地球は眠る、いつまでも
アキラは、静かに浴槽へ身を沈めている。
しかし、そこは浴室とは呼べない空間だ。
三十畳ほどの広さがあり、壁には窓が無く、その代わりにいくつもの扉が設置されていた。
その部屋の中央にぽつりと置かれた浴槽。
満たされるのは、白い液体。
それはただの水ではない。
薄暗い部屋の中で淡く光を発しており、とろみをもった質感がある。
天井は高く、岩がまるで大きなツララのように円錐を作り、浴槽に向かい伸びていた。
その先端から、一滴ずつゆっくりと等間隔に水滴が落ちる。
そして、その水滴をアキラは、目を閉じ、口を開けて体内に迎え入れていた。
「——どんな具合?」
黒猫が、バスタブのそばにある椅子の上で身を丸めながら尋ねた。
だが、聞こえた声はどこか気怠げである。
アキラは、ゆっくりと目を開ける。
そして、白く濁った液体の中で、彼は息をひとつ吐いた。
「……もう少しかな」
黒猫は目を細める。
「ふうん……アタシの見立てだと、ニ時間前には回復してるはずなんだけどね」
「いや、まだ治ってない気がする」
そう言って、アキラはまた目を閉じる。
「もう四時間も待ってるんだけど」
「あとちょっとだけ……」
「アンタ、そう言って、前に百年もそこから出てこなかったことあるでしょう?」
その瞳には、呆れの感情が宿っていた。
「そんなこと、あったっけ?」
その時の苦労を思い出し苛立つ黒猫は、耳をピクピクと動かしながら、わずかに尾を揺らす。
「引っ掻くわよ……」
「——わかったよ」
そう言って、ゆっくりと名残惜しそうに湯船から上がる。
別荘から持ってきたタオルで、体を拭きながら思い出す。
「そういや、あの時はタオルが風化して、持ったら砂のように崩れたな」
濡れたタオルを籠に入れて、下着とジャージを手にする。
「覚えてるじゃないの!」
「……思い出したんだよ」
緩慢さを見せながらジャージに袖を通す。
「ニクスは、ソーマ風呂の気持ちよさを知らないからなぁ」
「こんな劇薬、普通は触るだけで死ぬのよ!」
「わかったって、で、アイツはどの部屋にいる?」
服を着たアキラは、濡れた髪を無造作にかき上げる。
途端に、水分は消え去り、髪は一瞬で乾いていた。
「ヒマラヤよ、会いに行くんでしょ?」
黒猫の声には、わずかに探るような響きがあった。
「会いたいわけじゃないんだけどね」
アキラは、諦めに似た調子で答えながら腕時計を付けた。
「あ、そうだ、たぶん必要になる」
アキラはそう言うと、籠に置いたタオルをもう一度取り出し、肩に掛ける。
先ほど体を拭き、濡れていたはずのタオルは、ジャージを湿らすことなくフワリとしていた。
「じゃ、行こうか」
そう声を掛け、部屋の中を見渡す。
いくつも並ぶ扉。
それぞれが違う場所へと繋がっているかのように、静かに佇んでいる。
その中で、彼の視線がある扉で止まった。
その扉には、日本語で『ヒマラヤ』と書いてあった。
そして、ゆっくりとその扉に向かい、静かに開ける。
扉の先には、この部屋とほとんど変わらない造りが広がっていた。
中央に浴槽。
天井は円錐状。
壁には沢山の扉。
それは、まるで先ほどの部屋がそのまま複製されたかのようだった。
ただ一つ、大きく違う点があった。
浴槽の中には、すでに誰かが浸かっている。
バスタブの中に満たされた白い液体が、水滴を受けて波紋を作る。
その波は、その人物の足から広がり、胸に当たって弾かれる。
そしてその胸は、その人物が生きている事を示すように、ゆっくりとわずかに揺れていた。
アキラは浴槽の横まで歩み寄る。
白い液体が彼の姿を朧げに映した。
アキラは、バスタブの中の人物に向かい口を開く。
「おい——起きろ」
その声は、低く、ゆっくりと響いた。
だが、浴槽の中の人物は、反応しない。
ただ、わずかに胸を動かしながら、目を閉じ続ける。
静寂が張り詰めた。
「起きろよ、テラ」
『テラ』と呼ばれた人物は、薄く目を開け横目でアキラに視線を送った。
それは、夢の続きを惜しむかのような瞳だった。
そして、呟く。
「あとちょっとだけ……」
その反応に、アキラは一瞬目を細める。
「ニクス、引っ掻け」
アキラの命令に、黒猫は顔を背けながら答えた。
「出来るわけないでしょ……」
黒猫のその声は恐れを含むものだった。
そして、浴槽の中の人物が、ゆっくりと目を開ける。
まどろみの奥から抜け出すように、瞳がわずかに光を宿す。
「ニクス……?来てるの……?」
テラの声は、親しい者を探す響きを持っていた。
その一言が、空間に静かな緊張を生む。
「テラ様、ニクスはここに」
黒猫は、恭しく首を垂れた。
その姿には、先ほどの飄々とした態度はない。
それはまるで、儀式のような緊張感を纏っていた。
そして、テラはゆっくりと浴槽から身を起こした。
白い液体が全身から滑り落ちる。
そのまま浴槽の淵に手をかけ、床に降りた。
その度に、滴る水が体を伝う。
テラは、そのまま一糸纏わぬ姿で、アキラの前に立った。
その姿は、まるで神話から抜け出したかのような美しさを持っていた。
アキラと、ほとんど同じ高さのその体躯は、静かで洗練された気配を漂わせている。
テラの外見は、まるで深海の静謐をそのまま映したような印象を持つ。
暗い青の髪は、ゆるやかに波打ちながら腰まで流れ、微かな光を受けて波紋のような艶を浮かべる。
それはまるで、夜に月の光を浴びて瞬く海のようだった。
肌は青白く、淡く透き通るような質感を持つ。
薄暗い部屋の明かりを浴びて、薄く光を放っていた。
最も印象的なのは、金色の瞳。
それはただの色ではなく、まるで内側から輝きを放っているかのようだった。
誰にも揺るがされることのない眼差し。
その確固たる視線は、彼女の存在そのものを象徴していた。
年齢は十四歳ほどだろうか。
幼さと成熟の狭間にいるのを感じさせる。
彼女が立っているだけで、周囲の空気がわずかに揺れるような錯覚を覚えた。
その姿はただ美しいだけではない、どこか、世界の理から外れたような神秘性を帯びている。
アキラとテラ、二人の視線が交わり、息がかかるほどに近づいていく。
互いの唇が触れるかと思えるほど近づいた刹那、空気がわずかに震えた。
テラの瞳孔が縦に細く伸びた瞬間——。
バグンッ!
静寂だった部屋に、突如、なにかの爆発したような音が響いた。
黒猫は驚き、音の元となった場所を探る。
目を向けた先、そこは、アキラの頭だった。
正確に言うと、アキラの顔の右半分から起こっていた。
——そこには何もなかった。
アキラの顔の右側は、三日月のような形を残して綺麗に消失していたのだ。
まるで、最初からその造形だったかのように。
黒猫は、息を詰まらせる。
アキラは身じろぎもせず、ただ静かに立っていた。
バキッ……ゴリッ……。
部屋の中に骨を砕くような咀嚼音が響く。
黒猫がテラを見上げると、その口元からは赤い液体が一筋、流れていた。
人類を導いてきた神と、それと戦い続けてきた龍。
その邂逅は、いつもと同じように血を伴って行われたのだった——。