その風は、彼女の髪を靡かせた
マリアは、ホテルの一室で新しい宗教団体の草案を書きまとめていた。
過去に幾度も行ってきた作業。
組織の設立は初めの一歩が肝心であることを、誰よりも熟知している。
その為に、寝る間も惜しみ、思考を巡らせていた。
せっかくなので、これはタクトへのサプライズとしよう。
彼奴の周到なる準備には、こちらが驚かされたのだ。
ならば意趣返しとして、教団がある程度形になってから渡し、存分に驚かせてやるのも一興。
タクトが目を輝かせ、浮かれ喜ぶ姿が容易に想像できる。
通常なら何年もかかるが、今回は半年もあれば十分だろう。
彼奴はそれほどまでに、入念な下準備を整えておった。
集団でなければ生きられぬ弱き者、思考能力の劣る者、愛情に飢えた者、強さへの渇望が強い者。
そうした者たちを積極的に集め従え、上に有能な者を据え、自身はカリスマを示すのみで余計な口出しをしない。
見事ではないか。
組織の実態を知った時は、思わず唸ってしまったわ。
バチカンでの一週間。
妾はタクトに宗教のいろはと、人を導く術を教え説いた。
しかし、教える前からすでに教祖としての資質を開花させておったとは。
彼奴め、三味線でも弾いておったか。
どこまでも愛い奴よ。
この妾の目すら欺くとはな。
だが、御父様の話をしたときの、輝きを映す瞳は嘘ではない。
妾が真の歴史である人類神の偉業を語る姿。
それを見つめる熱視線は、思わず頬が熱くなるほどであった。
あれほど優秀な生徒は滅多におらぬ。
そして、本気で御父様に並ぼうとする者など、まさに皆無。
教師冥利に尽きる人材だ。
非常に好ましい。
もちろん、師としてだがな。
彼奴が、妾と結婚したいという気持ちを持っているのは知っておる。
叶わぬと知りながら、恋心を抱いていることも。
出会った最初に言っておった。
結婚を望んでおると。
それは仕方のないことだ。
我が身から溢れ出る神々しい輝きは、人の心を容易く焼いてしまう。
一目見ただけで、平伏しその命すら捧げる者も少なくはない。
男にとって、妾は魅力が在り過ぎる。
しかし、すでに御父様へ生涯を捧げると決めておる。
それに答えてはやれんのだ。
……だが、もし仮に——あくまで“叶えたら”の話だ。
本当に御父様と並ぶ存在と成れたら、テラを倒すことが出来たならだ。
その想い、受け容れてやることも考えねばならぬな。
妾に向かってきたあの姿。
絶望の中、決して諦めず何度も立ち上がり続けたタクトは、まさに黄金の精神を持っておった。
御父様へ進言してくれた優しさ。
それは妾を救ってくれた。
震えながらもテラを打倒すると口にした覚悟。
その心は人類の希望そのもの。
タクトはそれだけの奇跡を起こしていた。
そう考えると妾に相応しい男だと思えてくる。
妾は生まれた時から特別な存在。
選ばれし神の子だ。
同じ時期に生まれた兄弟でさえ、妾を上に置いた。
ゆえに、常に敬われ対等な立場の人間というのはいなかった。
だが、タクトはまるで友人のように接してくる。
命を懸けて戦い、分かり合えたというのもあるのだろう。
しかし、それだけではない。
心が純粋なのだ。
まだ穢れをしらない子供のように。
だからこそ、真っ直ぐに途方もない夢へ向かってゆける。
その姿は、妾の心を波立たせた。
タクトは、その澄んだ瞳で妾を見詰める。
神の子でも、世界を統べる宗教団体の頂としてでもなく、マリアという一個人を見てくれている。
それは、妾にとって初めての経験だった。
人をはるかに超えた力を持ち、あらゆる者が平伏し、崇め奉る。
そこに理解は無い。
だが、タクトは同じ目線で妾を見てくれた。
だからこそ、御父様にあのような進言をしてくれたのだろう。
嬉しかった、涙が零れるほどに。
なぜ彼奴が、あれほど純粋に妾と同じ目線を持つのか。
