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鬼が哭く夜

 綾乃はアキラに向き直り、深々と頭を下げる。


「この度は、(わたくし)の願いを叶えて頂き、誠にありがとうございました」


 心からの御礼であった。

 そして、契約の言葉を口にする。

 

「この御恩は、一生を懸けてでもお返し致します」


 アキラは、それを受けて頷くと、綾乃を(いたわ)る。


「それでは、とりあえず体を治療してお風呂にでも入って下さい」


 確かに綾乃はボロボロの姿をしていた。

 手の平や足の裏には、細かいガラス片が刺さり、髪は乱れ、顔は化粧の跡すら残って無かった。


「壊れた物は元に戻しておきますので、ゆっくり休んで貰ってそれから話をしましょう」


 綾乃はそれを受けて、部屋に戻り、湯を沸かす。

 それを待つ間に、アキラが治療を施してくれた。


 足と手だけではなく、他にも気付かぬ間に無数の傷が体に刻まれていた。

 それらをアキラは、柔らかな光を帯びた手を当てて、丁寧に治してくれる。


 男に触れられているのに、嫌悪感を少しも感じなかった。

 その澄んだ眼差しのせいか、それとも彼が特別だからか。

 分かったのは、その手は優しく、温かいということ。


 雪乃を抱きしめた時とは違う、自分が守られ癒されているような、そんな初めての気持ちにさせられた。


 傷付いた身体は、アキラの手によって瞬く間に治った。

 そして、鬼から返して貰った寿命と呪力のお陰か、まるで生まれ変わったように体調が良くなっていた。

 風呂へ入り湯船に浸かると、今までの苦労がお湯に溶けていく気がして思わず少し眠ってしまった。


 着物は汚れと傷で着られる状態では無かったので、軽めの服を着て薄化粧だけを施し部屋に戻る。

 するとそこは、元の綺麗なままのリビングだった。


 割れた窓も元通りになり、そこから屋上を見ると、荒れ果てたはずの庭園すら、何事も無かったかのように整っていた。


 それを見ても、綾乃はすでに驚かなかった。


 アキラの事だから、元に戻すと口にした以上、そのくらいは造作も無いのだろうと受け止めた。

 彼女の中で、彼の存在はすでに人を超えていたのだ。


「アキラ様も、宜しければ湯浴みをなさって下さい、御召し物は御用意いたします」


 神に対するような(おそ)れをもった接し方だった。

 事実、綾乃にとっては、その存在が神そのものであるように感じていた。


「もっと前みたいに、気軽に接して貰えませんか?これからはアナタと家族になるのですから」


 アキラ自身は神様扱いには慣れている。

 とはいえ距離を感じるその態度は、今後を考えると改めて欲しかった。


「そう……ですか、畏れ多いとは思いますが、アキラ様がそう望むのであれば、そのように致しましょう」

「僕の事はアキラでいいですよ」

「わかりました……いや、わかった。なら私の事も綾乃と呼んでくれていい」

「よろしいのですか?先程、馴れ馴れしいとおっしゃっていたので」

「先ほどは……済まなかった。アキラも気軽に話してくれ」


 戦闘中の自身の暴走を思い出し、羞恥と共に心苦しさを覚える。


「わかった、それじゃお風呂いただくね」


 そう言ってスタスタと風呂場に向かうアキラを、綾乃は複雑な想いで見送った。


 自分は、これからどうアキラと接していけば良いのだろうか。


 雪乃だけで無く、私の全てを救ってくれた人。


 自分にとって、『光』そのものな人。


 神として、崇拝するに値する人。


 そんな彼の望む事が分からない。


 雪乃の伴侶(はんりょ)として、義母の振る舞いをすべきなのだろうか。

 それとも、企業としての紫星の力を使い、表舞台で支えるのが望みなのだろうか。


