嫉妬心は息子をも殺す
遙の手にあった、ティーカップが粉々に砕ける。
残っていた紅茶が、血のようにテーブルへ広がった。
そして空気が瞬時に緊迫する。
遙は、洋服に掛かった紅茶を気にする素振りもなく、静かに立ち上がった。
その体に、オーラのような霊力が立ち上る。
「……霊装召喚」
遙のその呟きによって、霊力が形を成していった。
それは大和家に脈々と伝えられた、秘伝の陰陽術。
高位の霊と契約し、自身にその力を借り受けるもの。
日本には全部で五家の代表的な陰陽師の家が存在しており、それぞれに契約を結んだ高位霊がいる。
契約は、その霊が認めた血脈のみが資格となるため、その家の血を受け継ぐ者でなければ行使出来ない。
その為に、大和家は各方面に娘を嫁がす。
そして、他家で生まれた女児は十六歳を迎えると大和へと帰属させる。
その娘を、また他の利用できそうな家に送り込むのだ。
こうして、千年以上の歴史を途絶えさせる事なく、その血を繋げていった。
遙は本家の娘だった為、幼い頃から大和の秘術を仕込まれた。
そして天賦の才を持ち、その上で血の滲むような努力を続け、最高秘術の『霊装鎧』を行使できるまでに至った。
霊装鎧とは、自身の体に契約した霊を召喚させ、鎧のように纏う事で、霊力が続く限り常人をはるかに超える力を行使出来る。
その力は、人を喰らい強化された鬼と、生身で渡り合えるほどであった。
遙の体に、日本甲冑のような装備が装着されていく。
大袖と呼ばれる肩当てと籠手、そして胴体と下腹部を守る胸板と草摺、足を覆う脛当て。
完成した鎧の色は、白と赤で塗られており、遙の冷酷さと怒りがそのまま表現されたようであった。
そして最後に、その手に形作られたのは反りの深い巴形薙刀。
全長は180センチ前後で、遙の身長を越えていた。
柄の部分は、呪符を編み込んだ螺旋木柄で、刃との結合部には蛭巻と呼ばれる金属状の補強がされていた。
刀身には血管の様な模様が刻まれており、それがまるで血の通っているかの如く脈動している。
その姿は、古い絵巻にある女武者、巴御前のようであった。
ただ事ではない遙の様子に、三人は椅子から立ち上がる。
それを見て、遙は手に持った薙刀をテーブルの上に通し、全力を持って目の前の綾乃へ振るった。
鬼を呼び出す暇もなく、間髪入れずに振るわれたそれは、必殺の一撃となるはずだった。
しかし、そこへアキラが身を挺して立ち塞がる。
「退きなさいアキラ!その害虫を殺せないでしょう!!」
羅刹女の顔をした遙が、アキラの首の一寸手前で刃を止めた。
「お母様、綾乃は僕の子供を産んでもらう大切な人なのですから、殺すなんて止めてください」
アキラが眉を寄せ、悲しそうに訴える。
その姿が、遙の心を抉り、薙刀を持つ手が怒りで震えだす。
その後ろには、アキラの背中に寄り添い、ウットリとした表情で、自分が守られていることへの状況に酔っている女がいる。
あの悍ましき生き物を、瞬息さえもこの世に存在させてはならない。
「子供が欲しいなら、ママが産んであげるからその鬼を切らせなさい!!」
もはや自分が何を言っているのか判別がつかないほどに、頭の中が血に染まっていた。
「直接の親子で子供を作るのは、閉じた行為です」
「残念ですが僕の生き方に反します」
それは広がれない。
その自分が否定されたと取れる言葉に、遙は深く傷つく。
なんであの腐れ女は良くて、この世で一番アキラに愛を捧げてきた私は駄目なのか。
そのあまりの理不尽さに全身が震える。
やはりアキラは壊れてしまっているのだ。
それとも、これもまだ悪い夢の続きなのかもしれない。
きっと、あの女の呪詛から抜け切れていないのだ。
一刻も早くあの女を殺し、アキラと自分を解放しなければ。
たとえ——この命を賭けるとしても。
遙は、薙刀をアキラの首元から戻して右肩に預けると、籠手の隙間から自身の手首を嚙み千切った。
そして噴き出さんばかりに流れるその血を、柄の部分に張り巡らされている呪符へと吸わせる。
「……赫脈刀……赫帯裂斬」
遙がそう呟くと、薙刀の刃に走る血管模様が激しく脈打ち、その刀身を赤黒く染め上げていく。
それは、この『赫脈刀』という銘を持つ薙刀に、大和の血を注ぎ込み、それを贄として撃ち出される必殺の絶技。
その稀有な血を、吸わせれば吸わせるほどに威力は上がる。
自身の生命を削ることによってのみ出せる、相死の一撃。
「……アキラ……今……助けてあげるからね」
血の気の無くなった青白い顔で、優しく告げる。
それは仮面ではない、心から息子を案じた母の微笑みだった。
きっと息子は自分を選んでくれる。
あの女を本気で庇ったりしない。
だって、アキラは私の自慢の息子なんですから。
