蛭子(ヒルコ)
綾乃が召喚した禍継鬼が、その黒い巨体を震わせ、吼える。
それは、人に原初の恐怖を呼び起こさせる咆哮。
常人ならば、それだけで地に平伏し、生を諦める、断罪の轟き。
それほどの強大な力は、人の手に余るものだ。
事実、綾乃も禍継鬼を自ら呼び寄せた事は、今まで片手の指で数える程だった。
鬼が自発的に現れたり、体の一部のみを顕現させるのならば使う呪力は抑えられる。
しかし、術者が自ら呼び出し完全に使役するには、かなりの寿命を捧げる必要があったからだ。
例え、生贄という媒体があろうとも術者の負担は大きかった。
綾乃の口の端から、血が一筋、零れ落ちる。
それを見たアキラが、ソファーから立ち上がり綾乃を労わるように声を掛ける。
「大丈夫ですか?あまり無理をなさらない方がいいですよ」
綾乃はそれを無視して、足袋のまま、庭園にいる鬼の元へと歩いて行く。
「来い小僧……雪乃が欲しければな」
100㎡を超える屋上庭園で、綾乃が鬼を傍らにし、アキラを誘う。
吹きすさぶ風が綾乃の髪を巻き上げる。
その顔は、夜の光の中で妖艶さを増していた。
まるで燃え尽きる蝋燭の、一瞬の輝きのように。
「それ以上無理すると死んじゃいますよ、綾乃さん」
そう言って、アキラは靴下で庭へと踏み込む。
「……綾乃、綾乃と……さっきから……馴れ馴れしいんだよ!餓鬼がァ!」
目を血走らせながら叫ぶと同時に鬼が動いた。
その巨体からは想像できない速度で間合いを詰め、異形の腕が唸りを上げてアキラを狙う。
——直撃。
しかし、肉片として弾け散るはずの身体は、原型を留めたままその場に立っていた。
それを見た綾乃は、顔を歪ませながら、全力で呪力を鬼へ注ぎ叫ぶ。
「その餓鬼を殺せぇー!」
鬼は命を受け、膂力を引き絞り、アキラ目掛けて連撃を打ち込む。
その余波を受けコンクリートが捲り上がり、破片が辺りに散り、轟音が屋上に響き渡る。
「危ないですって」
アキラは、軽々とその両腕を掴み、鬼の動きを止めた。
自身の数倍の太さはあるだろう、その腕を掴んだまま、困ったように眉を下げる。
「今だぁぁ!黒禍球を撃てぇぇぇ!」
両目からも血を流し始めた綾乃の叫びに、鬼が呼応する。
その耳まで裂けた口を大きく開き、そこに呪力を凝縮していく。
鬼の口内に形成されていく黒い球体。
禍継鬼の体に刻まれた裂け目の脈動が激しさを増した。
「それはダメだよ」
アキラが軽い感じでそう告げると、鬼が一切の動きを止めた。
それと共に、黒い塊も消失する。
「これを撃ってたら、お義母さん、寿命が尽きて死んでましたよ」
動かなくなった禍継鬼を横目に、アキラは綾乃の元へゆっくりと歩いて行く。
「誰が……お前の……お義母さんだァ!」
綾乃は、襟を引き裂くようにして着物から腕を抜き、上半身をはだけさせる。
サラシを胸に巻いたその体には、鬼を模した和彫りが全面に入っていた。
自身の傷の醜さを隠すように、全身に上書きをした刺青。
それは、綾乃にとって過去を塗りつぶし、紫星を壊すことを誓った刻印だった。
自身の血を混ぜた染料で描かれた刺青は、呪力を込めると常人を超える力を出せる呪術が込められていた。
しかし、その力の行使は、寿命を確実に削る。
動かなくなった鬼を見限り、懐に入れていた呪術用の短刀を引き抜くと、鞘をアキラに投げつける。
そして、そのまま腰溜めに構え突進する。
「キィヤァァァ!!!」
絶叫し、その命を自ら刈り取るために、尋常ではない速度を出してアキラへ迫る。
顔中の穴から血を流し、髪を張り付けたその表情は、鬼女そのものだった。
アキラは両手を広げ、それを静かに受け止める。
その短刀は、正確にアキラの腹部へ埋め込まれた。
肉を割く感触が、綾乃の掌に伝わる。
「死ねよぅィヤァァァ!!」
叫びと共に、何度も繰り返しアキラの腹に短刀を突き刺す。
そして、砕けんばかりに歯を食いしばり、最後に腹を抉るように手首を返した。
短刀を腹から引き抜くと、握っていた柄が血で滑り、そのままそれは地面に落ちる。
綾乃は、全身を返り血で真っ赤に染めて、息を荒くしながら、天を仰ぐ。
『終わった』
頭によぎったのは雪乃の笑顔。
きっともう見る事は無いだろう、その『大切』を思い出す。
自然と零れた涙で、頬に付いた血を洗い流した。
気を抜いた瞬間、大量の血を吐き出し、そのまま崩れ落ちる。
——それをアキラが両手で支えた。
綾乃は目を見開き、震える唇で呟く。
「な……んで……」
腹部に視線を向けると、そこにはズタズタに切り裂かれたシャツと、綺麗に割れた、傷ひとつ無い腹筋が見えた。
