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神なのだ。

 顔合わせを終えた後、幸江の修行は苛烈さを増した。

 それは、もはや人の限界を超えた領域に踏み込んでいた。


 神の隣に立つ者は、神でなければならない。


 アキラの言葉が、幸江を修羅の道へと進ませた。

 睡眠、食事、学業、その他全てを犠牲にして自身を鍛え続ける。


 きっと自分が神の領域へ一番近づけるのは、剣の道。

 アキラから期待を受けた、その一点こそが私の誇りだった。


 両親は、日に日に痩せ続け、目だけが爛々と輝く娘を案じた。

 だが、そんな声に耳を貸す時間はない。


 アキラが結婚出来る年齢になるまであと九年。

 少なくともそれまでに彼と並び立たねばならないのだ。


 幸江の身体は常に痛みに苛まれ、痩せ細り、手のひらの皮膚は剥がれ、目は血走っていた。


 そんな命を削り続ける修行の日々を送っていると、再びアキラと顔を合わせる日がやってきた。

 両家の取り決めで、二ヶ月に一度、アキラと幸江を会わせる事になっていたのだ。


 

 屋敷に現れた幸江を見て、一条の面々は息を呑む。

 二ヶ月前は、可憐で優しげな姿を見せていたはずだ。


 だが、目の前にいる少女は、明らかに心身に異常をきたしているように見えたからだ。


 やつれきった体、手に巻かれた包帯、爛々と輝きながら血走る目。


 その姿に、遙は一瞬、許嫁の人選を誤ったのではと後悔したほどだった。


「さっちゃん、御体(おからだ)……大丈夫ですか?」


 アキラが心配そうに幸江を気遣う。

 

 その瞬間、幸江の瞳に涙が溢れ、次いで視界が暗転した。

 

 アキラに無駄な心配を掛けてしまった。

 その事実が幸江にとっては背信行為に匹敵していた。


 気を失ったまま病院に運ばれて、点滴を受ける。

 ポタポタと一定のリズムで落ち続ける液体を眺めながら、今後、アキラに心配を掛けないことを心に誓った。

 

 

 次の再会の日、幸江はふくよかさを取り戻していた。

 秒刻みの徹底した自己管理が、修練と肉体回復の両立を可能としたのだ。

 

 そして、顔には柔らかな微笑みを張り付けさせる。


 その姿に一条の面々は安堵の息を漏らした。


 ほんの些細な事でも、アキラの心を煩わせるなどあってはならない。

 内心では、アキラを前にして感情が荒れ狂っていても、それを表に出すことは許されない。


 鍛え抜かれた感情制御と、磨き上げた柔らかい笑みを必死に使い、体面を保つ。


 彼の言葉が耳に入ると、脳が痺れるような幸福感に包まれる。

 だが、それに酔いしれ返答を疎かにするなどあり得ない。


 そこに自らが発言する余裕など無かった。


 幸江は、アキラといる時、常にギリギリの精神状態にいた。

 それはまるで引き絞られ続ける弓のように、いつ弦が切れてもおかしくないほど。


 ——それでも幸せだった。


 彼の視界に自分がいる。

 それだけで、瞳が揺れる。


 自分が、世界一恵まれた存在なのだと思えた。

 

 彼は常に幸江の想像を超える。

 アキラの才は、剣のみに留まらないことを知った。

 

 知識、能力、人徳。


 会う度に、彼の素晴らしさを知ることが出来た。

 そのことが、幸江の信仰心をより高めると共に、自身の至らなさを感じ、焦りを生む。


 彼は間違いなく神なのだ。

 

 そしてなにより慈悲深い。

 

 ふとした時に、彼のさりげない優しさを受けてしまうと、思わず心の弦が緩み、涙があふれてしまう。

 そのことで、アキラを困惑させてしまうことが何より辛かった。

 

 そんな夜は、自らを戒めるために身体へ鞭を打った。


 部屋へ響く破裂音に、両親が心配して扉の外から声を掛けるが、構ってなどいられなかった。


 

