彼女は白い部屋にいた
拓人と文翔が屋敷を飛び出してから、まだ数十秒も経っていない広間。
応接間には、床が砕けた際の余波が残り、舞い上がった埃が空気を濁らせていた。
エレノアは椅子に深く腰を預け直し、ひとつ息を吐くと、静かに告げる。
「……ステイツに連絡しな」
執事は無言で一礼し、壁際の古い電話機へ向かう。
だが、その電話は見た目どおりの骨董品ではない。
受話器を取ると、回線は自動的に暗号化され、複数の衛星を経由して、CIA本部の専用回線へと繋がる。
「こちらブラックウッド、コードA-01。緊急事案を報告します」
受話器の向こうで、 低い男の声が応じた。
『内容を』
「特殊能力者が、CIAの殲滅を宣言しました。脅威レベルはSSを想定」
核戦争がSSSと考えれば、人間に対しては最大限の警戒だ。
一瞬の沈黙。
だが、それは驚きではない。
状況を瞬時に計算し、最適解を選ぶための時間だった。
『生体情報を送れ』
執事は壁の端末に触れ、拓人と文翔が屋敷に来てからの情報を全て送る。
『確認した。対象は二名、現在逃走中だな』
「はい、屋敷から市街地へ」
『了解——“ハウンド”と共に“ネメシス”を向かわせる』
その名を聞き、執事はわずかに目を細めて頷いた。
ハウンドとネメシス。
CIA内部でも存在しないことになっている、対超常戦闘用の非公開部隊。
エレノアが自ら構想し、設立させた、アメリカの切り札。
『随時連絡を』
「承知しました」
通話が切れる。
エレノアは、サファイアブルーの瞳を細め、口元だけで笑った。
「……CIAを潰す、ねぇ」
その声には、怒りも焦りもない。
あるのはただ、状況を愉しむ支配者の余裕だけ。
エレノアは指を鳴らす。
「裏門のカメラ映像、全部回しな……あの小僧の姿を見ておきたい」
執事が無言で頷き、複数のモニターが起動する。
そこには、夜の街へと逃げ込む拓人と文翔の姿が映っていた。
エレノアは獰猛に笑う。
「さぁ……アタイの最高傑作、久しぶりの出番だよ」
その瞬間、ワシントンD.C.の複数の地点で、黒いSUVが一斉にエンジンをかけた。
部隊が動き出したのだ。
エンジンの低い唸りは、まるで獲物を定めた猟犬のように、夜の街に響き渡っていった。
ワシントンD.C.の街をタクシーが走り抜ける。
拓人は荒い息を整えながら、胸の奥に渦巻く気を必死に鎮めていた。
「悪ぃ……巻き込んだ」
呟いたのは文翔に対する謝罪の言葉。
こんなはずじゃなかった。
もっと単純に、もっと力任せに解決できると思っていた。
自分には、それができるだけの力があると過信したのだ。
「いえ、想定内です」
文翔はその言葉を気にもせず、隣でパソコンを開き、なにやら調べている。
どうやら、事前にこうなることも考えていたらしい。
拓人の脳裏に、フォンリンが覆面越しに語ったあの言葉が蘇る。
『アメリカノCIAニ……ワタシ、追ワレテル』
先日、彼女に思い切って覆面をしている理由を聞いた。
正直、その時は意味がわからなかった。
フォンリンほどの強さがあれば、組織のひとつくらい簡単に潰せると思ったから。
だが、ついさっき命を落としかけたことで、その言葉の重さがようやく理解できた。
世界には、自分を殺し得る相手がいくらでもいることを。
文翔がパソコンから目を離し、こちらに向け静かに言う。
「……安藤君、フォンリンさんがなぜCIAに追われているか、知っていますか?」
「いや……詳しくは聞いてねぇ、ただ、昔なんかあったって……」
文翔は頷き、言葉を続けた。
「彼女は実験体だったんですよ、アメリカの超常戦闘人員研究局“SCPR”の」
その言葉を聞いて、冷や水をぶっかけられた気分になる。
「……は? 実験体って……」
まるで、俺みたいじゃないか。
「正式名称はSupernatural Combat Personnel Research」
「彼女は、アメリカで中国系アメリカ人の両親のもとに生まれましたが、幼い頃に施設へ送られたのです」