 しかし、きっと自分如きが、彼の役に立てる事など無い気がする。

 あれ程の力を持ってすれば、叶えられない望みなどきっと何ひとつ無いのだろうから。


 何にせよ、彼の望む全てを叶えよう。

 それが、今の私の望みでもあるのだから。


 綾乃は、アキラの為の服を脱衣所に用意して、部屋で珈琲を淹れる。

 先程、アキラが気に入ってくれた味だ。

 今はそれを出すくらいしか、役に立てる方法が思い付かなかった。


 そういえば、誰かに自ら珈琲を淹れるのも初めてだったと思う。

 いつもは、自分の為だけに用意していた。


 この部屋に来たばかりのあの時は、冥土の土産のつもりで出したのだ。

 それが今は、心からの持て成しをしたくて出すのだから。


 人生というのは、本当に何が起こるかわからないと、少し可笑しくなった。

 こんなにも心穏やかな時間を味わうのは、生まれて初めてな気がした。

 

 常に張り付いて居た鬼の気配を感じる事も、紫星の事に心を暗くする事も、雪乃の未来の事も。

 この先にはもう何も綾乃を縛るモノが無くなっていたのだ。


 サイフォンを傾け、カップに珈琲を注いで味を確かめていると、アキラが部屋に戻ってきた。


「良い香りだね」


 綾乃の部屋着を着たアキラが、嬉しそうに珈琲を見る。


「サイズは大丈夫だろうか?」


 自分の服を着ているアキラを見ると、何だか少し恥ずかしい気持ちになった。


「大丈夫、ありがと」


 アキラは裾を少し引き摺って、ソファーに座り綾乃が珈琲を運ぶのを眺めている。


 目の前に置かれたカップを持ち上げ、その香りを味わい口にする。


「やっぱり美味しい」


 そのアキラの笑顔を見て、綾乃の心は喜びで満たされた。


「それで、紫星の事業の事なんだけど」


 珈琲を口にしながら、アキラは今後の事を話し出す。

 やはり望みは紫星の事かと、綾乃はアキラの前に座り背筋を伸ばす。


「一条に全て譲るのはどうかな?ウチの母への詫びとして」


 綾乃にとって、想定外の提案であった。

 

 いつかは紫星の全てを壊すつもりではいた。

 しかし、その様な形で無くすなど考えてもいなかったのだ。


「……もちろん構わないが、それで良いのか?」


 それこそ綾乃にとっては、願ったり叶ったりの話だった。

 その話が順調に進んだなら、もう、綾乃に残された使命は本当に何も無くなる。


「ウチの母は怒ってると思うから、それで手打ちにするのが良いんじゃないかな」


 おそらく、私の呪いから一条遙は回復したのだろう。

 アキラがいるのだから、その位は造作も無い事だ。


 確かにあの女ならば、今回の件が私の呪詛によるモノだと、気付いてもおかしくは無い。

 それで詫びとなるのなら、喜んで明け渡すつもりだった。


 何より、アキラの母を追い詰めたというその罪は、どんな対価であっても支払わなければ気が済まなかった。


「わかった、時間は少々掛かるだろうが、そのように進めよう」


 頭の中で、その算段を考え始める。

 大企業の突然の合併吸収は、社会的にもかなりの混乱を招くだろうが、彼が望む事ならば何としてでもやり遂げる覚悟があった。

 

「それに、これからは仕事に構わず、ゆっくり過ごして貰わなきゃいけないからね」


 色々と思案を始めた綾乃に向かい、アキラは今後の事を話し出す。

 

 「……どういう事だろうか?」


 アキラの意図が掴めず、思わず聞き返す。


「妊娠とか子供の世話とかあるでしょ?」


 そう言われて、アキラの言い分が腑に落ちた。

 確かに雪乃は、これからアキラの子を産む。

 それの手伝いを希望していたのか。


 しかし、それこそ私で良いのだろうか?

