富士山へ行こう!
リハビリを始めてから二週間が過ぎた頃、一人の来訪者が現れた。
その人物はアキラの父、『一条マコト』だった。
沙耶は、アキラが会話を交わせるようになった直後、マコトへ連絡を入れた。
しかし、彼はすぐに信じることができなかった。
「……回復しただと?……あの状態から?」
彼は疑念を抱きながらも、確認のために足を運んだのだ。
マコトはアキラを、一条家にとってすでにいなくなった者として扱ってきた。
二年間、何度か様子を見に訪れては、錯乱し続ける息子の姿を目にし、その度に諦めを深めていった。
アキラの狂気は、もはや戻ることのないものだと、そう信じてしまっていた。
だが今、五年ぶりに目の前に立つ息子は、その足で床を踏みしめ、まっすぐとこちらを見据えていた。
残っている左の目には、十六歳とは思えないほどの深い知性の輝きがみえた。
その瞳に、マコトがかつて見たことのない“何か”を感じた。
確かに息子であるはずの存在。
だが、果たしてこの少年は本当にあのアキラなのか。
マコトは、何かを言おうとするがその佇まいを見て、言葉を失う。
沈黙が、空気の中に重く広がっていた。
そんな緊張の中、アキラはまるでその重さを感じていないかのように口を開いた。
「お久しぶりです、お父様。長い間、大変ご迷惑をお掛けいたしました」
穏やかで、礼儀正しい声だった。
声質は成長により低くなっていたが、それは健康であった時のアキラの姿、そのものであった。
「……よく……回復したな」
絞り出すように口にしたマコト。
喜びよりも、今は困惑の方が勝っていた。
今までの惨状を知っているからこそ、今のアキラの現状を信じきれない。
この二年間、目の前の息子が狂気に沈む姿を何度も見た。
叫び狂う声、狂ったように頭蓋を抉るような仕草。
それらが頭から離れない。
——本当にこれが回復した姿なのか?
——またいつ錯乱してもおかしくないのではないか?
マコトの疑念が、頭の奥で渦を巻いていた。
「お父様、このような別荘や、沙耶さんのような最高の使用人まで用意して頂き、大変ありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げる。
「御陰様で、なんとか通常の生活を送れるほどに回復できました」
アキラは偽りなく、心から感謝していた。
もともと父は昔から常に忙しく、一条家を第一に行動していた。
その影響もあり、親子として過ごす時間は限られていたが、その関係は決して悪くなかった。
むしろ、その卓越した優秀さのおかげか、父はアキラに絶大な信頼を置いていた。
アキラの教育は、全て母親の遙が一手に引き受け、そこに父が口を挟む余地は無かった。
だが、父はアキラを一条の跡取りとして強く期待していたのだ。
そして今度のことも、何度も転生を続けている『アル』の視点から見れば、彼は決して自分を放棄しないでくれたと思っている。
転生による負荷で眠り続けた三年、魂の痛みにより苦しみ続けた二年、それらを最高の環境で守ってくれていた。
過去の転生時には、昏睡したまま捨てられたことも、発狂により処分されたこともある。
それを思えば、マコトの選択はあまりにも優しいものだった。
だからこそ、アキラの感謝は深い。
「それで……今後お前はどうしたい?」
探るようにマコトは言う。
「リハビリが終わりましたら、普通の生活を送りたいと思っております」
「普通か……わかった、可能な限り手配しよう」
アキラの受け答えを観察し、多少の希望を見出したマコトは、とりあえず様々なことを保留した。
「……なにか要望があったら沙耶に言え」
そう言ってマコトは別荘を後にした。
扉の閉まる音が森の静寂の中に響いた。
アキラは、その音をじっと聞きながら、一人呟く。
「父親か、いいものだね」
そう呟くアキラの瞳は優しげだった。
リハビリ開始から一ヶ月後、アキラは完全に回復していた。
