彼女の産声は、小さくも確かにあげられた
施設の生活はそこそこ快適なものだった。
私を担当してくれる職員のほとんどが女性だったからだ。
一人だけ男性職員もいたが、その人は私への過度な接触をしてこなかった。
理由を聞いたら、男性が好きな男の人だった。
施設側から実験の為に選んだらしい。
そして、外部からの治験者を使った実験をして、色々なことがわかった。
私と三秒以上見つめ合った男性は、脳波が急激に変化し、極度の興奮状態へ陥る。
治験者の言葉を借りれば、運命の出会いを確信し、私と将来を共にするのが必然だと思うらしい。
さらに、私が自分の全てを受け入れてくれる気がするのだという。
それで、少しでも自分の事を知って欲しくて、どうしようもなくなるとのことだった。
ガラスやプラスチックなどの遮蔽物があっても、その力は有効だった。
つまり眼鏡やサングラスなどは着けていても効果が無い。
今のところ人間にしか効果は無く、サルでも試してみたが特に変化は見られなかった。
そして、その効果は約四八時間。
つまり二日間が過ぎると解ける。
その後は、私の事が急に怖くなり、近づきたくない対象になるということだった。
二日間の記憶は残っているが、思い出すことを拒む者も多かった。
どうやら、私の事を恐怖し嫌悪してる自分が、私へ夢中になっていたことを認めたくないらしい。
それが、相手に拘束具と脳波測定器を付けて、私と見つめ合った実験の結果だった。
職施設の員が、それらをわかりやすく説明してくれて、ようやく私は自分の力を理解できた。
だけど、それを聞いたところで私が救われるわけではなかった。
それをどうにか出来る方法は見つからなかったからだ。
施設での生活の中、母は週に一度、面会に来てくれた。
前に住んでいた場所が遠かったので、なかなか頻繁に来ることが難しいと言っていた。
母は私に対していつも心配してくれていた。
そして、寂しい思いをさせてごめんねと、帰り際によく謝っていた。
だが、実験の結果を聞かされてからは私への態度が変わっていった。
なんとなく、私のせいでこうなったと思っているようで、徐々によそよそしくなっていった。
週に一度来てくれていたのが、段々と間隔が開くようになった。
そしてある時、母は下を向いて、私を見ずに告げた。
「また、お父さんと暮らすようになったの」
その言葉の意味を理解した瞬間、私は深く絶望した。
だってそれは、私にもう帰る場所が無くなったということだ。
父は私が家に帰ることを絶対に認めないだろう。
つまり、母は私よりも父を選んだということだ。
その答えは合っていた。
それ以来、母がここに来ることはなかった。
もう、誰も私を守ってくれる人はいない。
いつかはこの施設を出る日が来るだろう。
だが、家族をなくした私にとって、頼れるのは自分だけだ。
そのことが、どうしようもなく怖くて何日も泣いていた。
だけど、日が経つにつれ、それも馬鹿らしくなった。
よく考えたら、そもそも両親にはとっくに捨てられていたんだ。
だから決めた、強くなろうと。
外に出ても一人で生きていけるように。
そう覚悟を決めて、私は自分を鍛えだす。
私が抱えている恐怖の根源。
——男の暴力。
ならばそれに立ち向かえる強さを手に入れなくてはならない。
そして、私は必死に体を鍛え始めた。
幸い、施設では必要とすれば大抵のものは手に入った。
それは体を鍛える物だけではなく、それを教える人も呼んで貰えたのだ。
だから職員にお願いして、私はあらゆる格闘技の女性講師を呼んで貰った。
そして、毎日違う種類の格闘技を学び、鍛錬に励む日々を送る事にした。
実験のある日以外は、一日の大半を鍛える事に使い、気絶するように眠る生活。
そのおかげで余計なことを考えず、心も回復に向かっているように感じていた。
そして、施設の実験と、毎日の訓練の中で気付いた事があった。
私の目には、男を狂わせる他にも力があるということを。
ひとつは記憶する力。
本やノートなどに書かれた文字を三秒みれば一度で全部覚えられるようになっていた。
父に誘拐されてから学校に通っていなかったため、今まで気づかなかった。
だけど、動くものは無理だった。
どうやら三秒間対象が完全に固定されてないと効果がないみたいだ。
そしてもうひとつは、体感時間の操作だ。
自分が感じる時間の流れを、ゆっくりにすることが出来る。
