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彼はいつでも神ってる

 幸江の苦悩は続いていた。

 

 四日寝ずに素振りをし、真剣を紙一重で躱し続け、命綱もなく断崖を垂直に登る。


 そんな命を賭けた修行の数々は、幸江を高みへと押し上げてはいた。


 だが、どんな荒業を積み重ねても、アキラの影にすら触れられる気配はない。


 すでに幸江の力は、人の域を超えていた。

 その実力は十歳にして、超人ぞろいの大和の中で五本の指に入るだろう。


 だが、アキラという現人神には、並ぶどころか距離が開いていく感覚すらあった。


 

 ある日、一条家にて、彼の妹と初めて顔を合わせた。

 アキラに似た整った顔と、遙譲りの茶色い髪。


 そして、鋭さを見せる目。

 

 自分を見るその瞳には、殺意にも似た強い敵意が宿っていた。


 ——その気持ちは、痛いほど理解できた。


 もし自分がアキラの妹であったのなら、結婚相手が誰であれ、どのような手段を使ってでも排除しただろう。

 

 彼の妹であるという意味。

 それは、妥協した相手としか結婚出来ないという事なのだから。

 

 アキラは、間違いなく人類史上最高の男性だ。

 

 生まれてからずっと、その姿を間近で見続けた女にとって、他の男など塵芥(ちりあくた)同然となっているはずだ。

 そんなアキラの隣に並び、共に歩むことが許される女など、存在するはずがないと思っているのだろう。

 

 結婚相手である自分ですら、己が隣に立つことを許せない。

 ましてや、他の女がアキラの横に立つことなど、考えただけで相手を呪い殺せそうだ。


 だから、アキラの妹が自分に何をしてきても許すことが出来た。

 例えそれが、私の命を脅かす行為であっても。


 だが、それを知られてアキラを悲しませたくはなかった。

 

 だから、彼女には『やるなら彼に悟られないようにお願い』とだけ伝えた。

 すると、一瞬驚いた顔をして、それからは何もしてこなくなった。


 彼の弟は、私と話すのを恥ずかしがってしまい、あまり会話は出来なかった。



 まわりから見れば、許嫁同士きっと上手くいっているように見えているのだろ。

 一条家もウチも、二人は順調に仲を育んでいると思っているはず。


 ——だが、実情は全く違う。

 

 会うたびに焦燥感が募る。

 アキラへの距離が、果てしなく遠い。


 いっそ殉教死してしまおうか。

 そんな甘い誘惑が頭をもたげる。


 その度に、鞭の回数は増えていった。


 あれから何度か、道場でアキラと立ち合いを行った。

 それは至福の時間であり、同時に隔絶を突きつけられる審判の時でもあった。

 

 立ち合いを終えるたび、胸の奥に残るのは幸福と絶望の混ざった感情を覚える。

 神に包まれる喜びと、その背中がさらに遠くへ行ってしまったことを悟らされる痛み。

 

 そんな夜は、道場の片隅で一人、木刀を握る。

 灯りは落とされ、月明かりだけが床板に淡い影を落としている。

 

 呼吸は荒く、手の皮は裂け、血が柄に滲む。

 それでも振るう。

 振らずにはいられない。

 

 ——追いつけない。

 

 その事実が、幸江の胸を激しく焼く。


 もうすぐアキラが十一歳になってしまう。

 猶予まで、あと七年を切る。


 そんな焦りの中、ついに決定的なことが起こる。



 ある日、一条の屋敷に着いてもアキラの姿が見えなかった。

 広い庭園へ探しに行き、奥まった場所に一人でいる彼を遠目に見つけた。

 

 その姿を見て、邪魔をしてはならないと陰陽術で気配を消す。

 それでも、一人(たわむ)れるアキラの姿が見たかったので、慎重に近くまで忍び寄った。


 ——そこは、神の世界だった。

 

 木々はアキラへ柔らかな風で癒しを送り、石や岩は淡く輝き、彼を照らす。

 草花は、必死に彼へと葉を花を伸ばし、その美しさで楽しませようとしていた。

 

 そんな中で、アキラはまるで弥勒菩薩のようなアルカイックスマイルを浮かべている。

 

 彼が、ふと枯れかけている花に手を伸ばす。

 すると、その花は生気を取り戻し、喜びを示すようにアキラに向けて咲き誇った。


 それを見た自分の胸に湧いたのは、全身が震えるほどの激しい感動。


 ——そして、自分への、殺意を覚えるほどの深い怒り。


 私はアキラを神だ神だと称えていながら、まったく彼を理解していなかった。

 どこかで、人間として神に至っているなどという、愚かな思い違いをしていた。

 