 幾度かの逢瀬を重ね、今回はアキラがこちらへ出向いてくれた。

 その際、話の流れで、近くにある本家の道場へ顔を出すこととなった。


 アキラが道場へ再び降臨する。

 それはあの時の道場生たちにとって、望外の出来事に他ならない。


 その報を受けた道場は、恐ろしい程の緊張感で満ちていた。

 皆が連絡を取り合い、あの時の道場生が揃っている。

 その中には、新しく入門した幼少の道場生も何人か混ざっていた。


「皆さん、お久しぶりです」


 道場内へ優しく響くその声を、全員が正座のまま頭を下げて受け取った。


「せっかくなので、またお手合わせして頂けますか?」


 その言葉で、道場生たちは一糸乱れぬ動きを見せ、アキラを広く囲み順番を待つ。

 腕の立つ者から、その栄誉を承れることを決めていたのだ。


 一番手は幸江。


 その瞳は、恐ろしいほどの輝きをみせていた。


 あの時から二年近くの時が過ぎていた。

 今の自分がどれほど神に近づけているか、それを知る時がきたのだ。


 一礼し、本気で掛かる。


 以前の自分を片手で叩き伏せられるほどの実力は、確実に身につけていた。

 

 ——だが、届かない。


 アキラは一歩も動かず、幸江の猛攻をしのぐ。

 霊気を纏ってもそれは同じ。


 むしろ、前よりも動きが少なくなっていた。

 そのことに、幸江の目が奪われる。


 あの時、アキラに重なって見えた大木が、枝をより太くして立っていた。

 打ち込んだ時の感覚は、前より強靭かつしなやかなものに感じる。


 そして身を包むアキラの声も、よりハッキリと聞こえてきた。


 打ち込みながら幸江は、自分の信仰心の浅さを恥じた。


 ——足りない。


 もっと深く、もっと密に、彼を信じ敬わなければならなかった。


 一太刀打ち込むたびに尊崇(そんすう)の念が高まっていく。


 その想いは周囲の者にも伝染している。

 試合を見つめる皆の目が、神話を目の当たりにしたかの如く強く輝き出す。


 最後に幸江が、前回と同じ、そしてそれよりも鋭く回数の多い斬撃を放った。

 だが、それはアキラの木刀を切り刻む事は無く、傷ひとつ無い状態で姿を残す。


 全てを出し終えた幸江の胸には、深い感謝が広がっていた。


 だが、その結果は、自身の未熟さをまざまざと知らされることにもなった。


 自分が成長するよりも、アキラは成長し続けている。

 その先の見えない高みが、幸江の心に暗がりを生んだ。


 

 立ち合いを見届けた道場生たちの目には、強い崇拝と賛美が宿っていた。

 そして、自分も早く立ち合いたいという熱意が溢れだしている。


 幸江は、彼らが順番にアキラへ挑む姿を静かに眺めていた。


 人が成長し、進化していく姿は美しい。

 そして、それを可能にしているのはアキラ。

 

 ——彼の横に並ぶほどの存在になど、なれるのだろうか。


 立ち会いが終わり、アキラの指導を受けた少年が、涙を流しながら感謝を示している。


 ——いっそ、自分もあの少年のように、ただアキラを崇拝していられれば幸せだろうに。


 その考えが浮かんだ瞬間、幸江の心臓が冷たく締め付けられた。

 アキラが共に歩もうと言ってくれた言葉を、自ら否定するような考えを持ってしまった。


 その冒涜的な思考は絶対に許されざるもの。

 自分自身の弱さに憎しみすら湧いてくる。


 今日の鞭打ちは、いつもの十倍にしよう。

 幸江は心の中で覚悟を固めた。


 

 立ち会いが一通り終わり、幸江はアキラと共に道場を後にする。

 

 残された道場生たちは、感動と熱気を抑えきれぬまま、口々に語り合った。

 初めてアキラと立ち会った幼い道場生たちは、自分の中に芽生えた感情へ戸惑いを見せていた。

 年上の道場生が、『君たちは神の寵愛を受けたのだ』と優しく伝導する。


 そして、アキラの使った白木の木刀を、御神体として奉納する事を決めた。

 再びこの場へ降臨された際にまた使って頂くため、そして自分たちの本尊とするために。


 彼らは、大和の大人たちに直訴する。

 その熱意は受け入れられ、道場に新たな神棚が設けられた。

 

 そこには一本の白い木刀が、台座の上に安置されている。

 

 薄明かりの中、木肌は淡く光を帯び、周囲の空気を柔らかく照らす。

 それはただの武具ではなく、神聖な存在として、静かにそこに飾られていた——。



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