——やはり自分の願いは叶わないのだな。
狂気から覚めた綾乃は、ぼんやりとそう思った。
息が浅くなる。
もうすぐ私は死ぬのだろう。
そう思った時、最後にどうしてもやり遂げないといけない事が頭をよぎる。
そして、そのままアキラの腕に縋り付き、全てを投げ捨て乞う。
「頼む……お願いですから……後生ですから……雪乃に子供を産ませないで……下さい」
たった一つでいいです、これだけ叶えば他は何も望みません。
神様、慈悲を下さい。
それは我が子の為にする、母の神聖な祈りだった。
そこには確かに愛情があったのだ。
何者にも愛されなかった綾乃の人生の中で、雪乃だけが愛をくれていた。
命が尽きようとしてる今、それに報いてあげたかった。
私の、世界で唯一の『大切』を壊さないで下さい。
命を奪おうとした相手に、恥も外聞も投げ捨てて、涙と鼻水まみれで必死に縋り頼みこむ。
しかし、その願いはやはり叶わない。
「——それは無理ですね、僕も人生が掛かってるので」
アキラは申し訳無さそうに、それでも切り捨てる。
綾乃の希望は無惨にも潰えた。
アキラを掴む手から力が抜ける。
「そもそも何で子供を作ってはダメなのですか?」
そんな素朴な疑問を、アキラは問う。
綾乃は、虚になった目でぼんやりと答えた。
「……紫星の呪いから……あの子を……救うため」
綾乃は、息を吸うのもやっとな状態で囁く。
喉からはヒューという風切り音が小さく聞こえていた。
「なら、呪いを解けばオッケーという事ですか?」
それを聞いて、小さく頷く。
それが綾乃の最後の力だった。
目の光が無くなり、喉の風切り音が止んだ。
「あ、まずい、死んだ」
アキラは慌てて、綾乃を抱きかかえ、動かないままの禍継鬼の元へと連れて行き、二人の手を繋がせる。
そして、繋いだ手の上に自分の手を重ね光を発した。
すると、禍継鬼がゆっくりと縮んでいく。
その大きさが幼児くらいになった時、綾乃が急に咽せた。
「危なかった、心臓止まってましたよ」
激しく咳を繰り返した後、綾乃は自分の体の軽さを自覚する。
「……なにが……おきた?」
体を自力で起こし、小さくなった鬼を見る。
「この鬼に、アナタが今まで注いだ呪力と寿命を返して貰ったんですよ」
アキラがホッとした表情で説明する。
「そんな事——」
出来るわけが無い、と口から出かかったが、事実自分は生き返っている。
もしかしてこの少年は、自分が思っている以上の呪術師なのかもしれない。
綾乃は、彼が想像を絶する程の力を持っている事にあらためて気付く。
そして、先ほど死に際に交わした会話を思い出した。
「……おい!出来るのか!?もしかして呪いを解けるのか!?」
再度アキラの腕を掴み、必死に聞く。
「出来ますよ」
あまりにもアッサリと告げられたその答えに、綾乃は立っていられないほど力が抜ける。
「鬼の呪いを解けば、雪乃さんと子作りしても良いのですね?」
綾乃は地面に膝を突きながら、呆然としていた。
こんなに簡単に、望みが叶っても良いのだろうか?
まるで夢の中にいるような気分だった。
しかし、どうせ夢なら叶えて貰うのも良いだろう。
「ああ……呪いさえ解いてくれれば、後は当人同士好きにしろ」
それを聞いて、アキラは爽やかに笑った。
「ありがとうございます!それでは解きましょう」
そう言うと、アキラは夜空を見上げた。
「ひるちゃーん!」
アキラの大声にそれは答えた。
空が大きく割れる。
そこから巨大な門が現れた。
それは全長1キロほどありそうな漆黒の門。
視界の星空を消し去り、空中で斜めに鎮座した。
そして開く。
ゆっくりと両側に、低く軋むような音を立てながら。
開いた門の隙間から、強烈な腐臭と濃厚な瘴気が漏れ出す。
綾乃は全身が震えていた。
この門は開いてはいけない、これは世界を破滅させる物だ。
一流の呪術師の直感が、最大限の警報を鳴らし続ける。
門の隙間から覗く影。
おそらくは邪神の類い。
それが、今、現世に顕現しようとしていた。
こちらに向けて、空中で斜めにそびえる門の扉が、屋上の地面スレスレを擦るように開いた。
そして、邪神の姿が暴かれる。
直径1キロ以上もある巨大な門ですら、その頭しか通らないほどの異形の巨人。
桃色の皮膚は爛れて溶け続けていた。
地面に垂れた皮膚がコンクリートを黒く溶かし、異様な臭気を放つ。
顔と言ってもそこには何も無く、目鼻耳の名残りだろう、ただ浅い窪みのみがある。
口だけが穴を開け、暗い深淵を覗かせていた。
その穴から音が漏れ出る。
