夢追い人は、神に抱かれる
アキラが美藤賢治に、道の続きを指し示しめす。
その啓示に、彼は座ったまま震えていた。
「おい、ここ違うぞ」
その静寂を破ったのは、女性の声で出された荒っぽい言葉。
賢治は驚き、反射的に振り向いた。
「……な、なんだ貴様は、愚能は黙っていろ!今それどころでは……」
アキラの言葉を聞いて、人生で二番目の衝撃を受けていた。
そのことで有象無象に構う余裕はなかった。
「黙るのはオマエの方だ、ジジイ」
その声音は美しいのに、言葉は刃物のように鋭い。
「この式、NRXN1 の発現量を上げると GABA の抑制回路が壊れるという話だろ?」
女は床から拾った論文を、ぱらぱらとめくって目を通していた。
「“GABA 作動性ニューロンの抑制回路は、NRXN1 の発現増加に伴い過剰同期を起こす”って書いてあるが——」
指でその行を軽く叩いた。
「同期じゃなくて脱同期だろ、勘違いしてるぞ」
「抑制回路が同期したら、むしろノイズは減るだろうが、ド低脳が」
賢治息を呑んだ。
「……な、なぜそれがわかる……?確かにその通りで、その修正案は、まだ誰にも……」
「は?これだけ浮いてれば誰でも気付くだろ」
女は鼻で笑い、さらに続けた。
「それに、さっきのメチル化パターンの継承率が72%って数字だが」
「どうせ“CpG アイランドの平均メチル化率 × 世代間維持率”を単純掛けしただけだろ?」
その通りの指摘を受けて、唇が震えた。
「……なぜ……それを……?」
「その式、オレが施設にいた時も不確定過ぎると言っただろうが」
施設にいたとき?
確かにその式は、施設の被検体で最も優秀な頭脳を持つ少年と意見を交わした際、不完全だと指摘された。
だが、彼とは姿かたちがあまりにも違い過ぎる。
なにより性別が違った。
先ほどから、あまりにも現実感のないことが立て続けに起こっている。
そのせいで思考が全くまとまらない。
女は立ち上がり、論文を机に放り投げて腕を組んだ。
「ジジイ、確かにお前の研究の方向性は悪くない」
そのまま賢治を真っ直ぐに見下ろす。
「だがな、アキラの言うように、理想を低く設定している時点で全てが間違ってる」
それを聞いてアキラが微笑む。
「哲也は、僕と同じ考えを持ってくれています」
「限界など定めずにどこまでも進む、それを人類の在り方としたいのです」
哲也と呼ばれた女が深く頷いた。
その名は、確かにあの時の天才少年のものだった。
当時、自分の築いてきた知識を深いところまで理解し、それを上回るほどの才を見せた人物だ。
人の可能性を感じさせてくれた輝きは、忘れようもない。
「オレも、アキラの進む先に自分の理想がある、だから協力を惜しむつもりはない」
哲也が、アキラと共に夢を追うと語る。
その瞳は力強い決意が宿っていた。
——羨ましい。
心の声が漏れそうになった。
人を羨んだことなどない人生だった。
天才と呼ばれ続け、他者を愚能と見下し生きてきた。
だが、目の前にいるのは、人の進化を本気で進めようとしている二人の若き天才。
その才能は、自分を超えているようだった。
自分にもそんな仲間がいたら——そう思わずにはいられない。
ずっと一人で先頭を駆けていた。
後を追ってくる愚能など振り返りもしなかった。
それでも、寂しさなんて欠片も感じたことはない。
叶える夢が先に見えていたからだ。
しかし、全てを剝ぎ取られた今、初めて孤独というものを知った。
研究も出来ず、愚能と蔑んでいた未熟者たちに蔑まれ、どこにも居場所を見つけられない現実。
この狭いアパートで、目的も果たせず朽ち逝くのだと諦めていた。
だからこそ、彼らの姿が眩しくて、思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
だが、現実的に考えると、研究所の再建はどう考えても不可能だ。
あれほど世間に叩かれて、虐待施設というレッテルを貼られてしまった。
仮に再建したとしても、そこに美藤賢治という存在を加えるわけにはいかない。
それは、彼らの輝かしい道を閉ざす行為だ。
賢治は、生まれて初めて、他の研究者を思いやっていた。
彼らの素晴らしい才能を、自分のせいで潰すわけにはいかないと。
人を進めることが出来るなら、それが自分でなくてもいい。
「……手伝いは……できない」
喉の奥から振り絞るように声を出した。
本当は、彼らの手を取りたかった。
その光り輝く才能と競い合い、共に夢へ向かい走り続けたい。
残り少ない人生を、彼らとの研究に注ぎ込めたなら、きっと悔いなく死ねると思った。
光が差した未来。
それを諦めてでも、差し出された手を振り払わなければいけない。
「……帰れ!もう用はない!」
これ以上、彼らと話していたら、未練が強くなるだけだ。
自分と同じ志を持ち、自分よりも優秀な人間ともっと議論を交わしたい。
