その紅葉は赤く染まっていた
母の病室に見舞いをしてから一週間ほど経った頃、アキラは引っ越しを済ませていた。
父親が手を回し、早急に新しく住む場所と引っ越しを手配してくれたのだ。
場所は、都内の一条が保有している高級マンションの一室。
そこで、四人と一匹は暮らし始めていた。
「なあ、それ、そんなに面白いのか?」
アキラは、テラに問いかける。
「……アンパンモン……すき」
テラはソファーに座り、TVを見つめながら微動だにしない。
その姿は真剣そのもの。
左手にはアンパンモンのぬいぐるみが握られていた。
切っ掛けは、ソーマの湯でテラと再会したときの会話だった。
アキラがふと口にした言葉、それを思い出したように、テラが『アンパンモンとはなんだ?』と沙耶に尋ねた。
国民的アニメ『アンパンモン』。
パンで出来ている自らの体を、お腹を空かしてる老若男女に分け与えるヒーロー。
子供に絶大な人気を誇るそのアニメをテラは知らなかった。
沙耶が気を利かせ、アンパンモンのDVDを見せてやると、テラはすっかりそれにハマったのだ。
今は四六時中、ひたすらアニメを見続けている。
とはいえ朝昼晩の食事は、必ず摂取しているのだが。
「おとなしくしてくれるなら助かるよ」
アキラは軽く伸びをすると、そう言ってお茶を飲む。
ここ一週間、引っ越しの準備や移動、伸びっぱなしの髪を切りに行ったり、母親への見舞いなどでかなり忙しかった。
新居での荷ほどきや買い物などを済ませ、ようやく生活が落ち着いたことによる余裕が出てきた。
あれから何度か母を見舞いに行き、お手製のお茶を差し入れたことで、遙は目を見張るほどの回復を見せていた。
この調子でいけば、すぐにでも退院できるとの事で医者も大層驚いているらしい。
昨日、普通に会話が出来るようになった母から、アキラはひとつ頼まれごとをされていた。
『貴方の弟と妹に会って安心させてあげて欲しい』と。
もともと落ち着いたら、一度会いに行くつもりでいた。
だから昨夜、父に実家へ顔を出していいかと電話で確認し了承を得た。
アキラの記憶の中の二人は、自分によく懐き慕ってくれていた。
最後に会った記憶から五年、弟のマサトは十五歳、妹のサチカは十四歳になっているはずだ。
廃嫡された身とはいえ、心配を掛けたであろう二人へ、元気になった姿を見せることに躊躇いは無い。
今日は休日で、二人とも家にいると父から聞いていたので、沙耶さんに一言告げてから実家へ向かった。
マンションから実家までは、歩いて十五分ほどで着いた。
父は何らかの考えのもと、実家の近くにアキラの住居を選んだのだろう。
高級住宅が並ぶ一等地、その中でも、一際目立つ大きな屋敷。
それが一条の本宅だった。
呼び鈴を鳴らし少し待つと、厳かに門が開かれる。
玄関までゆっくりと歩いて行くと、見知った使用人の男が扉を開けてくれた。
アキラが微笑みながら使用人に声を掛ける。
「お久しぶりです、園田さん」
すると、使用人は感極まったように、震えた声で答えた。
「おかえりなさいませ、アキラ様……」
その瞳は揺れていた。
きっとこれでも感情を抑えてくれているのだ。
玄関に入ると、そこには十人ほどの使用人が並び、アキラを出迎えていた。
そのすべてが子供の頃から世話になった者たちだった。
アキラはゆっくりと皆を見渡し、優しく微笑む。
「みなさん、お久しぶりです」
その言葉が、張り詰めた空気を一瞬にして温もりへと変える。
笑顔をみせる者、肩を震わせる者、今にも駆け寄ろうとする者、そのすべてが一斉に答えた。
「「おかえりなさいませ!アキラ様!」」
皆が、心からアキラの帰りを喜んでいた。
「——ただいま」
嗚咽の漏れる音がした。
気付けば、使用人たちは皆、涙を流していた。
もう戻ることが無いと心のどこかで諦めていたアキラが、こうしてまた元気な姿で帰ってきてくれた。
その奇跡に、皆が打ち震えていた。
「みんな、心配かけてごめんね」
その言葉を受けて、それぞれがアキラへ声を掛け、その場は歓迎の空気に包まれた。
皆が落ち着いてきた頃合いを見て、アキラは聞く。
「それで、二人はいる?」
「はい、奥でお待ちです」
使用人の一人が答える。
「わかった、ありがとう」
そう言って、勝手知ったる我が家を進む。
広い屋敷の中をしばらく歩き、奥の部屋の扉を開けると、そこには確かに二人が待っていた。
意識を無くしてから五年ぶりに再会した二人の姿に、時の流れの重みを感じる。
弟のマサトは十五歳、昔から引っ込み思案で、あまり表に出たがらない性格だった。
成長したその顔は、母親に似て中性的な顔立ちをしている。
