達人養成マシーン
大和幸江の家は、大和に連なる分家だった。
だが、父がそこそこの地位にあったため、幼少の頃から大和の空気に染まっていた。
物心ついた時には、幾人もの子供に混ざり様々な修練を行っていたのを覚えている。
それは武術や精神面の鍛錬のみならず、人身掌握術や自身の感情の制御まで多岐にわたるものだった。
だが、幼年期には過酷ともいえるそれらを、幸江は辛いと思わなかった。
——優秀だったからだ。
他の子供が出来ない事を自分ならすぐに出来た。
天才だと周りに持て囃され、大人に褒められるのが当たり前。
そして同年代から羨望の眼差しを浴び続ける日常。
それらは幼い幸江の心を満足させるものだった。
両親はその事を喜び、より高みへの期待を掛けてきた。
その重圧すら、幸江は心地よく受け止め精進し続けた。
天才の自分は、常に一番でいなくてはならない。
それはいつしか幸江の揺るぎない信念となっていた。
私立の名門小学校へ入学しても、その姿勢は変わらなかった。
そこは日々の訓練を試す場所になる。
対象は生徒のみならず、その親や教師などの大人まで含まれた。
それらを最も得意である人身掌握術を使い、思い通りに操ったのだ。
その作り込まれた柔らかな笑顔は、人の警戒心を緩め心の隙を生み出す。
そして、そこから心を掌握していく。
幸江は、人が自分の思惑通りに動く事へ喜びを覚えていた。
それは自分が、相手より上位の存在だという証明だからだ。
武術の方も、すでに同年代では相手がおらず、大人に混じり稽古を行っていた。
その才を御当主に認められ、通常より早く大和秘伝の陰陽術を習う認可を受けた。
両親はそのことを大層喜び、父は涙を見せたほどだった。
幸江の自尊心はさらに満たされていく。
陰陽術の修行は過酷なものだった。
だが、常人では学べぬ特別な物を自分だけが習得できるという喜びが、その辛さを凌駕していた。
大人ですら困難な修行を必死にこなし、数々の秘術を習得していく幼い姿。
それを見守る大和の人間までもが、幸江に心を掴まれていく。
結果、自分は常に特別な扱いを受けられた。
幸江の世界は、輝きに満ちていたのだ。
——本物に出会うまでは。
九歳になったある日のこと、道場に一人の少年が見学に来た。
大和当主の娘である、一条遙の息子だという。
「はじめまして、一条アキラです」
そう名乗った少年は、遙が御当主様に用があるので、暇つぶしに周囲を見て回っていたらしい。
遙の名は知っていた。
自分とよく比較されていたからだ。
『この子は、天才だったあの大和遙の再来だ』
その言葉を度々耳にしていたのだ。
そのため、どのような人物なのだろうかと以前から興味があった。
その息子なら、どれほどの才を持っているか見てみたい。
少年部の稽古を任されていた幸江は、そんな軽い気持ちで練習の参加を勧めた。
剣など握ったことすらないというアキラへ、優しく説明をしながら木刀を渡す。
手始めに、お手本として自身の素振りを見せると、アキラは目を輝かせて言った。
「すごく綺麗だね」
その純粋な賞賛に、幸江は珍しく頬が自然に熱くなるのを感じた。
少年の整った顔立ちのせいか、それとも透き通るような瞳のせいか。
周囲で見ていた、自分に憧れを持つ道場生たちが、その様子に嫉妬の色を浮かべるのがわかる。
感情の制御を怠った自分を恥じつつも、幸江はアキラにも木刀を振ってみるよう促した。
少年は、幸江の構えを真似し、右足を前に出して一振り。
次に左足を前に出して一振り。
最後に両足を肩幅で揃えて一振り。
それを見ていた幸江は、手にしていた木刀を思わず落とす。
道場に響き渡る固い音と共に、驚愕が表情を支配していた。
その時、常に行っていたはずの感情の制御は、まるで機能していなかった。
きっと、この場で理解できたのは天才である自分だけだろう。
アキラが三度目に振った太刀筋、それは剣の理を表していたのだ。
