実に危険な仕事。


「なあ、太陽に向けて飛ばすって、なんかロマンあるよな」

「どのへんが?」

「いや、宇宙のゴミを星に還すっていうかさ」

「供養みたいなもんか」

「じゃあ俺たち、宇宙の坊さんだな」


 三人で笑った。

 笑っておかないと、あの宇宙の静けさが、まるで氷のように胸の奥深くまで入り込んでくる気がした。


 作業初日は順調だった。


 棚田が船外に出て、デブリを回収。俺がコンテナに収納し、引田が姿勢制御を担当する。


「おい、サッカーボールがあるぞ」と棚田が通信で言った。

「見間違いだろ、普通破裂してる」と俺。

「いや、組み立て式で空気のいらないボールがあったはず」

操舵席から引田が言う。


「これでサッカーしようぜ」

「勝手にもらっていいのかよ」

「ゴミでも所有権は会社にあるから、業務上横領とかになるかもな」


「ひとりスカイラブハリケーンやってみたかった」

「じゃ俺がムーンサルトセーブで」

「いつのサッカーアニメだよ」


 そんな調子で、俺たちは宇宙の片隅で意味もなく笑いあっていた。


 だが、宇宙というやつは、笑いを長くは許してくれない。


 作業三日目、予定より大きな破片群が現れた。


「これ、軌道データにないな」


 引田の声がかすかに震えた。


「まあ、ちょっとやっつけて帰るか」


 棚田がマニピュレーターを伸ばした、その瞬間だった。


 衝撃音が船体を貫いた。


 金属が悲鳴を上げる音――いや、真空の中では音はしない。けれど、俺たちは確かに“聞いた”。


 体が揺れ、無重力の中で工具がふわりと浮かぶ。


「やばい、外殻損傷!」

「姿勢制御、効かねぇ!」

「待って、俺、まだ船外なんだけど!」


 船体が傾き、視界が暗転する。

 太陽光が消え、星々が回転しながら流れていった。


「……引田、これ、軌道、外れた?」

「たぶん、少しどころじゃないな」


 通信がざらつき、モニターに警告灯が乱舞する。

 燃料残量、冷却系、酸素循環、全部が赤信号。


 俺は呆然と見ていた。


 棚田の宇宙服が船体に戻ってくるのが、やけにゆっくりに見えた。


 「戸来」

 「ん?」

 「バイト代、前払いでもらっときゃよかったな」


 俺たちは、笑った。

 なぜか、すごくおかしかった。


 笑いながら、〈ユリカゴ3号〉は静かに軌道を離れていった。



 宇宙では、沈黙も音を立てる。


 船体が完全に軌道を外れたことに気づいたとき、三人とも黙っていた。沈黙があまりに深くて、逆に“何かの音”みたいに聞こえる。


「……で、これ、どうすんの?」

 最初に口を開いたのは棚田だった。


「どうって、戻るしかないだろ」

 引田は冷静に答えた。が、その声は冷静の仮面をかぶった焦りだった。


「戻るって、どこに?」

 俺が言うと、棚田が笑った。


「いや、ほら、地球とかさ」

「ふーん、あそこに見えてる青い星だな」

「お前、もう他人事だな」

「まあ、べたべたしすぎるより、ちょっと距離感置いたほうが、精神衛生上いいだろ」

「ばーか、なんの話だよ」



 通信機は沈黙したまま。


 救難ビーコンも救命艇も、最初から積んでなかった。

 格安バイトに安全装備なんて、そんな贅沢なもの、あるわけがない。船外作業用スーツがパイロットの分もあっただけましだった。


 〈ユリカゴ3号〉の船内は、どこを触っても微妙に壊れている。

 空調の音が妙に間延びしていて、水循環システムは不機嫌に唸っていた。


 酸素計の針が、ほんの少しずつ左に傾いていくのを、三人で黙って眺める時間があった。


「なあ、引田」

「なんだ」


「これ、バイト代、出るよな?」

「俺たちに責任を押し付けられなかったらな」


