悪役令嬢ですが、本日付で勇者パーティーも婚約も退職します。退職金は魔王からもらいますね?
社交界では「悪役令嬢」と囁かれてきた、ローゼンベルク公爵家の娘――私、アリシアだ。
婚約者は王都の英雄・勇者レオン。舞踏会では笑顔で席次を整え、必要なら棘のある役も引き受けてきた。彼の評判を守るために。
それでも噂は私だけを悪く描く。悪女の仮面は便利だ。だが――今夜は外す。
「アリシア・ローゼンベルク! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」
王都冒険者ギルドの大広間に、勇者レオンの声が派手に響いた。
掲示板は朝から「魔王軍動向」「猫の捜索」「リンゴ半額」の札でぎっしりなのに、今日は断罪ショーの立ち見まで出ている。彼の隣では回復役の聖女セレスが、わざとらしい涙をためて「勇者様は真実の愛を選ぶの」とか言っている。
……はいはい、テンプレ。では私も台本通りに。
「承知しました。婚約解消の件、受理いたします。つきましては、こちらが解消届です」
私は青い紐で綴じた書類を差し出し、もう一冊を上に重ねた。
「それからこちらは、勇者パーティー副リーダー職の退職届。本日付で辞めます」
「……は?」とレオン。セレスも涙が止まった。
「引き継ぎ資料はこの鞄に。ポーション在庫台帳、遠征ルート地図、魔王城周辺の地形メモ、補給商人の連絡表、それから勇者様の飲み代立て替え明細です」
私は鞄を机に置き、蓋を開く。ぎっしり詰まった帳面と色分け地図に、ギルドの雑踏が一瞬静まった。
ギルドマスターが眉を上げる。「見事だな。ここまで管理してるパーティー、見たことがねえ」
「え、ええと……アリシア、話し合いは――」とレオンが動揺する。
「話し合いなら三十七回しました。議事録もあります。結果、改善はゼロでしたので本日退職です」
「お、お前に何が不満だというのだ! 俺は勇者だぞ!」
「不満は特に。契約違反が多数でしたので事務的に処理します」
私は三冊目――薄紫の表紙――を開いた。表紙には『精算書』。
「未払い分のご請求です。項目は以下の通り。聖剣研磨費(私の持ち出し)一〇件、鎧修繕費(飲酒による凹み)三件、宿代延滞の立て替え五件、セレス様の回復魔法失敗フォロー用ポーション十五本、パーティー共有物資の紛失補填二件、遠征手当の未払い四回……合計、金貨九十八。なお、期日超過につき手数料が――」
「待て待て待て! 誰が払うか!」
「では、請求先を変更します」
「誰にだ!」
「魔王です」
ギルドの空気が、また一段静かになった。
私は退職届の下に、小さく『請求先変更届』を挟む。ギルドマスターが乾いた笑いを漏らした。
「前代未聞だが、書式上は通るな……」
「ではこれにて。長らくお世話になりました」
私はスカートの裾をつまみ、会釈した。
背中でセレスが「魔王に払わせるなんて最低!」と叫んでいたが、最低でも支払うのが文明だと思う。
◆
魔王城は恐ろしく効率的だった。門番のオーガは時間通り、受付のインプは笑顔、応接室の茶は温度が完璧。
出迎えたのは黒衣の女――魔王軍人事官リリム。角と尻尾が揺れる。
「ようこそ。応募書類、拝見しますね。前職は勇者隊副リーダー、三年……主な業務、資金管理・補給・交渉・地図作成・危機対応・人間関係調整。――人間関係調整がやけに太字です」
「特に勇者と聖女間の」
「お疲れさまでした。面接官は当主が担当します。緊張なさらず」
扉が開き、ゆるやかな足音。黒と銀の衣の男が現れた。
魔王ヴァルト。噂より若く、目だけが古い。
「元・勇者隊の副官殿だな。理由を聞こう。なぜ我が方に?」
「仕事が合うからです。合理性、時間順守、支払いの確実さ――噂ですけど」
「事実だ。支払いは命の次に大切だからな」
「前職では優先順位が逆でした」
ヴァルトが喉の奥で笑う。
「では、こちらの条件を提示しよう。秘書官待遇、月給金貨五十、個室、三食付き、医療保障、欠勤は年十二日。勤務は六と一の交替制、残業は事前承認制、退職時は未消化休暇を買い上げる」
「……夢ですか?」
「悪夢の反対が我が城の標準だ」
横でリリムが書類を滑らせる。「就業規則です。ご確認を。なお、猫を飼う場合は申請が必要です」
「猫?」
「魔王様が過剰に可愛がるので業務が滞る恐れが」
「余計な補足だ、リリム」
私は笑ってしまった。気づけば、前職ではずっと笑っていなかった。
サインを終えると、ヴァルトが小さく言う。
「歓迎する、アリシア。君の時間は、今日から君のものだ」
