終わりはないと神は言った
美藤賢治が扉を開けると、目の前には少年の他に二人の人間がいた。
片方は、二十歳くらいに見える派手な顔をした、モデルのような美貌の女。
もう片方は、金髪で長身の痩せた男。
その男の姿を目にした瞬間、賢治は叫び声を上げて扉を勢いよく引いた。
だが、閉めたはずの扉は微動だにせず、痛む右手をさらに痛めるだけとなっていた。
よく見ると、いつのまにか男の手が扉を掴んでおり、そのせいでこちらが全体重を掛けても動かなかった。
それはまるであの時を再現しているようで、賢治の額に脂汗が浮かんできた。
間違いない、美藤拓人だ。
研究所にいた、最重要被検体にして、超危険生物。
この右腕を折り、研究所を破壊し閉鎖へ追い込んだ張本人。
「な、なんで貴様がここにいる!」
あの時、『二度と自分を探すな』と言い残して逃走した被検体。
だが、賢治はそれを守らなかった。
警察の捜査員に、その場で起こったことを洗いざらい話したのだ。
あわよくば、警察が捕まえて収監してくれれば、再び研究できると思ったからだ。
しかし、逮捕されたのは自分の方だった。
十人を超える警備員の被害者が出ていたにもかかわらず、拓人は逮捕を免れた。
結局あの件は、なんらかの爆発による事故として処理されたようだ。
確かに人の成せる状況ではなかった。
武装した警備員を全て叩き伏せ、分厚い鉄筋コンクリートの床や壁を破壊しつくす力なぞ、人間が出来る事ではない。
美藤拓人の目的は、おそらく復讐だろう。
その考えに辿り着いた瞬間、血の気が引いた。
「……ずいぶん痩せたな、別人かと思ったぜ」
低い声で呟かれた言葉に、思わず奴の顔を見上げた。
刑務所での生活は、身体的には随分と健康的なものだった。
しかし、人類最高レベルの知能を持つ人間が、人類最底辺の人間と共に暮らしたのだ。
そのストレスは並大抵のものではなかった。
結果、今の体重は五年前の半分ほどになってしまっていた。
「何しに来た!」
扉を閉めるのを諦めて、鋭く睨みつける。
最悪、大声で叫べば周囲の人間が警察くらい呼んでくれるだろう。
だが、その間に殺される可能性の方が高いこともわかっていた。
ならば下手に命乞いなどせずに、堂々としていた方がいい。
命乞いが無意味なのは、前回で理解していた。
「……俺が会いたくて来たんじゃない、ダチの付き添いだ」
冷たい視線のまま、ワシを見下ろす拓人。
だが、その瞳はあの時とは違い、空虚なものでは無くなっていた。
「付き添いだと?」
上げた視線を正面へ戻した。
「お騒がせして申し訳ありません、用事があるのは僕の方でして」
柔らかく微笑むのは、先ほど一条アキラと名乗った少年。
「先ほども言ったように、美藤さんのお力をお借りしたくて来ました」
その目と言葉には、嘘の気配がない。
万を超える人間の、感情や脳の動きを研究してきたワシにはわかる。
この少年は、不自然なほど自然なのだ。
まるで人間味というものが無い。
かといってアンドロイドのような冷たさも無い。
全てを達観しているような、まるで神のような視線だった。
「そう……なのか?」
警戒心は持ったまま、話を聞くべきかしばらく逡巡した。
しかし、こちらに失うものは何もないと考え、結果、部屋へ入れることにした。
散らかり放題の狭い部屋では、四人分の座る場所を確保するのも一苦労だった。
絶対に書類を汚すなと釘を刺し、多少の片付けを手伝わせる。
持て成す気もなかったので、水すら出さずに話を切り出した。
「で……望みはなんだ?」
他の二人は無視し、アキラだけを見据える。
「実は、以前運営されていた研究所を、少し違う形で再開させようと思いまして」
「そのために、美藤さんのお力をお借りしたいのです」
思わず喉が鳴る。
考えてもいなかった話だ。
それこそ自分が望んでいた理想的な職場であり、願望だった。
「馬鹿な……そんなことは有り得ない」
だからこそ嘘を吐いていると思った。
あれほどの事件を起こした施設だ。
再会はもちろん、自分を雇って似たような物を造るなどあるはずがなかった。
「いえ、三年以内に再開予定です、建設予定地となる土地も都内に確保しております」
スマートフォンで地図を開き、都内の一等地を示した。
あまりにも馬鹿げている。
三年程度で再開できると思っていることも、予定地の場所も。