 ——彼こそが本物の神だったのだ。


 それに並ぼうとしていた自分のおこがましさと傲慢に、幸江は怒りが収まらなかった。


 そして、その激しい感情の揺れにより、隠形の術が解けてしまう。


 急に現れた気配に、アキラが驚きこちらを向いた。

 そこに浮かんでいたのは焦りの表情。


 そして、周囲の気配は一変する。

 植物は何事も無かったように太陽へ向かい、鉱物は輝きを無くす。

 

 神の憩いを妨げてしまった。

 そんな自分へ強い憎しみを募らせる。


 アキラは、きっと人に知られたくなかったのだろう。

 彼には似つかわしくない誤魔化しの言葉を口にした。


 自分がそうさせてしまったことに、その場で身を切り刻みたいほどの悔恨の念が湧く。


 幸江はアキラを残し、思わずその場から逃げ出した。


 あのままアキラの困ったような顔を見ていたら、きっと自身の舌を噛み切ってしまう。

 これ以上、彼に迷惑を掛けるなど、許されざることだった。

 

 そのまま家に帰り、部屋にある神棚を前にして、幸江は呆然としていた。


 自分の進むべき道を見失ってしまったのだ。


 神棚の前で、幸江は長く座り込む。

 月明かりが窓から入り、木刀の柄に映る光が瞬く。

 

 その光を見つめながら、胸の奥で何かが崩れ落ちていくのを感じる。

 

 ——私は、間違っていた。

 

 神と並び立つことなど、そもそも許されない。

 今日、庭園で見た光景は、それを突きつける啓示だった。

 

 彼は人の形をしているが、人ではない。

 

 自分の努力は、天に唾を吐きかける行為だったのだ。


 涙など出ない、自分を憐れむことなど許されない。


 『さっちゃんと一緒にそれを学んでいけたら』

 

 一生忘れないと決めた、共に歩こうという言葉。

 神ではない己は、それを叶える事など出来る訳がなかった。


 それは、アキラの期待を裏切る背信行為。

 どうにもならない現実は、私を絶望の底へと突き落した。

 

 

 幸江は何も考えられず、そのまま一睡もせずに朝を迎えることとなった。


 朝日が、神棚を明るく照らす。

 アキラから譲られた柄に影が出来る。

 

 それを見て、幸江は目を見開く。

 

 ——アキラからの天啓が下されたのを感じた。

 

 神棚の前に膝をつき、額を床に押し付ける。

 その姿勢のまま、心の奥底で誓いを立てた。

 

 私は、彼のための剣を極める。

 その誓いは神と肩を並べるためではない。


 私が目指すべきは、その隣ではなく、その足元。

 影となり、神の御心を守り、御業を支えるための剣とする。


 影ならば、一生(かたわ)らに付き従って生きていける。

 それがアキラと共に歩む道なのだと確信した。

 

 

 その日から、幸江の修行は形を変えた。

 

 以前のような無謀な命懸けの鍛錬は減り、代わりに仕える者としての技を磨く時間が増えた。

 剣術はもちろん、礼法、護衛術、情報収集、陰陽術の応用など。

 

 すべては、神の御前に立つ時、恥じぬための備え。

 そして、夜ごと神棚の前で祈りを捧げる儀式は長くなった。

 

 祈りの言葉は、もはや並び立つためではなく、御身のお役に立つためと変わっていた。

 

 幸江の心の奥底で芽生えたのは、新たな目標だった。

 

 ——神の剣となる。

 

 それが、私の新しい道。

 

 

 そして、幸江は生まれ変わったかのような変貌を遂げる。


 アキラを前にしても、落ち着いていられるようになった。

 隣に並ばなくてもいいという思いが、幸江の心を軽くしていた。


 ただ、御身の影として、神を煩わせる雑事をこなせばいいのだ。

 影であれば、共に歩むことが出来る。


 その道に気付いた幸江は、幸福の中にいた。

 

 信仰心は、以前とは比べ物にならないほどさらに厚く強くなっている。

 それでいて、かつてのように自分を追い立てる焦燥は消えていたからだ。

 

 婚姻の制度など、神の前では取るに足らぬもの。

 人の作った決まりで神を縛って良いわけがない。


 結婚など、しようがしまいが、自分はただ神の御側に仕えるだけ。


 そう思えば心はさらに軽くなる。


 ただ、いずれ子供を作らなくてはいけないことだけは、考えないようにしていた。

 

 神の現世の身分である一条家の跡取り。

 その立場を思えば、きっと子供を成さなければならない。

 

 だがそれは、神の体を我が身に迎えるという行為。


 それをわずかでも考えると、あらゆる感情が暴走して、その場で気絶してしまうからだった。


 

 そうして、嬉々として神を支えるための修練を重ねる日々が続いていた。

 だが、その幸福を断ち切るように、凶事は訪れる。


 それは、アキラが、原因不明の病に倒れたという知らせだった——。

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