瞳に宿る炎
最終章となります。
よろしくお願いいたします。
富士の樹海には強い雨が降り注いでいた。
その場には、赤いマントを羽織ったアキラと、水の衣を着たテラが向かい合っている。
雨は二人を酷く濡らし続けているが、どちらもそれを気にする素振りはなかった。
空気は酷く張り詰めている。
それはまるで、世界そのものが殺されないようにと、恐怖で息を潜めているようだった。
「覚悟はいいな……テラ」
アキラが片手を前に出し、テラへ向ける。
以前とは違う、低く重い声。
その姿は二十代中頃の青年のように見えるが、瞳には依然と変わらない炎が宿っていた。
身長は185センチほどに伸びており、幼かった顔つきが精悍さを持ち、鋭くテラを睨みつけていた。
「いいよ……来て」
テラは無表情のまま、アキラの殺気を受け止める。
雨に濡れた姿は、彼女の美しさに悲壮感と儚さを添えていた。
まるで、これが自分の終わりだと知っていたかのように。
「やめなさい!アル!お願いだから!」
テラの足元では、黒猫が必死の形相で、主人を庇うように立ちはだかっていた。
そこに、いつもの飄々とした姿は欠片もない。
雨に濡れそぼりながら、乞うように叫び訴える。
「バイバイ……ニクス」
テラは黒猫に別れを告げて、静かに目を閉じた。
その姿に争う気はなく、ただ、これから訪れる死を粛々と受け入れる覚悟だけがあった。
「……亜門」
アキラがそう呟くと、伸ばした手の先に、小さな黒い玉が浮かんだ。
それと共に、黒猫が呻きながら全身の力を吸い取られたように地面へ臥した。
人の爪ほどの大きさの黒玉。
しかし、その存在は世界の理を歪めるほどの重みを持っていた。
黒玉は、ゆっくりとシャボン玉のようにテラへ向かっていく。
「……やめてぇー!」
息も絶え絶えになりながら、テラを守ろうと懸命に腕を伸ばす。
だが非情にも黒玉は、テラへ触れた瞬間。
音も無く彼女をこの世から、消し去った。
何ひとつ、髪の毛一本すら残さず。
まるで最初から存在しなかったかのように。
雨の中、アキラは静かに呟いた。
「……後は頼んだぞ、ニクス」
テラが消えたのを確認し、そばにある洞穴へ入っていく。
その姿は、世界を救った神のものではなく、これから起こる深刻な事態を覚悟した男の背中だった。
誰もいない樹海へ残されたのは、黒猫の泣き叫ぶ声のみ。
その声は、雨音にかき消されることなく、いつまでも哀しみの音色を奏で続けていた。
なぜこのような事態になったのか。
その理由は、アキラが高校二年生へと進級する直前まで遡る。
一条アキラとしての第一子、紫星綾乃との子供が産まれたこと。
それが、すべての始まりだった。
春を迎えるにあたって、アキラの家は住人の数が減っていた。
幸江と蕚は妊娠が判明した後、アキラにテラの存在が胎教に良くないと言われ、実家に戻っていた。
マサトも仕事が忙しくなっていて、事務所代わりのマンションで泊まることが増え、家にいることも少なくなった。
つまり、今いるのは、九星の使徒とホムンクルスの精華、そして沙耶だけだった。
食卓に晩御飯が並び、アキラが食事を始める。
だが、いつもなら真っ先に食べ始めるテラが動かない。
テラは最近、一時間くらいで食事を終わらせるようになっていた。
どうやら、沙耶の負担を考慮しているらしい。
それでも食べる量は常人の十倍だったが。
しかし、今日はいつまでたっても箸を持たず、眼鏡越しにアキラを見据えている。
「なんだよ珍しいな、食べないなら沙耶さんに早く言えよ」
アキラが注意すると、テラが静かに願いを口にした。
「……サヤのおっぱい……飲みたい」
その瞬間、食卓の空気が止まった。
テラが告げた望み、思い返せばその前兆は確かにあった。
実はここ最近、アキラは綾乃が入院している病室へテラと共に出向いていたのだ。