タクシーのエンジン音が、妙に遠く聞こえる。
「理由は安藤君と同じです」
「フォンリンさんは、産まれつきチャクラの適性を持っていました」
「そのせいで両親は彼女を持て余し、手放したのです」
「……なん……だと!?」
みたいじゃない、俺とまったく同じ境遇だった。
「アメリカはその力を兵器化しようとしました」
「彼女は十年以上、SCPRで育てられ、戦うためだけの兵器として訓練されたのです」
衝撃の事実に、握られた拳が震える。
「でも、彼女は組織から逃亡しました、劉紅霞に救われて」
「ホンシアが……」
「ええ、ホンシアさんは、中国の要人誘拐の指令を受けたフォンリンさんを撃退し、そのまま弟子として保護したらしいです」
文翔は淡々と語るが、その内容は想像を遥かに超えていた。
「つまりフォンリンさんは、アメリカにとって失った兵器であり、国家の損失であり、回収対象なんです」
「……だから覆面してんのか」
彼女が頑なに覆面を外さない理由。
「組織では死亡扱いになっているらしいので、生存が確認されると拙いのですよ」
「顔を見られれば、衛星で即座に追跡されます」
「彼女の顔は、CIAのデータベースに登録されていますから」
それを知って、思わず胸が締め付けられる。
いつも隠された、フォンリンの憂いを帯びる美しい顔。
それを封印するように巻かれた布は、命を守るための鎖だった。
その重さは、今の平穏な生活を送っている俺には到底想像できない。
文翔は再びパソコンに視線を戻しながら続ける。
「そして……CIAが彼女を追う理由は、もうひとつあります」
「……なんだと?」
「フォンリンさんが生きていることを知ると、ネメシス部隊の最高戦力が動きます」
「最高戦力……?」
「ええ、アメリカが誇る超常戦闘兵器そのもの」
「terrorと呼ばれる人類最大の恐怖へ対抗する為に造られた存在です」
その言葉が落ちた瞬間、タクシーの外を黒いSUVが数台、同じ方向へ走り抜けていった。
それを見て、文翔が静かに言う。
「……特殊部隊が動きましたね」
俺はその言葉が耳に入らず、彼女のことを想っていた。
フォンリンは、ただ強く美しいだけの女じゃないことを知ったから。
両親に捨てられ、国家に人生を奪われ、それでも生き延びた“戦うために作られた少女”。
そして、そんな彼女に惹かれた理由が、少しだけわかった気がした。
「安藤君、後ろにも来ています」
文翔の声に、拓人は振り返る。
先ほど追い抜いていったのと同じ、黒いSUVが三台。
ヘッドライトでこちらを照らし、獲物を追い詰める獣のようにタクシーに追従していた。
「……ありゃなんだ?」
「おそらくハウンド部隊です、人間狩りに特化した連中ですよ」
文翔の声は落ち着いているが、その目は鋭く光っていた。
SUVの一台が、交差点の信号を無視して、横から突っ込んでくる。
「おいおいおいおい!」
俺が叫ぶと同時に、タクシー運転手がハンドルを切った。
「Jesus!! What the hell is going on!?」
黒人運転手の怒鳴り声が車内に響く。
車体が横滑りし、歩道ギリギリでタイヤが悲鳴を上げた。
だが、後ろのSUVは減速しない。
むしろ、獲物を追う獣のように、距離を詰めてくる。
「……安藤君、降りますよ」
「はぁ!?走ってる最中だぞ!」
「このままだと、運転手を巻き込みます」
文翔がドアを不思議な力で開けた瞬間、SUVの屋根から黒い影が一体飛び出した。
おそらくは人間だろう。
しかし、動きが人間のものではない。
四つん這いで車道を走り、こちらに向かってきた。
「……犬かよ!?」
「ハウンドですからね」
文翔が変わらず淡々と言う。
影はタクシーの後部に飛びつき、爪のような手で窓を叩き割ろうとしていた。
「行きます」
「まじか!?」
黒人ドライバーが、なにかスラングを喚き続けている中、二人は車外へ飛び出した——。