「はい。よろしくお願いいたします」
◆
初日から仕事は山ほどあった。けれど、種類が違う。
私はまず、魔王軍の物資倉庫を見て、深く息を吸った。棚はある。ラベルもある。だが――整理が逆だ。
「在庫は重い物から下。消耗品は出入口近く。動線、交差しすぎ」
私は骨の書記スケルトンたちを招集した。「名簿見せてください」「はいカラカラ」。彼らの筆記速度は人間の五倍。
次に、城の廊下を掃除するスライムたちに指示を出す。「廊下は右側通行」「水気は夜間に」「危険区域は赤ゼリー」「了解ぷる」。
さらに、警備隊の交替表を作り替える。深夜の二時間ダレをなくすため、鐘前後に温スープの差し入れを入れる。「勤務規律と温度は比例します」
「温度?」と角の兵士。
「体温が下がると判断が鈍ります」
実験は一晩で効果が出た。夜明けの巡回記録はきれいに穴がなくなり、巡回中の居眠り報告がゼロに。
人事官リリムが目を丸くする。「なんですかその即効薬」
「だいたいの混乱は、温度と順番で七割解決します」
私は冗談めかして言ったが、本気だ。人はだいたい、寒いと荒れる。
ヴァルトは書類をめくりながら、感心したように目を細めた。
「君の『順番』は美しい。――では、次はこれだ」
「債権譲渡書?」
「勇者レオン個人に対する未払い請求。君が提示した精算書、買い取らせてもらう。金貨九十八に、前職の精神衛生手当を上乗せして金貨百。こちらが買い取り代金。即金で払う」
「え……そんな、持ちすぎです」
「持っていけ。君はここに来るのに、何も持たずに来た」
机の引き出しから取り出された革袋の重みが、指に確かな現実を作る。
同時に、私の心の中で一つの糸が切れて、別の糸が結ばれた気がした。
「では、以後は我々が取り立てる。法に則り、礼節を守ってな」
「取り立て、という言い方は……」
「柔らかく言えば、話し合いだ」
「それはもっと怖いです」
私が苦笑すると、ヴァルトの口元も少しだけ緩んだ。
◆
一週間後、勇者レオンが魔王城前に現れた。
大扉の前で剣を抜き、「アリシアを返せ!」と叫ぶ。
門番のオーガはマニュアル通り、落ち着いて声をかけた。
「返すも何も、当人は就労中だ。面会申請は――」
「勇者だぞ俺は!」
「肩書きより用紙だ」
私は内線水晶で受付に連絡し、応接室を押さえた。ヴァルトが「行くか?」と視線で問う。私は頷く。
応接室。机の上には、お茶が二つ。
レオンは剣を床に突き立てたまま座る。セレスはなぜか泣いている。泣く前に書類を読んでほしい。
「アリシア、戻ってきてくれ。お前がいないと、地図が読めない。ポーションが足りない。遠征が遅れる。攻める順番がわからない」
「それを副リーダーの業務と言います」
「すまなかった。俺は……俺は勇者で、忙しくて」
「忙しさは免罪符じゃありません」
私は革のファイルを開く。
「こちら、ギルドに提出済みの退職書類一式と、婚約解消届の受理印。法的にも社会的にも、私は自由です」
「だが、愛は――」
「愛は書面に残りません」
静かに切ったつもりだったが、セレスが「ひどい!」と噛みついた。
ひどいのは、あなた方が私を「便利な背景」で使ったことです。
「なお、本日の面会は債権譲渡の通知でもあります」
「なんだそれは」とレオン。
ヴァルトが淡々と紙を置く。
「君が前パーティー副官に対して未払いの義務を負っている金貨九十八、および関連手数料等は、すでに我が軍が買い取った。今後の支払い窓口は魔王軍財務局だ。支払いの意思があれば、分割も可。遅延時のペナルティは読んでおけ」
「魔王が金を取るのか!」
「契約は命の次に大切だ」
「ふざけるな!」
「ふざけていない。怒鳴る前に数字を見ろ」
レオンは紙を睨んだが、睨んでも数字は動かない。
私は最後に、ほんの少しだけ優しく言った。
「レオン。あなたは強い。でも、強い人が全部やる必要はないの。地図を読むのが得意な人、計画を立てるのが得意な人、片付けが得意な人――それぞれの『得意』でパーティーは回る。私は、あなたの『得意』の外側を埋めてきた。もう、それは終わり」
「……お前は俺の悪役だったのか?」
「あなたがそう脚本を書いたなら、そうだったのでしょうね」
沈黙。セレスがすすり泣く。
ヴァルトがカップを持ち上げ、静かに告げた。
「面会は以上だ。次回は予約を入れろ」
レオンは席を蹴って立ち、何か言いかけてやめた。
私は深く息を吐いた。胸に、冷たくてやわらかい風が通り抜ける。
◆
仕事はさらに回り始めた。