「パァバァァウァー!!!」
声とも叫びともつかない音を夜空に響かせた。
「ひるちゃん、久しぶり!」
門から必死に首を伸ばし、顔を近付ける邪神に対して、アキラが嬉しそうに微笑む。
「ァバィバィダパァダダアァー!」
まるでアキラを喰い散らかそうとする様に、口を激しく動かし頭部を振り乱す。
門が軋みながら、首輪の様にその巨体を押し留めている。
頭を揺するたびに、その爛れ腐った肉片が周囲に撒き散らされた。
綾乃のすぐそばにもそれが飛んできて、短い悲鳴と共に慌てて避ける。
「ガァレェエェ?」
アキラの他に人間がいる事に気付き、何もないその眼窩で、綾乃を視る邪神。
そして、数百メートルはあるだろうその頭部が、綾乃に近寄る。
強烈な腐臭と瘴気のせいで、気絶することすら許されない中、綾乃は腰を抜かしたまま腕を使い全力で後ずさる。
「ひるちゃんにお願いがあるんだけど、いいかな?」
「ダバァニィェエ?」
「この人の娘さんと繋がってる、鬼との紐をほどいて欲しいんだ」
「ボォッグゥェェ!」
そう返事をすると、邪神は門から頭を引き、帰って行く。
「なに……あれ……」
着物が捲れ上がり、下着が見えてるのも気にせず、仰向けのまま恐慌状態で門を見上げる綾乃。
「僕が三千年程前に作った子供ですよ」
そのまるで理解の出来ない答えに、綾乃はアキラの深度をあらためて知る。
「ちなみに、アナタの呪いはそのままで良いのですか?どうも呪いがお嫌いみたいですが」
あまりにも想定外の質問に、思わず絶句した。
「……解呪……出来るのか?」
惚けたような顔でアキラを見る。
「もちろん、お望みならその血筋に絡んだ呪いを、全てほどく事も可能ですよ」
——光が差した。
比喩抜きに、彼は神なのだと思った。
まさか、こんなにも簡単に、人生を賭けた望みが叶うなど思ってもいなかった。
何も望みが叶わないはずの人生に、奇跡が起きるのだ。
唇が震えて上手く言葉が出せない。
本当に夢なのではないかと疑う。
しかし、さっき地面に手を付いた時に刺さったガラスによる痛みが、これが現実なのだと教えてくれる。
「僕としては、アナタの先祖が命懸けで頑張った結果なので、儚い結果になるなとは思いますが」
アキラが、遠くを見る様な目で門を見上げる。
それは、まるで紫星の歴史を眺めているようだった。
「それでも大切な人の幸せに繋がるなら、良いと思います」
そう言って、髪を掻き上げ綾乃に微笑んだ。
「……お願いします……紫星を、私を呪いから解放してください」
神に祈る様に頭を垂れ涙ながらに願い出る。
「わかりました」
アッサリと了承した後、アキラは交換条件を出す。
「その代わり、ひとつ、僕のお願いを聞いて貰えますか?」
当然の事だ、対価など命ですら払う。
望外な報酬を貰うのだ、自分の持てる全てを渡す覚悟があった。
「もちろんです、何なりとおっしゃって下さい」
アキラは嬉しそうに頷くと、門に向かって大声で呼びかける。
「ひるちゃーん、追加でこの人の血脈に絡んでるモノ全て外してきてー!」
門の奥から返事が返る。
「ゥウァガズドゥア゙ア゙ァァー!」
「よろしくねー!あと、今度家にも遊びに来てねー」
そう告げると、門がゆっくり閉じ始めた。
綾乃はそれを、座した状態から地面に頭を付けるように平伏して見送った。
門が閉じ、辺りに清浄な空気が流れる。
「キミも帰りなさい」
固まってた黒い小鬼にアキラが言うと、小鬼はゆっくりと動き出し、伏している綾乃の方へ歩く。
綾乃が顔を上げると、鬼との目線は丁度同じくらいになっていた。
鬼が、自ら首の飾りを外して、綾乃に渡す。
それは、あの時渡した契約の証。
綾乃は、帯に差しておいた簪を抜き、首飾りと交換するように、小さくなったその手の平へ置く。
鬼の黒色へ戻ってる大きな瞳に、酷い顔が映っていた。
そこには、涙と鼻水の後が残る、まるで駄々をこねた後の幼子のような顔をした自分が見えた。
それがおかしくて、つい笑ってしまった。
小鬼は不思議そうに首をかしげた後、自分で赤い扉を開けて、一度だけ綾乃に振り返ってから幽世へ帰って行く。
鬼に狂わされた人生だった。
しかし、その鬼自体は、常に自分の味方でいてくれた。
何より、雪乃のことは、しっかり守り通してくれたのだ。
その感謝を込めて、消えゆく扉に頭を下げた。
深く息を吸い、夜空を見上げる。
綾乃は生まれて初めて、それを美しいと思えた——。
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