紫星家を解体して、お抱えの医者が郊外へ出てしまったせいで、綾乃は都心から少し離れた病院へ入院していた。
産まれた子を見るため、そして綾乃を労うために、アキラはテラを連れてその病院へ見舞いに通った。
確かにそこで、テラは赤子が綾乃の母乳を飲む姿をじっと見つめていた。
だが、まさか自分が飲みたがるとは思っていなかった。
「はぁ?お前みたいな危険生物に、沙耶さんの母乳なんて飲ませるわけないだろ」
アキラは現実的な意見を告げ、当然のごとく却下する。
「飲む!……絶対」
その声に宿る意思は、鋼のように固かった。
ソファーで黒猫が『アル!私を孕ませなさい!』などと言うのが聞こえるが無視する。
「お前、沙耶さんを殺す気か?乳房ごと心臓まで喰うだろうが」
テラが授乳へ夢中になれば、沙耶が無事で済むはずない。
その許されざる結末を、アキラは断固拒否した。
それでもテラは諦めず、眼鏡の向こうで睨みをきかせてくる。
「飲むったら飲む!」
「僕が沙耶さんを危険に晒すわけないだろ、無理ったら無理だ!」
二人の殺気が膨れ上がり、部屋にいる生き物たちが震えだす。
そこへ沙耶が追加の食事を持ってきて、テーブルに置いた。
「あら?テラ様、食欲ないのですか?」
沙耶は、箸すら持たないテラに気付き、心配そうに顔を覗き込む。
いままでそんなことが一度もなかったので、風邪でも引いたかとテラの前髪を上げておでこに手を当てた。
それを見ていた使徒たちが、一斉に短い悲鳴を上げる。
殺気を放つテラに直接触れるなんて、マグマが噴き出る火山口へ飛び込むよりも危険な行為だとわかっているからだ。
「お熱はないですね……何か食べられそうな物を用意しますか?」
沙耶はテラの頭を撫でて、崩れた前髪を直しながら何事も無いように聞く。
周囲から一斉に深いため息が漏れる中、テラが望みを本人に告げた。
「テラは……サヤのおっぱいが飲みたい」
それを聞いた沙耶は、少し顔を赤らめて言った。
「そ、それは……私が結婚して赤ちゃんが出来た時まで、待って下さいね」
照れながらも了承する沙耶に、アキラが渋い顔を見せた。
「駄目だよ沙耶さん、テラに授乳なんて絶対に危ないから許可できないよ」
険しい顔で断固反対するアキラとは逆に、テラは頬を緩めていた。
「約束!……楽しみ」
可愛らしい顔で笑いながら、胸のつかえが取れたように食事を始める。
「あらあら、急に元気になられて」
微笑ましく笑う沙耶に、アキラが言ってはいけないことを口にした。
「絶対駄目だからな、それに沙耶さんは結婚できないじゃないか」
その瞬間、部屋の空気が凍りつく。
結婚適齢期の女性に、言ってはいけない言葉を吐いたと、アキラ以外の全員が感じていた。
「……アキラ様……ひどいです……」
沙耶の瞳に涙が浮かぶ。
それを見て、アキラは自分の発言が沙耶を傷つけたことを知る。
「違うんだ沙耶さん!僕は説明が下手で……!」
慌てて言い訳をするが、沙耶の涙は零れかけていた。
「アル……サヤを泣かした……ころす」
テラが箸を置き、冷気を放ち始める。
「事態をややこしくするな!お前は黙ってろ!」
人類神の冷や汗。
それは歴史的にも珍しい現象だった。
デリカシーの無さと普段から説明を省く癖が、彼を追い詰め焦らせていた。
溜息を吐きながら、そこへ黒猫が助け舟を出す。
「……ほんとアンタは馬鹿ね……沙耶、アルが言いたかったのは、『アナタに釣り合う男がこの世にいない』って意味よ」
それを聞いて、沙耶の涙が止まる。
「そんな……大げさすぎます……」
買いかぶり過ぎだと首を振る沙耶へ、黒猫は続ける。
「そうでもないわ、テラ様やアルと普通に過ごせる人間なんて、この世にアナタしかいないもの」
「そんなことありませんよ!」
いや、ある。