私は魔王軍の各隊に「段取り表」を導入し、遠征には「忘れ物チェック表」を。
「槍」「盾」「薬」「非常食」「推しの写真(任意)」――最後の欄だけ毎回誰かがチェックを入れて笑いが起きる。「任意」とは社会の潤滑油だ。
スライム清掃隊の導線は半分に。骨の書記の勤務は一日六時間に短縮、そのかわり集中度は二倍に。
城の空気が柔らかくなるのが、私にもわかった。
「アリシア。これは何だ」とヴァルトが新しい紙をつまむ。
「『歩調合わせ講習』の案内です。行軍時に足並みが乱れますので、隊長クラスに歩幅調整の訓練を」
「地味だが効くな」
「地味ほど効きます。あと、『怒鳴らない会議』の試行も」
「それは……耳が痛い者が多いだろう」
「耳が痛い会議は長引きます。喉も痛めます」
ヴァルトの肩が、わずかに震えた。笑っている。
私はふと、彼が執務室で夜遅くまで灯りをつけていることに気づいた。
「魔王様。残業、承認書が出ていません」
「自分は対象外だ」
「規則は上から守ると効果的です」
「……面目ない。君は厳しいな」
「仕事にだけです」
私の声の調子に、彼の視線が少しだけ柔らかくなる。
胸が、ほんの少しだけ忙しくなった。忙しさにも種類がある。
◆
給金日。
私は初めての正当な月給を、手の上で数えた。金貨五十。
重みは確かで、過去の私の「持ち出し」を静かに上書きした。
「猫を飼うなら今だぞ」とリリムが囁く。
「まだ早いです。まずは家財とカーテンを」
「現実的」
「猫はカーテンを登ります」
「現実的だ」
そこへ、内線水晶が鳴った。受付からだ。「勇者がまた来ています」。
私は応接室の予約簿を見て、首を振る。
「予約がないなら、日を改めていただいて」
扉が開いて覗いたのは、勇者ではなく――セレスだった。
彼女は眉を下げて、ぎこちなく頭を下げる。
「ごめんなさい、アリシア様。私、あなたがやっていた仕事の半分もできなかった。勇者様は強いけど、強いことと偉いことは違うのよね……。あの、こちら、あなたの置いていった『段取り表』のコピー。助かったわ」
「使えたなら、何より」
「それと……勇者様の飲み代、やめさせました」
「文明に一歩」
セレスは小さく笑って去っていった。
私は窓の外の旗を見上げる。黒い旗は、今日も風に素直だ。
◆
夜。
執務室に残っていたのは私とヴァルトだけ。
私はココアを二つ持って入る。ヴァルトが顔を上げる。
「承認済みの残業、あと十五分です」
「耳が痛い」
「喉も痛めます」
「それは困る。魔王の威厳が出ない」
「威厳はココアでも出ます」
湯気越しに、彼の目が笑う。
私は机の端に、先週から机の引き出しにしまってあったものを置いた。小さな箱、金紙に青い紐。
「何だ?」
「前職の残り物です。婚約の象徴として貰っていた、心の鍵。返却先がなくなったので、処分に困っていました」
「処分?」
「廃棄申請書を書きましたが、却下印を押されました」
「誰に」
「自分に」
ヴァルトが息を止め、すぐに吐き出す。「では、その鍵は――」
「魔王様の机に保管願います。備品扱いで」
「備品?」
「個人占有物では、まだ。仮置きです。検収は厳しいので」
「検収基準は?」
「笑いの回数、約束を守った回数、温度」
「温度?」
「ココアが冷める前に一口飲んでくださる方は、信頼できます」
ヴァルトはゆっくりカップを持ち上げ、私の目を見たまま一口飲む。
胸の忙しさが、静かな熱に変わった。
「――合格だな」
「まだ一次です」
「二次の課題は?」
「休日に市場へ。手袋を買いに。外側は魔王様が歩くこと」
「規則か?」
「私の規則です」
「従おう」
窓の外で風が鳴る。旗が揺れ、音がやわらかく変わる。
私は机上の予定表をめくり、休日の欄に小さく書き加えた。「市・手袋」。
「アリシア」
「はい」
「ようやく、笑っているな」
「温度がちょうどいいので」
ヴァルトが、声を立てずに笑った。
私はココアを一口。甘さは控えめ、苦味はひかえめ、温度は最適。
退職金はもう受け取った。けれど、本当の報酬は、たぶんこれだ。時間と、温度と、約束。
――悪役令嬢は、本日付で勇者パーティーも婚約も退職します。
明日からは、魔王の秘書として出勤します。
遅刻しないよう、目覚ましを二つに増やした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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