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その温かさは赤い色をしている

 紫星綾乃の人生は、深い闇に覆われていた。


 綾乃の一番古い記憶は“痛み”だった。

 

 おそらく、母の言いつけを破ったのだろう。

 その理由すら、今では思い出せない。

 

 ただ、母が激怒し、自分に仕置きをしたことだけは鮮明に覚えている。

 

 その折檻は度を越えていたからだ。


 母は、泣いて嫌がる綾乃に、熱した鉄の棒を当てたのだ。

 皮膚の焼ける痛み、その残った痕を見る度に思い出す。

 それが綾乃に染みついた幼少の記憶。

 

『痛みが無ければ覚えぬ』


 それが母の口癖だった。


 綾乃は、母の機嫌を損ねぬように生きた。

 それでも、火傷の痕は増えていった。

 

 父は物心ついた時にはいなかった。

 そして、学校などは行かせては貰えなかった。

 

 ゆえに、母のみが綾乃の世界の全てだったのだ。


 紫星家の屋敷は広く、使用人も大勢いたが、彼らは常に母の顔色を(うかが)いながら働いていた。

 綾乃に対しては、まるで腫物を触るように接してきた。

 

 彼らは出来るだけ綾乃に近づきたくないのだ。

 何が切っ掛けで母の怒りに触れるかわからない、それを綾乃は理解していた。

 だから、綾乃も自ら近寄ろうとはしなかった。

 

 少しでも、母の意に添わぬことはしないよう行動する。

 それが紫星の屋敷で過ごす者の常識であった。


 体の火傷が五十を超える頃、綾乃に初潮が来た。


 その日を境に、綾乃の闇は今まで以上に濃く、そして深くなる。


 

 初潮の報告を聞いた母は、綾乃を部屋へ呼び、告げる。

 

「裸になれ」

 

 綾乃は自分の裸が嫌いだった。

 火傷の痕が隙間なく染みついている醜い体。

 自分でさえ、目を背けたくなるそれを、人に見せるなど有り得ないことだった。


 しかし、母の命令には背けない。

 それは綾乃にとっては“絶対”だったからだ。


 ゆっくりと服を脱ぎ、震える手で恥部を隠す。


 自分の醜い体が母の視線に晒さる。

 羞恥と共に、陰鬱な気分が押し寄せてくる。

 息が浅くなり、視界が(にじ)んだ。


 母が手を二度叩く。

 すると襖が開き、男が一人、入ってきた。


 綾乃はそれを見て、悲鳴を上げ(うずくま)る。


 だが、母はそれに構わず、男に告げる。


「好きにしろ」


 綾乃は恐怖で震えた。

 母の言葉の意味が分からないほどに混乱した。


 男は、下卑た笑いを見せながら、綾乃に迫った。

 後ずさるように部屋の隅へと逃げる綾乃に、男が覆いかぶさった瞬間。

 鈍い音と共に、男の体が綾乃から剥がれた。

 そして、綾乃の体に赤い液体が降り掛かる。


 綾乃が恐る恐る男を見ると、そこには顔を半分(えぐ)られた男が大量の血を流し倒れていた。


「視よ」


 母が指を差す。

 そこには、自分と同じくらいの背丈をした、黒色の異形が立っていた。


 少年のような輪郭。

 だが、瞳は黒一色で光り輝き、額には角が二本生えていた。

 そして、その鋭い爪には男の血と肉がべっとりと絡みついている。


 その非現実的な姿に、自分は夢でも見ているのだと思った。

 そうでないと、今起きた全ての事を受け入れることが出来なかったのだ。


「良し」


 それは母が口にした、初めての褒め言葉だった。

 そして、生まれて初めて見る母の笑顔らしき表情を見て、綾乃は意識を失った。


 

 綾乃は、自室の布団の中で目を覚ました。

 全身がだるく、息をするだけで喉が軋んだ。

 

 そして、あの出来事はやはり夢であったのだと自分に言い聞かす。

 しかし、その夢はあまりにも現実的過ぎた。


 裸を晒された羞恥、男の吐き気を(もよお)す目、肌に残った血の生温かさ、赤く爪を濡らした異形の存在。

 

 どれも幻とは思えず、思い出すだけで身体が震えた。

 

 綾乃は頭を強く振った。

 記憶に残る映像を、強引に追い払おうとするように。


 その時、部屋の(ふすま)が急に開く。

 恐怖に体を硬直させ、ゆっくりと視線を向けると、そこには母が立っていた。


「今日からお前は紫星の女だ、精進せよ」


 そう告げると、母は部屋から出て行った。


 綾乃には何のことだか分からなかったが、母の顔を見て、先程の事が夢では無かったのだと絶望した。


 母は笑っていた。

 それは、気を失う前に見たものと同じ、醜い顔だった。


 

