リッツは塩の味がした
朝、西園寺蕚はアキラと一緒に登校していた。
普段は、幸江を交えて三人で登校する。
だが、今日は二人きり。
そのことに深い喜びを感じていた。
幸江は、先日アキラと出かけた日から帰って来ていない。
きっと、今日は一日中ホテルで寝ていることだろう。
疲れ果てた獣が休眠を取るように。
この二日間、アキラと一緒にホテルへ泊まっていたのを知っている。
虫を使って観ていたからだ。
心底、羨ましかった。
彼の愛を全身で受け止め、お互いが貪り合う姿は私の理想ともいえた。
だから、自分もそれを望もうと思っていたのだ。
アキラがプレゼントとくれると言った。
でも、欲しい物なんて彼以外、思いつかない。
学校に着く直前で、耐えきれずに願いを口にしていた。
「あの……厚かましゅうおすけど、うちもアキラ君とお出かけさせてもろても、よろしゅうございますやろか?」
抑えきれない想いが溢れてしまった。
「うん、いいよ、いつどこがいい?」
「……今からでも、よろしゅうおすえ?……ホテルへ行かせてもろても、かまへんどすか?」
肉欲も抑えきれなかった。
ザ・リッツ・カールトン東京。
六本木にある最高級ホテルの53階。
都内の景色を一望できるスイートルームで、二人は向かい合っていた。
「どこかで遊ばなくてもよかったの?」
二人とも私服に着替え、そのままホテルへ直行した。
一秒でも長く彼と繋がっていたい想いが、私を急かしたのだ。
「ええ……うちは、少しでも長うアキラ君と二人きりでおれたら、それで十分どす」
あらゆる手を尽くし、無理矢理取った部屋。
週末は雪乃とのデートがあることを知っていた。
だから今日から二日間で予約は抑えてある。
「そっか、そういうデートもあるんだね」
アキラは雪乃のメッセージを受け取った後、沙耶にデートとは何をするのか聞いていた。
彼女はかなり純朴だ。
その時の答えは、中学生が行うような微笑ましいデートプランを提示していた。
一般常識に欠けているアキラは、困ると沙耶を指針にする。
彼が沙耶に抱いている信頼は厚い。
おそらく人類の中で最も信じているのだろう。
理由はわかっている。
彼を“普通”に導く存在だからだ。
彼女は、私たちでは不可能なことを、自然体でこなせていた。
一緒に暮らしていると、沙耶の異質さに気付く。
彼女は誰に対しても、変わらず寄り添う心を持っている。
私や幸江のような絶大な権力を持った相手であろうと、星を支配するテラのような存在でも。
沙耶は等しく優しさを見せる。
彼女のそばに居ると、なんとなく気持ちが落ち着くのだ。
ある意味それは、アキラの姿を思わせる。
それこそ彼に相応しいのだろう。
家に住まう九星の使徒。
彼らは本来、恐ろしい存在だ。
おそらく、古来より神として人類に畏れられていたのだろう。
その力は、どの使徒だろうとも人を絶滅させるに足りるものだった。
彼ら異形の神々が、沙耶の前では単なるペットと化している。
アストレアやアストラヴィアは言うまでもない。
だが、気難しいアーカイオスも、沙耶の手からレタスを食べてる姿を見かける。
他の人間にはまるで興味を示さないセリグナスも、彼女が近くに来る時だけは水槽の淵まで寄っていく。
ルカリオスは、女とみれば誰にでも尾を振るが、沙耶に対する時だけは妙に大人しい。
あのプライドの高いニクスでさえも、彼女の膝の上で丸まっている姿を見せた。
そして、なによりテラの絶死ともいえる気配を気にしていない。
私や幸江ですら、テラと同じ食卓を囲むことは神経をすり減らす。
テラの食事は、人類にとって死を連想させる行為だった。
その口が開かれる時、生き物は死を悟るのだ。
だから、基本的に私と幸江、そしてマサトはテラと同じテーブルで食事をしない。
気にせず同席できる者は、同じ使徒たちか、かなり無神経な人間だけだろう。
だが、沙耶はテラの食事風景を嬉しそうに見守る。
その姿は、純粋に食べて貰える喜びが伝わっていた。
『ほっぺにごはんついてますよー』
そう言って、テラの顔に付いた米粒を取って、自らの口に運んでいるのを見た時は、一瞬で血の気が引いた。
そのまま手ごと喰われてもおかしくないのだ。
テラの半径一メートルは死地。
容易く人が死ぬ場所。
私では、目を合わせることすら出来ない。
なのに先日、テラの頭を膝にのせて髪を撫でている姿を見た。
おそらく、マリアがアキラにされているのを見て、テラも真似したがったのだろう。
なぜ沙耶はあんなにも無邪気に近寄れるのか。
死を克服した達人の域にある幸江ですら、あの恐怖には抗えないというのに。
「うっちゃん、どうしたの?」
私を気遣う彼の声で我に返る。
いけない、アキラと二人きりだというのに思考へ囚われていた。
「いえ、すんまへん、うち……ちぃと緊張してしもて……」
ある意味本当のことだ。
ついに彼の手で、意志を持って私の体を触って貰える。
独りよがりな行為は、体が満足しても心は満たされない。
長年待ち望んでいた状況に、期待と共に緊張感も覚えていた。
彼に喜んで貰えるだろうか?
あらゆる勉強は惜しまなかった。
だけど実践するのは初めてだ。
すでにこちらの準備は出来ている。
「……いつでも、アキラ君のお心のままに。うちは、どのようになさっても……かまいまへん」
桜色に染まった頬で、彼を受け入れる覚悟を告げた。
たが、返されたのは、死刑宣告にも似た非情な言葉だった。
「それなんだけど、うっちゃんとは子供が出来ないんだよね」
頭が真っ白に染まる。
言われた意味を受け止めきれない。
私とは、出来ない?
行為が?
子供が?
意味がわからなかった。
「な……なぜ……?」
声が枯れている。
絞り出すだけで精一杯だった。
夢が叶う直前で、それを奪われたのは二度目。
あの時と同じように、立っていられないほどの動揺で体勢を崩してしまう。
それをアキラが支えてくれた。
「チトと魂が混ざっている状態が想定外だった」
優しいぬくもりに包まれる。
そのあたたかさで、初めて出会った時を思い出した。
「二人の魂は強さが違うから、受精時の調整が出来ないことに気付いたんだ」
あれからずっと、この日を待ち望んでいた。
「だから、うっちゃんとは子供が作れない」
体と心、そして魂で繋がることを。
「それでもいいなら、僕はかまわないけど」
そして何より、私という華を咲かせてくれた彼の役に立てない。
子供を産めないということは、彼を支えることに、生涯を捧げると決めた覚悟が果たせない。
それは彼と繋がることよりも大切な、私の全て。
「……どないか……どないかならしまへんやろか……?」
諦めきれない。
「……うちは、どんなことでも致します!痛うても、苦うても……全部、受け止めますさかい!」
彼の望みを叶えられないなら。
「……どうか、うちを……お役に立たせておくれやす……」
この名の意味も、生まれてきた意味さえも失ってしまう。
彼の腕の中で神に乞うように、私は泣きながら縋りついていた——。