幸江の尋常ではない反応に、道場生たちが顔を見合わす。
その中で、一番体の大きな少年がアキラに声を掛けた。
「お前、ちょっと稽古をつけてやるからこっちに来い」
幸江のいつもと様子の違う姿を見せられて、その目は嫉妬に燃えていた。
大和の人間であれば、感情の自制は常とするべきこと。
だが、幸江に対して幼い道場生たちが抱く感情は、崇拝に近いものだった。
「ありがとうございます」
見上げるほどの体格差と声に含まれる威圧。
辞退するのが当然の申し出を、アキラは微笑みながら受け入れた。
本来なら止めなければいけない幸江だったが、声が出なかった。
これから何が起こるのか、それを見届けたいという思いがその口を閉じさせた。
「お互い自由に木刀を振って、相手の体の寸前で止めるんだ」
体の大きな少年はそう言い、一礼をして上段に構える。
素人を相手に怪我をさせるつもりは無かった。
ただ、脅しをかけて泣かせるくらいはいいだろうと思っていた。
大和の修練は過酷だ。
十歳の自分でも、普通の大人よりはるかに力が強い。
アキラが手にした木刀を、力任せに叩き落せばそれで終わりになるはずだ。
「はじめるぞ、その構えでいいのか?」
アキラは一礼をした後、剣術の基本である中段には構えずにいた。
両足を肩幅で揃え、切っ先を床に向け、左手でだらりと木刀を持つ。
「はい、お願いします」
「……わかった、いくぞ」
木刀があの位置だと、当てて落とすのは出来ない。
そう思った少年は、アキラの頭ギリギリに寸止めをすることに決めた。
「キエエィ!」
少年とは思えないほどの気合を発し、一足で間合いを詰めて木刀を振り下ろした。
木刀同士のぶつかる硬い音が、道場に鳴り響く。
アキラが自分の初太刀を防いだことに、少年が驚きの表情を浮かべていた。
そして、慌てて大きく一歩後ろに飛び退く。
アキラは、木刀の背に右手を添わせて、少年の重い一撃を受けたのだ。
さっき、剣を持つのは初めてだという事が聞こえていた。
だが、その反応と動作はとても素人には見えなかった。
まぐれかもしれない——。
気を取り直して、少年がもう一度飛び込む。
今度は頭ではなく、肩を狙って打ち込んだ。
しかし、それも防がれる。
そして、先ほどよりも手ごたえが軽い。
木刀同士が当たった時の音が小さくなっていた。
少年は訳が分からなくなり、そのまま木刀を振り続けた。
腕に、胴に、頭に、足に。
すると不思議なことが起こり始めた。
木刀を振るうたびに、少年は自分の剣筋が研ぎ澄まされていくのがわかる。
力任せだった攻撃が、しなやかに無駄が削がれていく。
速さではなく、間で攻撃が出せるようになる。
体の使い方が、一太刀ごとに変わっていく。
アキラに打ち込むと、こう動いた方が良いという指示が与えられている気がする。
それに従うと、今度はこうするともっと良いと教えられてる気になる。
その音の無い声に従うたび、今まで知らなかった体の動きを発見できた。
それは、剣の道を駆け上る至福の時間。
木刀同士の当たる音がどんどん小さくなり、五分が過ぎる頃に音が無くなる。
少年の目の前に、アキラの切っ先が静かに置かれていた。
「……ありがとうございました!」
少年は肩で息をしながらも、顔は興奮と感動で紅潮している。
その瞳には、アキラへの尊敬と感謝が宿っていた。
深く頭を下げてその場を離れた少年は、すぐさま素振りを始める。
それは、試合で体感したことを、少しでも体に刻み付けたいという強い欲求だった。
「私も立ち合って下さい!」
その声と共に、一人の少女がアキラの前へ進み出た。
「いいですよ」
アキラは汗ひとつ掻いてない涼し気な顔で微笑み、それを受ける。
そして、一礼とともに始まる少女との試合。
それは指導というより、まるで相手の進化を促す儀式のようだった。
少女の剣は、アキラに振るわれる度、鋭く早く鋭角になっていった。
自分だけの型を作り上げるような作業。
少女は無我夢中に剣を振り続ける。