 それからは、今まで以上に辛い日々だった。

 紫星に伝わる呪術の修練が始まったのだ。


 三日寝ずに呪詛を唱え続ける。

 自らの血で呪符を描き、意識が朦朧とするまで体を鍛え、精神力を削る日々。


 常軌を逸した修行が続いた。


 修行が母の定めた段階に達していなければ、容赦なく鞭が振るわれた。

 綾乃の体には、火傷の代わりに痣と傷が刻まれる様になった。


 だが、修行の辛さより、月に一度行われる母の『見定め』が何より綾乃の心を蝕んだ。


 それは、あの時と同じ、母の目の前で裸の綾乃に男を当てがうというモノ。

 

 鬼を呼び出すための契約の起点。

 

 それは、男が綾乃に欲情を抱き、体に触れようとすると発動する。

 それにより鬼を呼び出し、その成長具合を見定めるのだ。


 どうやら、綾乃の呪力が上がれば上がるほど、鬼もその体を強く大きくしていくらしい。


 鞭の傷により、更に醜くなっていく自身の身体を、母と見知らぬ男に晒す。


 綾乃の裸を見つめる男達の目は、傷への嫌悪とそれを上回る下卑た欲望でギラついていた。


 そして決まって、立ち尽くす綾乃の乳房や下腹部を(まと)に手を伸ばす。

 いつも、そこへ触れた瞬間に男達の頭が弾け飛んだ。


 人が目の前で絶命するのを見るのは、もう何度目だろうか。

 もはや数える事すら億劫であった。

 

 綾乃の死生観は、既に取り返しが付かないほど壊れていた。


 母は、返り血を浴びた綾乃に見向きもせず、現れた鬼をひたすら眺め、その成長具合を見定める。

 成長に満足がいけば笑みを見せ、そうでなければ鞭による折檻が待っていた。


 月に一度のその儀式が訪れる度に、男の汚さと共に自分が穢れていくのを感じ、綾乃の心は硬く閉ざされていく。


 生ている事の辛さに、自死を行わなかったわけでは無い。

 ただ、成せなかっただけの事。


 刃物を自身に突き立てようとすれば、鬼の手が現れ刃物自体を砕く。

 高い場所から飛び降りても、必ず鬼の力により救われた。

 毒を飲もうとすれば、体が締め付けられ動けなくなる。


 そして、それらの行為が母に知られると、鞭で皮膚が裂けるまで叩かれた。


 綾乃には、あの世へ行く自由すら許されなかったのだ。


 そんな、絶望を積み重ねるだけの人生。

 綾乃は眠りに着く前、必ず祈る。

 

 『このまま一生、目が醒めないでくれ』

 

 しかし、その願いが叶えられる事は無いまま、十六歳の誕生日を迎える。


 その日は、紫星家にとって特別な日であった。

 殆ど屋敷から出された事の無い綾乃が、誕生日のお披露目と称して、紫星家へ(ゆかり)のある人々の前に晒された。

 

 一流ホテルの広間を貸切り豪華な食事が並ぶ中、来賓は次期当主である綾乃へ、媚びへつらうように次々と挨拶に来た。

 何人かは、屋敷へ来訪した時に顔通しをさせられ知っていた。

 だが、その場にいるほとんどの人間は会った事も無い。

 

 綾乃は学校というものに通った事は無かったが、知識と教養、そしてマナーは幼少の頃より徹底的に教え込まれてきた。

 体に火傷の痕が増える度に磨かれたそれらは、綾乃を完璧な淑女に仕立て上げた。


 最高級の着物と装飾品を身に着けた気品溢れる立ち姿は、その美貌と相まって来賓の目を強く引いた。

 特に、若い男性客にとっては、尚更だったであろう。

 

 紫星家に婿入りすれば、その美貌も、莫大な財も手に入るとなれば、挨拶にも力が入る。

 そのギラついた視線は、綾乃にとって嫌なことを思い出させる、極めて不快なものだった。

 綾乃にとって、男というのは侮蔑の対象以外の何物でもなくなっていたのだ。


 ただ耐えるだけの時間、それがようやく終わりを告げ、屋敷に帰る。

 しかし、綾乃を更なる絶望へ突き落す、本当の“お披露目”はここからだった——。



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