「だって事故だぜ。防ぎようなかったし」

「ここの会社、業績は三流だけど、責任回避だけは一流だからなぁ」


「じゃあ無理だな」


 そんなやりとりの間も、宇宙は無関心だった。

 俺たちの冗談なんて、真空の中じゃ消えるだけだ。


 でも、消えた冗談の残骸が、どこかで新しい星にぶつかって光るなら――それはそれで悪くないかもしれない。


「外、出るか」

 棚田が言った。


「どこに?」

「デブリ拾ってこようぜ。使えるやつがあるかもしれない」


「まさか、デブリで船直す気か?」

「バイト根性、なめんなよ」


 彼の声には、いつもどおりの冗談が混ざっていた。

 けれど俺は、その奥に微かに滲んだ“怯え”を感じ取っていた。


 棚田に続いて船外作業用のスーツを着込み、ハッチを開ける。


 静寂が一気に広がる。


 地球は遠い。けれどまだ見える。青くて、やけに眩しい。

 棚田がケーブルを伸ばして外に出ると、その背中がやけに頼もしく見えた。


「なあ、棚田。怖くねえの?」

「怖いけど、じっとしてる方が怖い」

「だよな」

「それに――」

「それに?」

「ここで死んでも、たぶん誰も怒らねえし」


 笑っているのか、泣いているのか、ヘルメット越しにはわからなかった。


 引田は操縦席でスラスターを調整していた。


「姿勢制御はだいぶマシになった。ただ、燃料があと三分の一だ」

「どうする?」


「とりあえず、落ち着いてパニックになろう」

「順番逆!」

 棚田が笑いながら船体を叩いた。


 船体に触れている腕を通して、金属音がかすかに返ってくる。まるで宇宙が笑い返したみたいに。


 その晩――というか、時間の感覚なんてもうないけど――三人でカロリーバーを食べた。


 味は段ボール。けど、三人で食えばごちそうだ。


「これ、地球帰ったらさ」

「うん」

「焼肉行こうぜ」

「給料もらえたらな」

「もらえるかな」

「じゃあ俺、焼肉屋のバイト探すわ」


 くだらない夢を語って、少し笑って、また沈黙になった。

 誰も言わなかったけど、全員わかっていた。


 この船は、たぶんもう地球には帰れない。


 それでも、笑うしかなかった。


 笑っておかないと、あの宇宙の静けさが、まるで氷のように胸の奥深くまで入り込んでくる気がした。


 棚田が外で拾ってきたデブリを見ながら、引田が言った。

「これ、使えるかもしれない」


「どれ?」

「このパネル。電力系統の代用にできそうだ」


「マジかよ。やっぱ俺たち天才だな」

「いや、馬鹿の方だろ」

「天才的な馬鹿、ってことで」


 俺たちは再び笑った。

 笑い声が船内の空気に溶けて、少しだけ息が楽になった。


 漂流二日目の夜、棚田は眠れずにいた。

「なあ、戸来」

「うん?」


「俺さ、バイト禁止って知ってて来たけど、ちょっと後悔してんだ」

「そりゃそうだろ」


「でも、来なかったら、お前らと笑えなかったな」


「……ああ」


 その言葉が、妙に胸に残った。

 外では、デブリがゆっくり流れていく。

 まるで宇宙の海を漂うクラゲみたいに。



 デブリで宇宙船を直す――言葉にすると、なかなか頭がおかしい。

 でも俺たち三人は、その“おかしさ”にすがるしかなかった。


 棚田が拾ってきた金属パネルとケーブル、壊れかけの衛星の部品。

 どれも用途不明、出所不明、保証ゼロ。


 それでも、引田は真剣だった。


「こいつを電力ラインに繋げれば、少なくとも循環器は動くはずだ」


「“はず”ってとこが怖いんだよな」


「実験ってのは、いつだって“はず”から始まる」

「“はず”から始まる宇宙生活。俺帰ったら田舎で修理屋やるんだ」


「それ、死亡フラグの台詞だぞ」


 冗談を言いながらも、指先は震えていた。