私の夢、私の希望、私の心、私の——。
「息子の前から……消え失せろぉぉぉぉ!!!」
そして腰溜めにした薙刀から放たれる、空絶の放撃。
テーブル越しに放たれたその赤黒い霊力は、唸りを上げて、綾乃への射線上の全てを飲み込むように消失させる。
それはアキラごと、綾乃を消し去る一撃だった。
「——やりすぎですよ、お母様。せっかくのお茶がテーブルごと無くなってしまったじゃないですか」
そこには、片手でその膨大な霊力を受け止めたアキラが、眉を寄せていた。
その手の中で、呪力が赤い球へと変化していく。
野球ボールほどに収まった真紅の呪力を掴んで、呆然としている遙の側へと歩み寄る。
「このままだと、出血多量で死んでしまいますから戻しますね」
そう言って、赤い球を遙の手首へ押し当て霊力と血を戻す。
光る手による治療も同時に行い、傷口を癒した。
遙の蒼白だった顔色が赤みを帯びていくと、頭が急激に冷え徐々に思考が冷静さを取り戻してきた。
そして霊装鎧が、光の粒となり消え去る。
その瞬間、遙は自分の行った行為の重大さに気付く。
——我が手でアキラを殺しかけたという事実に。
「え?……あれ?わ、私……なに……を……」
確かに遙は呪いに掛かっていたのだろう。
“嫉妬”という名の、度し難い呪いに。
「ご、ごめん……なさい……そんな……私が……アキラを……」
戻った血色が再び青くなり、体を震わせ自身の行為を省みる。
両の手のひらを頬に当てて、その冷たさに現実を知った。
「……イヤァ——————!!!!」
心を壊したような絶叫が響き渡る。
遙の頬に自らの爪が突き刺さり、八つの穴が開く。
そこから涙のように血が溢れ出し、胸元を汚していく。
「どうして!どうして!!どうして!!!」
なぜ自分が、アキラを殺しかけたのかが分からない。
必ず息子を救うと思っていた。
そのはずだったのに。
頭を抱えると、指から流れた血で視界が赤く染まっていく。
その景色から見るアキラの顔は、自分の行動で起こり得たであろう、血塗れの姿だった。
そうなるはずだった息子の姿に、遙の心は受け皿を失う。
——死んで詫びるしかない。
取り返しのつかない事をしてしまった。
もう、アキラに合わす顔は無い。
それは遙にとって、この世に生きつづける意味の消失だった。
最後に、アキラを目に深く焼き付ける。
「アキラ……ごめんね……」
その手には、霊装で作られた小刀が握られていた。
上を向き、勢いよく自身の喉に突き立てようとした瞬間——。
パァン。
乾いた音が響いた。
遙が頬を押さえ、その痛みを与えた人物を見ると、そこには夫であるマコトが悲痛な顔をして立っていた。
「……叩いてすまない、だが、キミのその行為は間違っている」
マコトが遙に手を上げた。
その衝撃は、想像を絶する。
結婚生活十八年で、暴力どころか口答えひとつしたことが無い。
常に遙の顔色を伺い、一条家が乗っ取られているのも気付きながら、それでも何もしなかった男だ。
対外的には、威厳のある切れ者の当主で通っていたが、妻に対しては、忠犬と呼ばれても仕方がない態度で接していた。
そんな男が妻を見据え、言葉を発する。
「……息子を殺しかけ、自分を殺そうとし、家族を悲しませる」
そして、アキラの面影が見える顔で微笑んだ。
「……キミは、そんな愚かな女性では無いはずだよ」
それは、遙の初めて見たマコトの姿だった。
彼はいつも眉間に皺を寄せて、何も言わず遙の言う事を聞いていたからだ。
「アナタ……」
遙は、血に染まった顔でマコトを見つめる。
そこには、確かに自分の事を大切に思ってくれている男の姿があった。
この人は、こんな顔だったのか。
これほどしっかりと彼の顔を眺めたのは、初めて会った時以来かもしれない。
婚姻を結んでから、遙にとって彼の存在はほとんど存在しないに等しかった。
アキラが産まれて、自分なりに感謝を持って尽くしてたとは言うものの、それはあくまで子供たちのオマケでしか無かったのだ。
大和の意向で受け入れた、子供を作る行為すら片手で数えるほどだった。
それでも彼は、私に対して何ひとつ不平や不満を言わずに、ただ従ってくれた。
自分に言われたことに従い、一条の仕事をただこなす男。
それが遙にとっての、マコトの評価だった。
しかし、そこにあった彼の気持ちは、一体何だったのだろうか?
そんな事を、遙は初めて考えたのだ。
「……ごめんなさい」
口を突いて出た謝罪の言葉は、心からのものだった。
それには、全てが込められていた。
今、自分が起こした取り返しのつかないような過ち。
過去、自分が行ってきた心無い仕打ち。
そして、これから行わなければならない、非情な決断の行使について——。