本人から過去の話を直接聞いて、その理由がわかった。
それは、タクトの生まれに由来していた。
一週間、ともに暮らしていた時のこと。
宗教の授業を行っていた折、本に集中していたタクトが不意に妾へ申した。
『マリア、そこにある本も取ってくれるか?』
そのような扱い、受けた事もなかった。
なんと不敬な言葉、考えられぬ暴言だった。
妾を召使いのように動かそうとしたのだ。
深い葛藤の末に本を手渡すと、彼奴は礼を口にした。
『ありがとな』と。
こちらを見もせずに。
どれほどの屈辱か。
この妾が、自ら動き尽くしたのにも関わらず。
許されざる不敬、神の子に対する蛮行。
なのに、心が揺れた。
——喜びに。
最初は、自分に何が起きているのかもわからなかった。
彼奴に対する感謝の気持ちが、それを許しているのかとも思った。
だから、いっそのこと思い切り世話を焼いてみた。
一緒に行動し、隣に座り、寝る間際まで話をした。
彼奴が妾との身分違いを理解し、距離を離してゆくまでは、この新鮮な感覚を味わうのも悪くないと思った。
だが、日に日に仲は深まっていった。
朝が来るのを楽しみにするほどに。
御父様がテラの呪いに蝕まれ、妾へ会いに来られなくなってから五百年。
朝を迎えるのが憂鬱だった。
希望が何も無かったからだ。
御父様から受け賜わった使命を、共に果たす兄弟たちは、櫛の歯が抜けるように死んでいった。
寿命で、戦で、絶望で。
残されたのは御父様の孫やひ孫にあたる三人の従者と、妾を崇める信者のみ。
妾が最も目を掛けたイエスも、志半ばで亡くなった。
心が動くことのない生活。
まるで己が機械にでもなったように。
そんな妾に、再び命を吹き込んでくれたのは御父様と、タクトだった。
『お前って食べ物の好き嫌い結構あるよな』
『空を飛ぶのって俺にも出来るか?』
『ちょっと服買いに行くの付き合ってくれよ』
その気軽な物言いが心地よい。
彼が私を対等に見ている証拠だったから。
タクトの視点は、御父様とテラを見据えている。
ならばそれ以下は同率なのだ。
だから私に対し、萎縮したりもしない。
普通に、平凡に、自分と同じ人として接する。
彼は、産まれる前から親に捨てられていた。
生まれてから捨てられる子は山ほどいるだろう。
しかし、異能により愛を知らずに生を受けた。
何より、意図せず自ら母親を殺しかけていた。
その不幸は筆舌に尽くし難い。
結果、人とまともに接することなく幼少期を過ごしたという。
そのせいで、彼には柱が作られなかったのだろう。
生きる上で必要な芯が。
だが、生まれて初めての愛を御父様によって与えられた。
我ら神の子と同じように。
初めて抱きしめられ、名を与えられ、人として生きる許しを受けた。
まさしく二度目の産声を上げたのだ。
そして、憧れた相手が神だった。
普通ならば両親に持つべき憧憬を、神の手により植え付けられた。
だからこそ純粋に夢へ向かえる。
比類する者のいない、神が柱となったのだから。
確かに彼は私と対等だった。
同じ柱を心に宿している。
いや、目指す先を思えば、私よりも上に向かっている。
長い時間を掛けて空虚に広がった心は、その分、膨大な憧れを宿したのだろうから。
彼の心には風が吹いている。
それは寂しさを伴い、ずっと心を冷やしていた。
だが今は、前へ進む力に変えて吹き続ける。
御父様の熱を得て、竜巻の如く凄まじい勢いを持ちながら。
その熱い風が余波となり、あたたかく私を包んでいた。
私も一人の少女であることを思い出させてくれるように。
『その髪……綺麗だな』
何気なく言われた言葉が頭に残っている。
もう何度思い返したかわからない。
あの時、私はどんな表情を浮かべていたのだろう。
でも、それに気付くのはもっと先でいい。
彼を辿り着かせたら、もう一度言ってもらおう。
その時は——。




