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そのお茶はノスタルジーで出来ている

 アキラ達は森へ向かい歩き始めた。


 一時間ほど経ち、森の奥にある岩壁の前でアキラは立ち止まる。

 

 岩盤は、ただの岩に見えた。

 何の変哲もない、冷えた灰色の壁。

 そこに、アキラの指先が触れる。


 すると、まるで水面に広がる波紋のように岩の表面は揺らいだ。

 そして、まるで最初から存在してたように、人が入れるほどの入り口が現れた。

 

「これは……?」

 

 その問いに、アキラは微笑む。

 

「結界」


 一言のみの説明で、アキラは迷いなく入り口へ足を踏み入れる。

 

 途端に、冷気が肌を刺した。

 それはまるで、生き物のように周囲を包み込む。

 

 その冷たさと先ほどの不可解な現象に、沙耶は、一瞬だけ立ち止まる。

 けれど、迷いのないアキラの足取りに導かれるように、そのまま後を追った。

 

 一本道だ、迷いようなどない。

 

 アキラは、別荘から持ち出した懐中電灯をかざし、先を照らす。

 その光が映し出す洞窟は、明らかに自然の造形ではなかった。

 

 地面も、壁も、大理石を切り取ったかのように滑らかで、歩くのに不自由がまるでない。

 人工的でありながら、人の気配を感じさせない異質な空間。

 

 二人の足音だけが、その中に響いた。


 寒さに加え、あまりにも同じ景色なせいで、時間の感覚すら掴めなくなっていた。


「もう着くよ」


 感覚の狂いによる焦燥感が現れてきた沙耶に、アキラは告げる。


 そして、その言葉通りに、明かりに照らされた扉が現れた。

 まるで、何もない空間から浮かび上がったかのように。

 

 その扉は、洞窟には異様なほど不釣り合いだった。


 木製の開き戸。

 

 まるで普通の家屋に使われるような、どこにでもある形。

 それなのに、ここでは場違いさが際立っていた。

 

 表面には、細やかな飾り彫りが施され、鍵穴とドアノブが存在している。

 アキラは、扉に近づき、愛し気にその彫刻を指でなぞる。

 

 沙耶は、じっとその扉を見つめた。


「……これって?」

 

 その呟きは、寒さのためか、それともその異様な光景のせいか、かすかに震えていた。


「僕の家」

 

 アキラは、何のためらいもなくそう言った。

 

「ニクス、鍵を出して」

 

 足元に、黒猫が音もなく現れる。

 まるで影そのものが形を持ったかのように。

 

 口に咥えられた鍵が、静かに差し出される。

 驚いている沙耶に構うことなく、アキラは鍵を受け取ると、まっすぐに鍵穴へと差し込んだ。

 

 カチリ。

 

 洞窟の中に、その音が響いた。

 そして、扉が開かれる。

 

 その先には、普通の玄関があった。

 冷えた空気は一変し、温かい空気が流れ出てくる。

 それは、まるで別の世界がこの扉の向こうに広がっているかのようだった。

 

 普通であることが、普通ではない。

 沙耶は、思わず息をのむ。


「上がって」


 微笑みながら促すアキラ。

 

 戸惑いを隠せない沙耶とは対照的に、黒猫は迷うことなく扉の先へと入っていく。

 その姿は、まるで帰るべき場所に戻るかのようだった。


「スリッパ、あったよな——」

 

 玄関のシューズクロークを開け、アキラはゴソゴソと探し始める。

 その動作は、妙に慣れたものだった。

 まるで、本当にここが自分の家であるかのように。

 

 戸惑いを隠せないまま、アキラの自然な動きに押されるように、沙耶は遠慮がちに玄関へと入る。


「あったあった、これ使ってくれる?」


 沙耶は差し出されたスリッパを履く。

 その触感は、驚くほど柔らかかった。

 

「とりあえず、リビングに案内するよ」

 

 廊下の一番手前にある扉の先には、洋風のリビングが広がっていた。

 

 二十畳ほどの空間。

 

 高級そうなソファーが並び、壁には丁寧に調度品が飾られている。

 

 しかし、それだけではない。

 奥にはキッチンが見える、そこには生活が息づいているようだった。

 

 沙耶は、そっと室内へと足を踏み入れる。

 そして、今更ながらに気付く。

 

 室内には、明かりが灯っていた。

 

 寒々しい洞窟の奥にあるはずのこの部屋は、温かく、当たり前のように生活の気配がある。

 

 この場所は、一体なんなのだろうか。

 所在なさげな沙耶を、アキラは気にする様子もない顔でもてなす。

 

「とりあえず、適当に座ってくれるかな?」

 

 沙耶は、その声に戸惑いながらも、小さく頷く。

 

「飲み物、持ってくるよ」

 

 そう言ってキッチンへ向かうアキラ。


 そのままゆっくりと時間が過ぎるが、沙耶は落ち着かない。

 ソファーに身体を預けても、どこか硬く構えてしまって、この場所にまだ馴染めない。

 