そんな想いが溢れてきてしまう。
だからこそ、一刻も早く出て行って貰いたかった。
「早く出てけぇ!」
扉を指差し、退出しろと怒鳴りつけた。
「……オイ、美籐」
拓人が立ち上がって賢治を見下ろす。
いっそこの化け物に、今すぐ殺されてしまった方が楽かもしれないとすら思った。
「なんだ!早く帰れと言っているだろう!」
彼らが帰ってしまえば、待っているのはより深くなった孤独と絶望だ。
手を取らなかったことを後悔するのは目に見えている。
それでも、人の進化を研究することに一生を懸けた研究者としての最後の矜持が、共に進むことを許さない。
彼らの足を引っ張りたくなかった。
「……腕、折って悪かったな」
意味がすぐには理解できず、賢治は瞬きをした。
「……ここに来る前、アキラたちと昔の話をした」
あの化け物が、謝罪を口にしたのだ。
「……俺は、あそこの生活が辛かった、だけど、あの施設に拾って貰えなかったら……きっと死んでた」
だが、研究のために、虐待のような実験を指示していたのは間違いなく自分だ。
「……少し前なら、その方が良かったとすら思っていたかもしれない」
人を進めるための犠牲であり、必要な行為だと信じて。
「……でも今は、生きていて良かったと思えてる」
名前を与えたのだって、最重要被検体だからだった。
「……俺にも目的が出来て、そのために進もうと決めた」
データのみを見て、顔さえまともに覚えていなかった。
「……だからよ、俺みたいに親に見放された子供を、また救ってやってくれねぇか?」
彼らを救う気なんて欠片もなかった、実験体として異能を持つ子供を集めていただけだ。
「……頼む」
下げられた頭を眺めていた。
実験体に感謝される日が来るなど、考えたこともなかった。
「オレにとって、あそこは居心地良かったぜ、なんせ三食喰えて研究も好きに出来たからな」
人として見ていなかった、ただ大事なサンプルとして扱っていた。
私財を投じて彼らの我儘を聞いていたのも、全ては研究のため。
そこに情などなかったはずだ。
「それに、ジジイも本当は手伝いたいんだろ?俺らに論文を駄目出しされて、泣いて悔しがるんだからな」
言われて初めて気付いた。
いつのまにか、自分が涙を流していたことに。
涙の流し方すら忘れていた。
なぜ流れているのかすらわからない。
最後に泣いたのなんて、それこそあの光景を見た時以来か。
「大蔵先輩や北条さんとの間で話は付いています、研究所は必ず再開させます」
「だから、貴方のような優しい人に手伝って貰いたいのです」
優しい?自分が?
「……いや、アキラ、優しいってのは無いと思うぞ」
「そうだな、そこそこ優秀だが、優しいは無い」
アキラの言葉を聞いて、元被検体の二人が眉を寄せて否定した。
こいつらの言っていることは正しい。
何を勘違いしてるんだ?
「そんなことないよ、これを見て」
アキラが拾い上げたのは、床に散らばった研究所時代のデータ。
美藤が注釈を書き込み、試行錯誤を重ねていた“過去の自分”の痕跡だ。
「睡眠を取らせない状況下での、激しい運動による脳の神経反応のテストに“七十二時間”と注釈が書いてあるけど」
アキラが紙をめくりながら、読み上げる。
「……それ、俺がやらされたやつだ」
拓人が、遠い目をしながら過去を思い出していた。
「僕なら、チャクラを活性化させるために、二百時間は起きていてもらうよ」
「アキラ、それ死ぬぞ」
哲也が引きつった顔でつっこむ。
「それにこれ“足の負傷により、やむなく中止”と書いてあります」
「……寝不足でフラフラの中、何十キロも走らされたから足首を捻ったんだよ」
辛かったなぁ、と小さく呟く。
「僕なら、自力で治癒できるようになるまで走らせます」
「この値が出せる人なら、そこまで追い込めば、必ず出来るようになりますから」
アキラは微笑む。
その笑顔は優しいのに、言っている内容は完全に狂っていた。
それを聞いた元被験者たちが、怪訝な顔でヒソヒソと何かを話している。
「人の進みを求めながらも、人への優しさを忘れない」
「美藤さんは、本当に素晴らしい研究者だと思いますよ」
瞳を輝かせながらこちらを見つめるアキラに、恐怖を覚えた。
自分は、研究のためなら犠牲は厭わないと思っていた。
だが彼は、進化をさせるためならば、生死は問わないと言っている。
その価値観は、自分とは次元が違う。
本気で人類を進めるやり方。
被験者の死をも必要だと受け入れる、狂気の研究者。
アキラは、確実に自分を超えた存在だった。
「そんなやり方……許されるはずが無い……」
まさか自分が、過激な実験を非難する日が来るとは思ってもみなかった。
「だから、優しい貴方が必要なんですよ」
「僕は加減がわからないから」
その瞳は、どこまでも続く宇宙の広がりを見せた。
思わずそれに魅入ってしまう。
彼は何者なんだ?