 会社の経営ならまだしも、子供の世話などした事は無かった。


「私で大丈夫だろうか?」


 不安が頭をよぎる。


「もちろん大丈夫だよ」


 アキラがそこまで言うのであれば、全力で当たるしか無い。


「わかった、それでは自分なりに誠心誠意やってみようと思う」


 今はただ、彼の言葉に従おう。

 それが綾乃の出した答えだった。

 

「良かった、それじゃ行こうか」


 アキラは珈琲を飲み干すと、立ち上がって綾乃を(うなが)す。


「待ってくれ、移動するなら屋敷から運転手を呼び寄せる」


 これから一条に出向くのかと、慌てて立ち上がりアキラを止める。


「運転手?寝室に行くんだよ?」


 話が噛み合ってない。

 だが、それが、どこからかわからない。


「寝室?それならそこの部屋だが……」


 綾乃がリビングにある扉を指差すと、アキラは迷いなく、そのドアを開けて入って行った。


「ちょっと待ってくれ!」


 流石にプライベートな場所だ。

 疲れて眠りたいのなら、もちろんベッドくらい明け渡すつもりだが、用意くらいはさせて欲しかった。


 追いかけるように部屋に入ると、アキラがシャツを脱ぎ、上半身を晒していた。


「あっ、あの、寝巻きなら用意するから……」


 その姿に思わず口籠もる。


「それは後でいいよ、それよりこっちに来て」


 アキラは微笑みながら、半裸のまま綾乃を呼び寄せる。


「は……はい……」


 先程から何かを間違えてる。

 しかし、それが何なのか、いまだに分からない。


「それじゃ、服を脱いで」


「はい?」


 それは忌まわしき言葉。


 綾乃が、羞恥と嫌悪、そして絶望を味わい続けた呪いの言葉。

 ——だが、それを告げられた今は、あの時と違う種類の恥ずかしさと混乱が、頭を占めていた。


 何かの言い間違えかと、確認するように見たアキラの目には、深く穏やかな光が浮かんでいる。

 

 あの時の男達のような、欲望でギラついた醜いモノ。

 アキラの瞳にそれらをいくら探しても、そこには一片たりとも見当たらなかった。


 あまりにも、その瞳に見入ってしまっていた自分に気付き、慌てて目を逸らす。


「あの……なんで服を?」


 自分の体温が上がるのを感じる。

 

 眠るほどゆっくりと風呂に浸かったせいだろうか?

 頭の隅で気付き始めた可能性から、目を背けるように理由を探す。


「服を着てたら出来ないからね」


 間違えている“何か”の答えが近づいてくる。

 

 それと共に、綾乃の心臓が鼓動を速めていった。

 もう、アキラの顔をまともに見られる気がしない。

 反らした視線が下を向く。

 

 それでも、確認をしないわけにはいかない。

 彼の望む事を全て叶える、そう誓ったのだから。

 

「なに……を?」


 下を向いたまま、声を振り絞るように聞く。

 だが、その答えを聞くのが怖い。

 自分の勘違いであって欲しい。

 

 薄っすらと見えてきている、その答え。

 それが合っていても、間違っていても、きっと取り返しの付かない事になる。


 その答えを考えたせいで自分の中に湧いてしまった感情により、綾乃は身動きが取れなくなっていた。


 こちらを見ない綾乃に、アキラは優しく答えを口にする。


「子作り」


 答えが出た。

 出てしまった。


 綾乃の足が震える。

 顔が火照(ほて)り、耳まで赤く染まっているのが自分でもわかる。


「こづくり……」


 言葉の意味を確認するように、思わず口にしてしまったその言葉。

 それが頭の中で反芻される度に、心臓が跳ねた。

 