 ふと、視線を上げると、対面のソファーには先ほど見た黒猫が寝そべっていた。

 金色(こんじき)の瞳が、じっとこちらを見つめている。

 そういえばこの猫は、なぜここにいるのだろうか。

 

 その疑問が声になるよりも先に、聞こえたのは別の声だった。

 

「——この()、連れてきてよかったの?」

 

 聞いたことのない女性の声が響いた。

 

 沙耶の心臓が()ねる。

 

 反射的に周囲を見渡すが、誰もいない。

 声だけが、確かに聞こえた。


「沙耶さんはいいんだ」

 

 アキラは、キッチンからトレイを持ち、ゆっくり歩いてくる。

 その視線は、黒猫に向いていた。

 

「あっそ、好きにすれば」

 

 黒猫は、つまらなさそうに瞳を細めて言う。

 

 沙耶の呼吸が乱れる。

 

 間違いなく、今日一番の衝撃だった。

 “猫が言葉を話す”——そんなことが、現実に起きた。

 それは、彼女の常識にはなかった。

 

 それでも、目の前でそれは、確実に起きたのだ。

 沙耶は、答えを求めるようにアキラの顔を見る。

 

 ——何も変わらない。

 まるで、それが当然のことかのように。

 

 沙耶の驚愕した顔に気付いたアキラは、二人分のティーカップを置く。

 

 カチャリ。


 テーブルに賑やかな音が響く。

 その音が、状況の異様さを際立たせた。


 そして、アキラは何の躊躇(ちゅうちょ)もなく言う。

 

「ああ、その猫しゃべるんだ」


 その言葉を聞き、沙耶は、瞬きすら忘れる。


「……しゃべる?」


 黒猫を見る。


 金色の瞳が、ただじっとこちらを見返していた。

 まるで、それが当然であるかのように。


 アキラの声は、軽い。


 まるで、オウムがしゃべる程度の調子で、言葉を放った。


 沙耶は、次ぐ言葉を失う。

 明らかに沙耶の現実が、(きし)んでいる音がする。

 

「とりあえず、お茶入れたから飲んでみて?落ち着くよ」


 アキラはそう言いながら、ティーカップをそっと勧める。

 

 沙耶は、カップに視線を落とす。

 透き通るような湯気が、静かに立ち上る。

 

 この状況を、受け入れられるはずがない。

 

 それでも、アキラの言葉に導かれるように、沙耶はカップに口をつけた。

 独特な香りが、ふわりと鼻をくすぐる。

 ゆっくりと、喉へ流し込む。

 

 その瞬間、驚くほど心が落ち着いた。

 まるで、混乱を拭い去るような穏やかさ。

 身体の中に広がる温かさが、思考のざわめきを静めていく。

 

 沙耶は、思わずカップをじっと見つめた。

 このお茶は、一体何なのだろうか?


「僕のオリジナルブレンド『アル茶』って言うんだけど、心と体を回復する効果があるんだ」


 そう言うアキラの声は、何気(なにげ)ない。

 だが、その言葉には、どこか自信が(うかが)えた。

 

 沙耶は、手の中のカップをじっと見つめる。

 

 ほのかに立ち上る香りはどこか懐かしく、それでいて記憶に無い。

 口に含むと、温かさと優しい甘さが喉を滑る。

 

 そして、確かに体が軽くなった。

 

 先ほどまで歩き通しだった体の疲労が、じんわりと溶けていくような感覚。

 意識するほど、それは明確になる。

 

 沙耶は、思わずアキラを見た。

 

「……これは一体何なのですか?」

 

 その問いに、アキラは笑顔を見せる。

 

「長年の努力の結晶かな」


 その言葉には、確かに重みがあった。

 

 言葉の背後に広がる歴史と時間の気配が、じんわりと沙耶に染み込んでいく。


「この家にストックしておいたんだけど、これがあればリハビリも楽だったのになぁ」


 アキラが、自分の分も飲みながらぼやく。

 

 沙耶は、カップを両手で包み込む。

 その温かさだけが、今の自分を現実につなぎ止めているような気がした。

 

 アキラは、沙耶がお茶を飲み終わるのを焦らず待つ。

 しばらくして、沙耶がようやく空になったティーカップを静かに置いた。

 

 落ち着きを取り戻したように見えたその姿を確認し、アキラは口を開いた。

 

「僕がここに来た理由なんだけど、本格的なリハビリのために、一晩ここに泊まりたいんだ」

 

 アキラの言葉は、穏やかだった。

 けれど、その響きの奥には確かな意志がある。

 

 沙耶は、静かに息をつく。

 

 きっと普通のリハビリではないのだろう。

 今日の出来事を振り返るほどに、それは確信に変わっていく。

 

 黒猫は何も言わない。

 ただ、金色の瞳を細めて、アキラの言葉を受け止めていた。

 それはまるで、すべてを知っているかのように——。

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