その場の全員が、心の中でそう思った。
「それに、前にアルが言ってたわ、『沙耶さんの結婚相手には世界一の男じゃないとダメだ』ってね」
「え?アキラ様がそんなことを?」
黒猫のフォローを受けて、アキラが言葉を継いだ。
「そう!僕はそう思ってるんだ!」
真意を説いてくれたとばかりに深く頷く。
「……ごめん沙耶さん……誤解させるようなこと言っちゃって」
真摯に頭を下げるアキラに、沙耶は微笑む。
「そうだったんですね……過分な評価を頂きましてありがとうございます!」
許して貰えたことで、アキラも笑顔を取り戻す。
「でも私は、優しい人であるなら結婚相手として充分です」
沙耶は、ホクロのある目元を拭い、優しく微笑み返す。
「しいて言うなら、結婚してもアキラ様やテラ様の御世話を許してくれる人がいいですね」
ニコニコと告げた条件が高すぎた。
「テラはずっとサヤといる!」
嬉しそうに宣言する龍。
「嬉しいなぁ、結婚しても僕のそばにいてくれるなんて」
喜びを見せる人類神。
この二人の存在を許容できる人間などいるのだろうか?
人間にとって、アキラの存在は眩し過ぎるし、テラの存在は恐ろしすぎる。
それを考えると、沙耶の結婚はかなり難航するだろう。
使徒達は、彼女の将来を憂いた。
「……いっそのこと、本当にアルと結婚すればいいじゃない」
黒猫が、以前アキラが口にした言葉を伝える。
「実際そうすれば、すべて上手く回ると思うのよね」
それに対し、アキラは即答した。
「僕は沙耶さんさえ良ければ結婚するよ」
それで彼女が喜ぶならばと。
だが、アキラの言葉に沙耶は眉を寄せる。
「アキラ様……お気持ちは嬉しいですが、そういったことを軽々しく言ってはいけません!」
人差し指を立てて、叱るように言った。
「それに結婚は、本当に好きになった人と、したいと思ってするものです!」
彼女は結婚に夢を見ているのだろう。
だが、きっとそれが普通なのだ。
「本当に好きなんだけどな」
あまりピンときていないような表情で首を傾げるアキラを見て、沙耶は優しく微笑む。
「たとえば……綺麗なお花が手元にあって、それをあげたいと最初に思い浮かぶ相手とかです」
普通の愛情表現。
だけど、とても人間らしいやりとり。
「そっか、なんだか難しいんだね」
それがアキラにはわからない。
彼が最初に花を贈りたいと思う相手は、全人類だ。
誰かを特別に思うことはあっても、それで愛情の量は変わらない。
それがたとえ、会った事のない他人であっても、恋人であっても、娘であっても。
人類そのものを愛しているから。
尽くしてくれたことに褒美を与える事はある。
覚悟を見せた相手に、祝福を注ぐこともある。
だが、自らの中に湧いた自然の感情に任せ、想い人に花を贈るということは出来ない。
人の感情には気付けるが、人の気持ちには寄り添えない。
それは、百万年で染みついた神の習性だった。
「確かに、アキラ様にはまだ難しいかもしれませんね」
アキラの答えを微笑ましく思いながら、沙耶は言葉を続けた。
「それに、もっと大人にならないと、結婚なんて出来ませんよ!」
少なくても今のままでは早すぎると教える。
「でも、アキラ様が大人になられたら、きっと世界一素敵な男性になると思います!」
自分より少しだけ背の低い少年へ、年上からのエールを送った。
「わかったよ沙耶さん、僕、がんばってみるね!」
真剣な顔で答えるアキラに、沙耶は喜びを見せた。
「応援してます!ではデザートをお持ちしましょう!」
軽い足取りで、嬉しそうに厨房へ戻る沙耶をアキラは見つめる。
彼女は気付かなかった、その時、彼の瞳に炎が宿っていたことを——。
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