 駄目だ、もう目の背けようがない。

 彼は、私との子供を望んでいるのだ。


「さっき、僕のお願いを聞いてくれるって言ったからさ」


 アキラは邪気の無い言葉で綾乃を追い詰める。


「で、でも、子供は雪乃とつくるのでは……?」


 理性を振り絞り、元々の前提条件を思い出す。


「もちろん雪乃とも作るよ、子供がいっぱい欲しいんだ」


 その明け透けな言い分に、綾乃は誠意を感じてしまった。

 それほどまでに、アキラを信望してしまっている。


「なぜ……私なんですか?」


 恐る恐る聞いてしまう。

 その答えがどんなものであろうが、聞き入れてしまうのは分かっていたのに。


「綾乃の魂が綺麗だから」


 初めて呼び捨てで名前を呼ばれ、心臓が大きく跳ねる。

 そして、その後に続く言葉で心が揺れた。


 有象無象からの誉め言葉など、履いて捨てるほど聞いてきた。

 それらは、微塵も綾乃の心に響くことは無かった。


 でも、今貰った言葉は、自分に心があった事を確認できるほどに、それを掴まれ締め付けられた。


 瞳が(うる)む。

 このまま下を向いていたら、涙が(こぼ)れてしまう程に。


 それを拒むように、綾乃は前を向いた。


 そこには、心から自分を必要としてくれている人の顔があった。


 拒否しなければならないのだろう。

 自分だけの問題ならば、受け入れていたかも知れない。

 だけど、きっと、雪乃が苦しむ。


 わずかに残った理性が、最後の一線で綾乃を踏みとどまらせた。

 必死に言い訳を探し出し、思いつくまま口にする。

 

「雪乃が悲しむのよ」

「僕は雪乃も大切にするから大丈夫」

「私はもう三十三歳だし、貴方よりずっと年上なのよ?」

「僕はもっと年上だから大丈夫」

「それに私……人を沢山殺しちゃってるし」

「僕はもっと殺してるから大丈夫」

「貴方のお母様が絶対に許してくれないわ」

「結婚するわけじゃないから大丈夫」

「私の身体は穢れているし……醜いのよ……」

「僕は魂しか見てないから大丈夫」

「わ、わたしは……」


 それ以上言葉が継げずに困ってしまい、眉を寄せると、我慢していた涙が頬を伝う。

 

 「全部大丈夫だから、僕たちの子供をつくろう」


 そう言って、アキラは綾乃の頬に優しく触れて、涙をぬぐった。


 もう無理だ。

 

 醜い自分の全てを、受け入れられてしまったのだ。

 なにより、心がどうしようもないくらい彼を欲している。

 

 頭がうまく回らない。


 ——いっそ強引に押し倒してもらえたら。

 そんなことすら思ってしまう自分が信じられなかった。


「僕は昔、目には目を、歯には歯をって言葉を人々に教えたことがあるんだ」

 

 熱に浮かされた頭へ、アキラの言葉が流れ込んでくる。


「綾乃はさっき、僕を何度も刺したでしょ?」


 そう言われ、すでに遠い過去になってしまったような出来事を思い出し、自身の行動を心から悔いる。


「ならば、僕に刺されても文句は言えないよね」


 何を刺すのだろうか?

 

 それが分からないほど、頭が馬鹿になっている。


 とにかく、彼は私に何かを刺したいのだ。

 それでも彼に刺されるのなら、それが何であれ全て受け入れたいと思った。


「だからいいよね?」


 綾乃は——小さく頷いた。


 アキラに手を握られ、ベッドに連れられる。

 もう、何も考えられなかった。

 

 彼が望むように受け入れる。

 それだけが、頭の中に残った思考だった。


 指が震えて、上手く服を脱げないのがもどかしい。

 

 彼の手で、それを手伝ってもらえるのが嬉しい。


 傷と刺青だらけの体を見られるのが恥ずかしい。


 彼が、それを愛おしそうに撫でてくれるのが嬉しい。


 ——そして、彼に刺される。


 震えながら受け入れたその“灼熱”に、切なくなるような痛みを感じた。

 そのことが、まるで初めてを彼へ捧げたような気持ちになり、思わず()く。


 すると、彼の体で、直接そこを慰められた。


 そのせいで、すぐにまた彼に()かされる。


 頭が痺れ、身体が(とろ)けるその行為を、綾乃は無我夢中で受け入れた。

 

 こうして、人生全てを紫星に呪われていた一人の鬼が、それを解かれた喜びに、夜もすがら()き続けたのだった——。

挿絵(By みてみん)

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