そして、その眼前にアキラの切っ先が置かれた時、その顔には輝くような笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございました!……なにか掴めた気がします!」
深々と頭を下げて、素振りに向かう。
「ぼ、僕も!……お、お願いします!」
今度は、道場生の中で、ひときわ小柄な少年が手を上げた。
その顔には自信がなく、その上げた手は緊張で小刻みに震えている。
急いでアキラの前に立つが、一礼の後の構えも先の二人に比べるとぎこちない。
少年は眉を寄せて、泣き出しそうな顔をしながら呟く。
「……強くなりたいんです」
実力者二人を軽々と退けるアキラを前にして、全身が震えていた。
少年は、努力はすれど才が無く、力も無い。
それゆえに、この大和の中で落ちこぼれていた。
実力こそが評価をされる大和の世界で、弱き者はその存在を否定される。
そんな空気の中で周囲の目を気にし、少年はずっと下を向いて過ごしてきた。
自分はみんなとは違う出来損ない。
その劣等感が常に付きまとう人生を、この先もずっと歩きたくなかった。
——彼には、ただ必死さのみがあった。
だが、どんなに頑張ってもそれが成果に結びつかない。
先に戦った二人が目に見えて上達していく姿、それが頭に焼き付いていた。
だから、決死の覚悟で声を上げたのだ。
「いいですよ、やりましょう」
少年を見るアキラの表情は穏やかだった。
そこには少しも嘲るような感情は無く、ただ慈愛に満ちた瞳だけがあった。
少年はその視線で心が静まり、体の震えが止まるのを感じていた。
「やあぁ!」
精一杯の気合を込めて打ち込む。
その鋭さの無い一撃を、アキラの剣が受け止めて優しく流した。
続けて振る二撃目の太刀筋がわずかに変わる。
少年が剣を振るたびにぎこちなさが取れ、木刀が綺麗な弧を描き始めた。
振るう数が五十を超えたころ、少年の動きに変化が起きる。
それは、傍から見ると舞っているように見えた。
通常の剣術では使われない動き。
木刀を片手で持ち体を常に回転させ、転がり、飛び、遠心力で切りつける。
継ぎ目なく動き続けるその姿は、美しさすら感じさせるものだった。
そしてついに少年の動きが止まる。
アキラが、少年の眼前に切っ先を置いたからだ。
少年は涙を流していた。
顔は酸欠により蒼白で、呼吸は酷く荒い。
腕は震え、木刀は今にも落ちしてしまいそうなほど。
足も立っているのがやっとだろう。
だがその顔には、先ほどまでの自信の無さが消えていた。
そこに浮かんでいたのは、救われた者の感謝。
「……ぼ、僕にも……道は……あったんですね……」
そう言って、アキラの前に跪き、嗚咽を漏らす。
アキラは、床に膝をつき、少年の肩にそっと手をのせた。
「君の動き、美しかったですよ」
そういって、少年を誇るような視線を向ける。
「あり……がとう……ございました」
アキラの言葉とその眼差しを、少年は心に深く刻む。
——一生忘れないようにと。
ずっと下を向いて生きてきた。
でも、これからは前を向いて生きたい。
自分を救ってくれたこの人を、しっかりと見て追い続けたい。
この日から、少年は新たな道を歩き始めた。
二人を見ていた道場生たちから、自分と立ち合ってくれと次々に声が上がる。
それをアキラは全て受け止めた。
全て捌き切る頃には、道場の熱気は凄まじいまでに膨れ上がっていた。
各々が、アキラから学んだことに集中して取り組み、剣を振り続ける。
そしてその瞳には、自分の新たな可能性への希望と、アキラへの深い感謝を浮かべていた。
皆の心に宿っていたのは、崇拝のような感情ではなく、崇拝そのもの。
その中でひとり、幸江だけがアキラと立ち合っていなかった。
だが、視線だけは最初から、一度も外さずアキラを見続けている。
その瞳に宿っていた感情、それは幸江が生まれて初めて抱いたものを映していた——。