 工具を握る手が汗で滑る。いや、無重力だから汗は玉になって宙に浮く。


 その玉が、光を反射して、なんだか涙みたいに見えた。


 作業は三時間に及んだ。

 酸素残量は残り二日分。


 水の循環器は、死んだ魚みたいにかすかに泡を吐いている。


「……スイッチ入れるぞ」

 引田の声が少しだけ掠れた。


 棚田が親指を立てる。


 俺は息を止めた。


 パネルに青い光が走る。

 モーターが一瞬、呻いて、それから――動いた。

 循環器が、また息をし始めたのだ。


「やった!」

 棚田が叫んだ。無重力の中で拳を突き上げる。


「奇跡って、起きるんだな!」


「奇跡じゃない、努力の賜物だ」


「いやいや、これ、どう見ても奇跡寄りだろ!」


 三人で浮かんだまま笑った。


 笑いながら、互いの顔をぶつけそうになって、また笑った。


 その瞬間、ほんの一秒だけ、ここが“漂流船”じゃないような気がした。


 でも、奇跡ってやつは、だいたい片手で数えられる回数しか起きない。


 修理成功から半日後。

 船体の外殻のひび割れが広がり始めた。


 棚田がモニターを見て眉をひそめる。

「おい、圧力、下がってないか?」


「マジかよ。修理したばっかだぞ」

「いや、たぶん別のとこがいってる」


 船内のどこかで、微かに空気が抜ける音がした。


 “シュー”という音。


 小さくて、やけに人間臭い音だった。


 引田が黙って立ち上がった。

「俺、外から確認する」


「おい、待てよ。今は太陽光が強すぎる、危ねぇって」


「誰かが見ないと、どこが漏れてるかわからねぇだろ」


「でも――」


「心配すんな。十五分で戻るよ。それなら問題ないさ。それに、俺、パイロットだから」


 それは強がりでもあり、たぶん祈りでもあった。


 船外に出た引田の姿は、照り返す太陽光に包まれて小さく見えた。


 俺と棚田は窓越しにそれを見つめる。


「なあ」

「ん?」


「俺ら、なんで宇宙なんか来ちまったんだろうな」

「知らん。でも、地上にいたら、こうして星の下で語れなかったかもな」


「星の下って、下にも星があるけどな」

「細けえこと言うな」


 棚田が笑う。けれど、笑い方が少し弱かった。


 引田が戻ってきたのは、三十分後。


「おせーよ! 無理しやがって」

 俺は、エアロックを出てきた引田に向かって詰った。


「裂け目、見つけた。外殻の下部だ。パッチを当てたが……応急処置だな」


「どのくらいもつ?」


「三日、いや、運がよけりゃ四日」


「十分だよ。助けが来るかもしれねぇ」


 俺たちが四日持てばだけどな。思ったが口には出さなかった。多分みんなも。


「通信機は?」

「死んだまま」

「救難ビーコンは?」

「最初からなかった」


 引田は苦笑した。

「完全に自業自得だな、俺たち」

「でも、悪くないよな」

「なにが」

「こうして、最後の夏休みみたいでさ」


 冗談に聞こえた。でも、どこか本気だった。


 漂流三日目の夜、地球が少しだけ遠ざかって見えた。


 青い光が、ゆっくりと滲んでいく。


 棚田がぼそりと言った。

「なあ、あの青いのってさ……もし戻れたら、何したい?」

「風呂だな」

「わかる。あと、コンビニ行きたい」

「おでん食いてぇ」


「俺は……」棚田が言いかけて、黙った。

「……俺は、謝りたいかな」


「誰に?」

「親父。バイト禁止って言われてたのに、来ちまったから」


「帰ったら、笑って言えよ。『宇宙人にナンパされて、帰るの遅くなった』って」


「……言えるといいな」


 船内にまた沈黙が落ちた。


 無重力の空気はやけに冷たい。

 でも、その沈黙は、どこか穏やかだった。