目の奥に感じている熱を意識して、その温度をより高めるよう集中する。
すると、三秒間だけ周りがスローモーションになるのだ。
初めてそれが出来たのは、ボクシングの講師と初めてスパーリングをした時だ。
相手のパンチを喰らうのが怖くて、過去のトラウマから恐怖心が心を埋め尽くした。
絶対に攻撃を喰らいたくないと集中した時にそれが起きた。
目の奥がいつも以上に熱くなり、急に相手の動きがひどくゆっくりしたものになった。
最初はふざけているのかと思ったが、一応そのパンチを体ごと横に避けてみた。
すると、自分の体もすごく動かしづらい。
だけど、三秒たったら元のスピードに戻って、講師は私を見失っていた。
そしていつのまにか横に立っている私に気付き、どうやって躱したのかを不思議がっていた。
その時の感覚を忘れないように何度も練習を重ねた。
やがて自在に発動出来るようになった。
その力は、一度使えば三秒間は使えなくなる。
しかし、戦いの中で三秒無敵になれるというのは圧倒的に有利だった。
それと、その三秒の間に体を動かすと、ものすごく体に負荷が掛かる。
だけど、それを繰り返すことで身体能力は劇的に成長した。
スローモーションの世界で普通に動けるようになった時、通常の世界では驚異的な速さを得ていた。
ただし、この力は寝技には効果が薄くなる。
相手の体重で体を抑えられてしまったら、三秒間の無敵時間も動けないままになってしまうからだ。
だから色々と試行錯誤して、私なりの戦い方を組み立てていった。
立ち技は、パンチと肘をメインとして、投げ技はテコの原理を使う種類の技。
そして、寝技は力や体重で返されないものを選んで習得していった。
想定した敵は、自分より大きな男全般。
パンチは、人体の急所を確実に狙い打ち抜くよう、可能な限り鋭く速く。
投げ技は、関節を決めながら、そのまま折るつもりで投げる。
関節技は、力の入りにくい手首や腕、膝や足先などを確実に壊す。
寝ながら出す打撃は威力が出にくいパンチではなく、肘や指を使い目や金的を狙う。
掴まれたら、すぐに相手の指を折れるように合気や古武術の技を取り入れた。
私は、その血の滲むような努力を何年も続けた。
訓練中はずっと小刻みに三秒間の力を使っていたから、実質年数以上の鍛錬になったと思う。
私は、その世界をスローモーションにする力を『トライセクト』と呼ぶことにした。
トライセクトを使いこなせるようになった頃。
私は、女子総合格闘家の世界チャンピオンレベルでも相手にならない強さを手に入れていた。
そして完成させた格闘スタイル。
対男戦闘術。
その実践は、施設の室内運動場で行われた。
研究者たちは私の持つ力を研究したがったのだ。
初めての相手は格闘経験のある体格が良い治験者の男だった。
この施設は非合法なことも、実験の為なら平気で行われているようだった。
研究者や職員が見守る中、私は拘束具を着けていない男と目を合わす。
私よりはるかに体の大きな男。
心の中は恐怖でいっぱいだった。
いくら強くなったとはいえ、相手にしていたのは女性のみ。
目の前の男の存在に足は震え、涙が出そうになる。
怖い、どうしようもなく怖い。
だけど、これを克服しなければ私は外で生きていけないんだ。
歯をガチガチ鳴らしながらも相手の目を必死に見続けた。
男はいつものキラキラした瞳になり、こちらへ近づいてくる。
そして、自分の名前や職業などをベラベラしゃべりだし、私の腕を掴もうとしてきた。
その動きを見て体が強張る。
過去に経験してきた恐怖の記憶が押し寄せてきた。
父の、そして他の男たちの顔が頭によぎって思わず逃げ出したくなる。
だけど、すでに男の動きはスローモーションになっていた。
『トライセクト』
それは私の安全な世界。
恐怖の入り込む余地が無い、心から安心できる場所。
ゆっくりと動く世界の中で、ひとつ小さく息を吐き覚悟を決める。
しっかりと構え、相手の顎先を狙って全力の左ジャブを打った。
拳に心地よい感触が走り、“コンッ”と軽い音が鳴る。
世界が元に戻った時、男は腕を前に出しながらその場に倒れ込んだ。
そのまま動かなくなった男を見て、私は数年ぶりに声を上げた。
それはきっと、人生二度目の産声だったのだろう。
私はこうして頼れるものを手に入れた。
それは皮肉にも、私が両親から捨てられる理由の力と同じく、この瞳がくれたものだった——。