わからない、何も。
ただ、自分の尺度では到底測れない人間だということだけは分かった。
「それに新しい所長には、僕が最も信頼する、世界一優しい人にお願いする予定です」
「美藤さんには、彼女のサポートと現場の指揮を取っていただけたらと思っています」
代表ではない。
ならば、まだ許されるかもしれない。
無意識にアキラへ手が伸びていた。
彼の見据える人類の未来を、共に見たい。
アキラと歩めれば、自分の夢が必ず叶うと確信してしまった。
震えながら伸ばした手を、優しく握られる。
その温かさは、心の奥まで届いたようで、再び涙が零れた。
「美籐さんの研究は、人が自力で空を飛べるようになることを目指してますね?」
その言葉に、髪が逆立つほど全身に鳥肌が立つ。
「なぜ……わかった……?」
誰にも明かしたことのない自分の夢。
それを、彼に見抜かれていた。
「この部屋の全てが、そう告げています」
人に話せば笑われるのがわかっていた。
だからこそ四十年、誰にも言わずに心の奥底へ秘めていたのだ。
「なんだ、ジジイは飛びたかったのか?結構難しいが、工夫次第でなんとかなりそうだな」
「……自力で飛ぶか、俺にはまだ無理だな」
だが、それを聞いても彼らは笑わなかった。
それどころか、その口振りはいつか出来るという前提で話している。
「ワシは……確かに観たのだ……」
それは遠い昔の記憶。
自分の人生を決める切っ掛けとなった光景。
「四十年ほど前に……人が宇宙に向かって飛んでいく姿を」
まるでロケットのように、手と足から火を噴き出してあっという間に空へ消えて行った。
決して見間違えではない。
隣にいた当時の友人も一緒に見たのだから。
その後、二人で超人の存在を話し合った。
友人は体を鍛え始め、自分は人体の勉強を始めた。
どうすれば、人が飛べるようになるのかを知るために。
「ああ、それ僕ですね」
アキラが髪を掻き上げて、何でもないことのように言った。
「………………え?」
まともに言葉が出てこない。
「四十年前、僕は太陽に向かい飛び立ったんですよ」
「おそらく、美籐さんはそれを観ていたのでしょう」
語られた言葉に理解が追いつかない。
ただひたすらに茫然としてしまった。
「太陽へ何しに行ったんだよ?」
哲也が当たり前のように、その話を受け入れていた。
「……俺がマリアから色々聞いたから、あとで話してやるよ」
拓人は、他にも何か知っていると口にした。
「本当なのか……?あれは……君だというのか……?」
「ええ、間違いないでしょう、体験してみますか?」
繋いだ手が引かれた。
夢の中にいるように、足取りがおぼつかない。
そのまま外に連れ出されると、彼はいつのまにか赤いマントを羽織っていた。
そうだ、あの時見た空を飛んでいた人間も、赤い布を纏っていたはずだ。
「それでは行きましょう、目をつぶっていてくださいね」
現実感が消失したままアキラに抱きしめられ、体にマントを掛けられた。
人の体温を感じるなんて、一体いつぶりだろうか。
懐かしさと安心感が、体を包んだ。
凝り固まっていた心が解けていくような感覚。
まるで子供の頃、親に抱きしめてもらったような喜びを感じていた。
そして、言われるままに目をつぶった次の瞬間、空気が爆ぜた。
「ぐぐぐおおおぉぉぉぉぉ!」
夜空に響く雄たけび。
それを見上げる少年と少女。
こうして美藤賢治は、遠い昔に抱いた夢を、確かに叶えたのだ——。