 修理のために拾い集めたデブリのかけらが、船内の片隅に転がっている。


 それを見ながら俺は思った。


 ――俺たちも、宇宙のデブリみたいなもんかもしれない。


 ちょっと軌道を外れたら、誰にも見つけてもらえない存在。

 でも、誰かが拾ってくれたら、少しは役に立つかもしれない。


 そんなことを考えながら、俺は目を閉じた。


 酸素警告ランプの赤い光が、ゆっくり瞬いていた。

 それがまるで、心臓の鼓動みたいに思えた。



 時間というものは、宇宙では形を持たない。


 朝も夜もない。ただ、静けさが増えたり減ったりするだけだ。

 〈ユリカゴ3号〉の中では、時計の針だけが地上の習慣を守っていた。


 酸素残量、あと一日半。


 水の循環器は、ついに完全に止まった。

 酸素も生存が可能と言うだけで、匂いや質に関しては酷いものだ。薄いフィルターが、物理的に抵抗してるだけ。

 非常食は、最後の一袋を三人で分けた。

 パンみたいな名前の粉末を、ぬるい空気で流し込む。

 味なんて、もうどうでもよかった。


「なあ、もうすぐ地球、見えなくなるな」

 棚田が窓を指さした。


 青い光が、だんだんと薄くなっている。


「本当に、きれいだな……」


「今さら何ロマンチックなこと言ってんだ」

「だって、ほら、地球が一番遠くにあるのに、一番近く感じる」


「詩人かよ」

「さすらいの宇宙詩人、ってやつだな」


 引田が弱く笑った。

 その笑い声が、少し掠れていた。


「引田、顔、青くないか?」

「寝不足だよ。夢見が悪くてな」

「夢?」


「新アキバで魔法少女に声かけたら、おふくろだったって夢。最悪だ」

「平和だな」

「平和じゃなきゃ、やってらんねぇよ」


 笑ったあと、引田は少しのあいだ目を閉じた。

 そのまま、動かなくなった。


「……おい、引田?」

 呼びかけても、返事がない。


 棚田が肩を揺らす。


 ほんの少し、息をしていた。でも、浅い。

 呼吸音が、途切れそうに細い。


 俺と棚田は顔を見合わせた。

 何も言わなかった。


 言葉なんて、役に立たないとわかっていた。


 時間が過ぎた。


 何時間か、何分かもわからない。

 船体のきしむ音だけが続いていた。


 棚田が、ぽつりと言った。

「なあ、戸来。俺、まだ信じてるんだよ」

「なにを?」


「誰かが、見つけてくれるってこと」

「見つけてくれるかな」


「だってさ、宇宙って広いけど、どっかで誰か見てる気がするんだ」

「宗教か」


「いや、希望」


 棚田は苦笑した。


 俺も笑った。

 笑いながら、喉が焼けるように乾いているのを感じた。


 船内は静かだった。

 もう、ファンの回る音も、循環の音もない。

 沈黙だけが、淡々と船を満たしていく。


「戸来」

「ん」


「もし地球に帰れたらさ」

「うん」


「俺、バイトやめるわ」

「そりゃ、もうできねぇだろ」


「そうじゃなくてさ、まじめに生きてみたいって思って」

「お前が?」


「そう。人って変われるんだよ。宇宙で反省したんだ」


「……説得力あるな」


 棚田は笑った。


 そして、その笑いが途切れた。


 それは自然な流れのように、静かに。

 目を閉じた彼の顔は、どこか満足そうに見えた。


「……棚田?」


 何も返ってこなかった。

 俺は何度か呼んだ。でも、やっぱり静かだった。


 その静けさは、怖くなかった。

 ああ、終わったな。ただそう感じただけだった。


 俺はゆっくりと目を閉じた。

 船の中はもう、空気よりも思い出で満たされていた。


 〈ユリカゴ3号〉の外では、無数のデブリが流れていた。


 それはまるで、流星群のようだった。