なにより、こんな若造がそれを説明している状況も。
「不可能に決まっておるだろう!馬鹿にするのも大概にしろ!帰れ!」
青筋を立てながら怒鳴り散らした。
少しでも期待した自分が、情けなく思ったからだ。
「いえ、僕は本気です、全ては人を進めるためですから」
——人を進める。
その言葉を聞いて、思わず固まってしまった。
それは自分にとっての全て。
そのために人生を費やした。
幼い頃に見たあの光景が忘れられない。
いつか自分も辿り着きたいと願った夢。
「言うだけなら容易い……貴様にその覚悟があると言うのか?」
子供相手に本気で問いを投げかけるなど、普段の自分なら有り得ないこと。
だが、その言葉だけは聞き流せなかった。
「生涯を懸けて行っています」
返されたのは真摯な言葉。
自分とまったく同じ生き方。
その瞳を見て、心が揺れてしまった。
「……ならば答えてみろ!これを読んで問題点を洗い出せ!」
手元に会った書類から、束になった論文を差し出した。
理解できるはずがない。
世界広しと言えども、答えられる人間なんて片手ほどだろう。
脳科学、分子遺伝学、神経発生学、行動遺伝学が複雑に絡み合ったもの。
専門家でも読み解くだけでも数日かかる代物だった。
アキラはそれを受け取ると、まるで薄い雑誌でもめくるように、ぱらぱらとページを流し読みした。
いや——読み流したのではない。
ページをめくるたび、アキラの瞳孔がわずかに収縮し、視線が物凄い速さで紙面の一点一点を正確に追っている。
たった数十秒ほどで、分厚い論文束を読み終えた。
「理解しました」
その言葉で思わず息を呑んだ。
「ば、馬鹿な……そんな短時間で理解できるわけが……!」
言葉を言い切る前に、アキラは論文の一枚を指で軽く叩いた。
「まず、この仮説ですが“前頭前野の可塑性を高めるために、NRXN1 の発現量を強制的に上げる”という部分」
美藤の眉が跳ね上がる。
「……そこは、この分野でも議論が分かれる箇所だぞ」
「はい、でもここは破綻しています」
アキラは淡々と続けた。
「NRXN1 の発現を上げると、確かにシナプス形成は促進されます」
「ですが、あなたの計算式では GABA 作動性ニューロンの抑制回路が破綻する」
「その結果、前頭前野は“可塑性が上がる”のではなく、ノイズが増えて意思決定能力が低下するはずです」
あまりにも正確な指摘に、思わず喉が鳴る。
「……なぜそれを……?その問題点は、まだ論文として発表されていない……」
「次に、こちら」
アキラはそのまま別のページを開く。
「“異能の遺伝的発現は、エピジェネティックなスイッチによって制御されている”という仮説」
「これは正しいですが、あなたは メチル化パターンの継承率を過大評価している」
「なんだと……!」
「実際には、親から子へ継承されるメチル化パターンは 28〜32%程度」
「あなたの計算式の72%という値は、異能の遺伝を説明するには高すぎます」
痛い所を鋭く突かれてしまった。
異能についてはまだ研究が十分に進んでおらず、海外でも懐疑的な意見が多かった。
だからその数値は、自分が十年以上かけて導き出した仮説だ。
まだ誰にも話していない、机上の計算にすぎない。
「な、なぜ……その数値を知っている……?」
アキラは静かに微笑んだ。
「僕の実体験と過去の研究の結果ですよ」
「そして、誤差を切り捨てる位置が、あなたは常に同じなんですよ」
「だから逆算すれば、あなたの導いた内部値がわかり、その間違いも浮き彫りになる」
美藤の肌が粟立っていた。
「最後に」
アキラは論文束をそっと机に置いた。
「あなたの研究の方向性は正しいです」
「ただし、根本的に人間の限界を決めてしまっている」
「こうなるはずだ、という理想が低いのです」
「……なんだと?」
「僕がやりたいのは、人間の限界を見定める研究ではありません」
アキラの瞳が、美藤の奥底を射抜く。
「人類の可能性を追求し続ける研究です」
美藤は息を呑んだ。
「あなたの論文は、そのための基礎としては十分すぎるほど優秀です」
「だから続きを一緒にやりましょう」
「あなたが人生を懸けて追い求めた進化、その先を」
美藤の体が震えた。
恐怖か、興奮か、絶望か、希望か。
自分でもわからない。
ただひとつだけ確かなのは、この少年は、自分が生涯求め続けた答え以上のものを持っていた——。




