三兆円では足りませんでした
夏休みも中盤を過ぎた頃、一条アキラは生徒会の扉を叩き、大蔵文翔の前に姿を見せた。
メッセージを送り、文翔を学校へ呼び出したのだ。
「三兆円の準備が出来ました」
目の前の男が、微笑みを浮かべながらとんでもないことを口にする。
「一条君、約束を守って頂き、ありがとうございます」
私は嘘偽りのない瞳でこちらを真っ直ぐに見る彼へ、慎重に語りかける。
「三兆円もの大金を用意して下さったとのことですが……」
あくまで余裕は崩さない、たとえ相手が狂人であっても。
「申し訳ありません、今回の話ですが無かった事に出来ませんか?」
契約の白紙を申し出る。
なぜなら前提が変わってしまったからだ。
一条アキラは狂っている。
調査の結果、その確かな情報を手に入れていた。
彼はそれを理由に廃嫡されていたのだ。
「こちらから申し出た条件ですが、少し事情が変わりまして」
異能を持つ知り合いに頼んだせいで、かなりの資金を使ってしまった。
それでも、狂人の妄想へ付き合わずに済んだと思えば安いものだ。
「残念ですが、私の目的には三兆円では届かないことを知ったのです」
私が嘘だと気付けないのも当然だ、本人が嘘だと思っていないのだから。
彼から溢れ出る自信の正体は狂気を土台にしたもの。
それは私にすら見誤らせるほどの揺るぎない姿。
狂人は、時として強烈な魅力を放つ。
心寧や裕子が惹かれたのも、そのせいだろう。
「ですから、せっかく用意して頂いたのに恐縮ですが、ご縁が無かったと思って下さい」
彼の魂が見えない理由も理解できた。
人は、精神が衰弱すると魂の光が弱くなる。
おそらく、一条アキラはその見た目からは想像できないほど壊れ切っているのだろう。
「そうですか、それは残念です」
心から惜しむように眉を寄せる姿にも嘘はない。
きっと彼の妄想の中では、娘というのも存在しているのだ。
「御足労をおかけしました、他に先輩として力になれる時は言って下さいね」
狂人相手に真正面からぶつかってはいけない。
あくまで穏便に済ますのが最善だ。
「ちなみに、いくらくらい足りないのですか?」
ここで金額を出したところで意味はない。
一条家の跡継ぎならば、狂っていても有用な使い道はあったが、身分を失った彼に用はない。
「金額ではないのです、正確に言うと目的に対する足場の準備が整っていなくて」
「一条君のおかげで、いくらお金があっても届かないことに気付きました」
どれほど食い下がられようが、その行為に意味はない。
この無駄な時間に終止符を打とう。
「その目的とはなんでしょうか?」
決して叶えられないと、知らしめる必要があった。
「私の目的は、日本の内閣総理大臣になることです」
その言葉は本当だった。
あまり人に明かしたことは無かったが、彼に少し期待をしてしまった事への戒めとしよう。
普通の手立てでは到底叶えられない望みだ、流石にこれで退いてくれるだろう。
笑うなら笑えばいい。
狂人にどう思われようと痛くも痒くもない。
「なるほど、それは素晴らしい目的ですね」
その瞳は、私の妄言のような話を正面から受け止め、少しも揺らがず信じていた。
——惜しい。
私の言葉を受け、嬉しそうに笑うアキラを見てそう思ってしまった。
もし彼が壊れていなければ、是が非でも協力をお願いしていただろう。
一条アキラを調べた結果、彼の過去の栄光を知った。
昔の彼ならば、私はどんな手を使ってでも手駒にしていたはずだ。
狂っていても失わない魅力、おそらくこれに皆が取り込まれたのだ。
「ならば、それを僕が手助けすると言ったら、大蔵先輩は再び契約をしてくれますか?」
一方的な破棄を気にせず、手を伸ばし続ける姿に、思わず恐れを感じてしまう。
だが、人前で弱い感情を見せるなんて、普通の人間がすることだ。
私はそれほど脆くない。
「……どのような手助けでしょうか?」
狂人に付き合うつもりはないのに、なぜか聞いてしまった。
彼の深い瞳が、こちらを捉えて離さないのだ。
「そうですね、二年以内に総理大臣へなれる道筋を整えましょう」
取り込まれるな。
私はあの施設にいた時から、総理大臣への道を考えていた。
そのため、社会の仕組みを深く学んで過ごした。
わかったことは、才能とコネさえあれば、運や努力、立場などは何とでもなるという事実。
特殊能力研究所、あそこは自分にとって素晴らしい場所だった。
高水準な教育、職員に呼び寄せて貰ったあらゆるコネ、特殊な才能溢れる子供たちという手駒。
それらは、普通に生きていれば手に入らなかっただろう。
モルモットと思っていたのは職員だけだ。
こちらは少しずつ、全てを掌握していったのだ。
あの事故さえなければ、自分の計画はもっと早く進んでいたはずだろう。
それでも、目的の為のロードマップを作り直し、着実に進んでいる自負があった。
結果、最短で二十年は掛かると試算していた。
なのに目の前の男は、それを十分の一で成すと言い放った。
「君は一体何をいっているのかね?国会議員になるためには二十五歳以上でなければならないのだよ」
基本の事からズレている。
やはり狂人の戯言に付き合うのは無駄だ。
「年齢を変えて戸籍を造れば大丈夫ですよ」
澄んだ瞳のまま、何ひとつ悪びれもせず悪事を勧める。
「僕は人のルールを出来るだけ破らないように生きますが、人が人のルールを破るのは必然ですからね」
狂人の理屈がわからない。
一体、彼は何様のつもりだ。
妄想の世界で神にでもなった気でいるのか。
「……そんなこと、出来るわけないだろう」
惑わされるな、気をしっかり持て。
理性が警鐘を鳴らしていた。
「すぐに出来ますよ、実際、何度かやってますし」
相手は壊れている、その世界に付き合ってはいけない。
「それで成れるとでも思っているのか?総理大臣に!」
駄目だ、感情を見せるな。
「成れるでしょうね、そのくらいなら簡単に」
落ち着け、私はいつだって冷静だったじゃないか。
だからここまでやって来られたのだ。
「本気ならば容易いことでしょう?名前を変えることくらいは」
——名前を変える。
自分にとって唯一大切といえるものを。
それを“奴”へ見せつける為に全てを捧げていた。
「…………ふざけるな……それじゃ……意味がねぇんだよ!」
ブレーキが利かない。
「この名を!大蔵文翔を!あの男の前へ叩きつけるために生きるてんだよ!私は!」
気付けば、心からの叫びを教室内へ響き渡らせていた。
「あの男って?」
生まれて初めて他人に明かす、本当の目的。
「元内閣総理大臣、北条敏秀……私の生物学上の……父親だ!」
後に知ることとなる。
誰にも明かした事のない出自、それを明かした相手は、正真正銘、狂った神だった——。