 きっと地上から見たら、きれいに見えただろう。


 けれど、そのひとつひとつが、誰かの残した“軌道を外れた夢”だと知っているのは、俺たちだけだった。




 最初に光を見たとき、それが幻覚かどうか、判断できなかった。


 視界の端に、ゆっくりと白いものが流れていた。

 目の錯覚か、あるいは酸素欠乏による幻か。


 でも、確かに“動いていた”。


「……なんだ、あれ」


 俺はヘルメット越しに呟いた。

 反応は、ない。


 隣の座席には、棚田。


 その向こうに、眠ったままの引田。

 二人とも、穏やかな顔をしていた。


「……おい、起きろよ。なんか、来たぞ」

 呼びかけながらも、わかっていた。


 もう、届かないってことを。


 船体の外を、白い光がゆっくりと横切る。

 個人所有の宇宙ヨット――そんなものが本当に存在するなんて、誰が信じるだろう。


 まるで地上のクルーザーみたいな流線型。


 きっと金持ちの気まぐれだ。

 気まぐれが、命を救うこともある。


 ヨットがこちらに近づいてきた。

 信号灯が点滅する。


 生きている、と伝えたくて、俺は必死に手を振った。

 声は出なかった。

 喉が、空気の代わりに静寂で詰まっていた。


 ハッチのロックが開く音がした。

 白いスーツの人影が、船内に入ってくる。


 誰かが俺の肩を掴んだ。


 「大丈夫か!」という声が、遠くで響いた。

 耳の奥で、鼓膜がふわりと揺れる。


 俺は笑った。

 久しぶりに、他人の声を聞いた気がした。


 意識が遠のく前に、ひとつだけ思った。

 ――助かった、って言っていいのかな。


 目が覚めたとき、窓の外には地球があった。


 青い。

 やけに、青い。


 医療ベッドに寝かされ、点滴が腕に刺さっている。

 傍らに、見知らぬ男がいた。

 ヨットの持ち主らしい。


「お前、運がいいな」と彼は言った。

「こっちの機器にお前の船が反射してなかったら、気づかなかった」


「……そうですか」

 自分の声が、ひどく軽かった。


 あの船の重みが、どこかに置き去りにされたみたいだった。


「他の二人は?」と俺は聞いた。


 男は黙った。


 その沈黙で、すべてがわかった。


 俺は笑った。

 笑わないと、泣いてしまいそうだったから。


「そうっすか……あいつら、うまく逃げ切ったかもな」


「逃げ切った?」


「デブリ清掃のバイトなんですよ。サボってバイトしてたってバレたら、学校から怒られるんで」


 男は不思議そうに首を傾げた。


 俺の冗談は、救助に来た男の真剣な表情を前に、まるで酸素が足りないかのように、すぐに消えた。


 地球の青が、やけに遠く見えた。


 その中に、棚田の笑い声と、引田の皮肉が、まだ残っている気がした。


 いや、たぶんそうじゃない。


 あれはもう、宇宙の一部になったんだ。


 俺は静かに目を閉じた。


 〈ユリカゴ3号〉の残骸は、きっと今もどこかを漂っている。

 誰も知らない軌道を、ゆっくりと回りながら。



 そして、もしかしたら――

 そこに笑い声が、まだ少しだけ残っているのかもしれない。






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― 新着の感想 ―
最初は三人の会話を、冷たい宇宙の描写と比較して、楽しんで読んでいたのですが、最後の結末に涙しました。 レビューで紹介されていたのを見て、そのまま読んだのですが、SFをあまり読まない自分でも、展開が進…
ご都合主義ではない、真摯な情景の切り取り 拝読感謝
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