髪は黒く、瞳を隠すような長さで、アキラが知らぬ間に眼鏡を掛けていた。
緊張しているのか、少し神経質そうに固い表情をして立っている。
そして、白いワイシャツにスラックスを着た立ち姿は、いつのまにかアキラの身長を越えていた。
妹のサチカは十四歳、勝ち気でお転婆な少女だったが、自分の後をよく付いて回ってた印象が強い。
少し茶色い髪を後ろでツインテールにし、上品な薄黄色のワンピースを着て椅子に座っていた。
その姿は、美少女といっても誰も反論しないだろう。
父親に似た少し鋭い目が、個性としてより美しさを強調していた。
扉が開き、目の前にあらわれたアキラの姿を目にした瞬間、二人の息が止まる。
マサトの指がピクリと動き、サチカはただ茫然とその存在を見つめていた。
「——お兄様!!」
その沈黙を破ったのは、サチカだった。
椅子が倒れることも気にせず、飛び出すようにアキラへと駆け寄る。
その声には、五年分の想いと渇望が詰まっていた。
アキラの胸に飛び込み、縋り、嗚咽を漏らす。
マサトは立ち尽くしたまま、何も言わず喉を詰まらせ固まっていた。
アキラは、自分の胸で泣きじゃくるサチカの頭をやさしく撫でる。
「ただいま」
その言葉に込められた優しい響きは、五年という歳月を埋めるようだった。
サチカの指が、アキラの服を強く掴む。
声にならない想いが、その震えから伝わる。
マサトは、じっとその光景を見つめたまま、微かに口元を動かす。
「……おかえりなさい、兄さん……本当に戻ってきたんですね」
それは不器用な笑顔とともに紡がれた。
サチカは涙を拭うことなく、その指の震えは今も止まらない。
アキラは、ゆっくりとその頭を撫でる。
「会いたかったよ」
その言葉に、サチカは小さく頷く。
マサトは、ようやく椅子に腰を下ろした。
「五年……長かったです」
その声には、言葉以上の重みがあった。
アキラは、静かに微笑む。
「心配かけてごめん」
サチカの肩は、未だに小さく震えていた。
それでも、アキラの温もりを感じながら、ゆっくりと涙を拭う。
マサトは、深く息を吐き、静かに言葉を紡ぐ。
「兄さん、本当に……大丈夫なんですね」
その瞳には、確認と安堵が入り混じっていた。
アキラは、ゆっくりと微笑む。
「うん、大丈夫だよ」
短く、しかし揺るぎない言葉だった。
それを聞き、サチカが顔を上げた。
「……もう……ずっとここにいてくれるのですよね?」
その瞳には、喜びと期待が滲んでいた。
アキラは、それをじっと見つめ、優しく答えた。
「それは無理かな」
それを聞いたサチカの瞳に、涙とは異なる光が宿った瞬間。
パァンッ!
音が鋭く空気を裂いた。
アキラの頬が赤く染まり、サチカの右手が震えていた。
「サチカ!やめろ!」
慌ててマサトが駆け寄りその腕を掴む。
「なんで!ずっとここにいると、いなくならないと言ってくださらないのですか!」
その声には悲痛さと怒り、そして絶望が入り混じっていた。
「私が……私とお母様が!どんな思いでこの五年間過ごしていたと——」
マサトの腕を振り解いて、感情を強くぶつけるサチカへ、それでも伝える。
「ごめん、だけど僕はここにはいられない」
「廃嫡の件でしたら、お父様がきっと撤回してくれます!」
必死に訴えるその言葉に、マサトは思う所があり苦く笑う。
アキラは諭すように告げた。
「僕はこれから普通に生きていこうと決めたから、一条には自分の意思で戻らないんだ」
その有り得ない言葉に、サチカの瞳が大きく見開かれる。
「……普通?普通ってなんですか?お兄様が普通な訳ないじゃないですか!アナタは特別な人間です!!」
サチカにとって“普通”という言葉は、兄を侮辱するに等しかった。
サチカはアキラを神聖視していた。
兄より優れた人間は見たことが無かったからだ。
優秀な周りの大人も、それこそ父でさえ、アキラの前では霞んで見えた。
そんな兄が普通に生きるなど、サチカには到底受け入れられない未来だった。
「サチカ!兄さんは病み上がりなんだ!もうやめろ!」
マサトが二人の間に割って入る。
そして、アキラの右目の布に目線を送る。
サチカはそれに気付き、アキラの現状を思い出し、唇を噛みしめながら下を向く。
「兄さん……とりあえず今日は帰ってください」
「そうだね、また今度ゆっくり会おう」
「……ええ、会えて嬉しかったです」
そう言って、右手を差し出すマサト。
その手をやさしく握り返してアキラは部屋を出る。
その背中を、サチカは言葉もなく、痛ましいほどに揺れる瞳で見送った。
マサトの表情にも、曇りが差していた。
二人の胸には、再会の喜びではなく、離別の不安がシコリのように残った——。