初めは歩くことすら困難だった身体は、今や自由に動かせる。
筋力は戻り、立ち上がるたびに感じた痛みも、いつの間にか消えていた。
アキラは鏡の前に立ち、己の姿を静かに見つめる。
成長期に寝たきりで運動や栄養が足りていなかったせいか、身長は160センチほどだ。
十六歳にしては少し低いだろう。
しかし、一ヶ月前には、まるで幽鬼のようだった細すぎる体は、痩せているではなく引き締まっていると表現できるまでになった。
黒猫がベッドに飛び乗り、じっと彼を見つめる。
「予定通りかしら?」
「ああ、十分だ」
アキラは手を開き、握る。
その動きは、すでに迷いのないものだった。
「これから富士山へ行くぞ」
リハビリは終わった。
当初の目的を果たす時が来たのだ。
朝食を終えたアキラは、ジャージに着替えて部屋を出た。
ここ一週間、彼は別荘の周囲の森林をランニングしていた。
だからこそ、ジャージ姿のアキラを見ても、沙耶は特に疑問を持たなかった。
だが、その後の言葉には、思わず戸惑いが滲んだ。
「沙耶さん、悪いんだけどお金を貸してもらえないかな? 出かけたいんだ」
「……町へ行かれるのですか? それでしたらお車でお送りしますけど」
「そう? じゃあ駅までお願いできるかな」
沙耶の表情が、より困惑を表わす。
アキラは、これまで遠出をする素振りを見せたことがなかった。
「遠出をされるのですか?」
「うん、ちょっと富士山まで行きたいんだ」
あまりにも突拍子のない言葉に、一瞬、耳を疑った。
「富士山……ですか?」
「うん、ここからなら電車に乗れば一時間くらいで行けそうなんだ」
沙耶はアキラの意図を掴めず、慎重に問いかける。
「……えっと、何をされに行かれるのでしょうか」
「どうしても、やらなければいけない事があってね」
その言葉には、詳しく答えるつもりはないという含みがあった。
古くからの知り合いで血縁関係にあるとはいえ、アキラは彼女の主人だ。
たとえ疑問に思っても、深く理由を聞くことは許されない、それが沙耶の立場だった。
「……わかりました。それならば、富士山まで私がお連れいたします」
一瞬、アキラは彼女を見た、そしてすぐにその意図を理解する。
彼女は 、一人で行かせる気などないという意思を持っていた。
たとえアキラの体が元気を取り戻していても、あの瀕死ともいえる状態から、まだひと月しか経っていない。
一人で、しかも山へ向かわせることなど到底できるはずがない。
それが、彼女の中にある強い信念から導かれた答えだった。
アキラは短く息を吐く。
「じゃあ、頼むよ」
沙耶は静かに頷きながら、外出用の着替えに向かった。
別荘を出発して車でニ時間ほど走ると、富士山の麓近くまできた。
ここらへんもずいぶん変わったと、アキラは車内から景色を楽しむ。
アキラへ転生する前に何度も訪れていた場所だが、その変化に時間の流れを感じる。
「アキラ様、山の麓周辺まで来ましたが、目的の場所はどこでしょうか?」
「たしか、五合目まで車で行けるんだよね?そこまで行きたいんだ」
「わかりました、向かいます」
沙耶は、ハンドルを握りながら考える。
アキラの目的が読めないのだ。
それが沙耶の心に不安の種を植え付けていた。
エンジン音が響き、車は緩やかに標高を上がっていく。
少しずつ森の密度が変わり、窓の外に広がる視界が開けていく。
五合目にある駐車場へ着くと、沙耶はその景色に思わず目を奪われる。
雲が視界の下に浮かび、遠くの海まで見渡せる。
「沙耶さん、連れてきてくれてありがとう」
「いえ、それでこれからいかがいたしますか?」
「それなんだけど、結構歩くから先に別荘へ戻っていて欲しいんだ、帰りはなんとかするから」
その言葉に、沙耶の眉が僅かに動く。
薄々感じてはいた、アキラは一人で行動したいのだと。
しかし、病み上がりの身で一人の登山など到底推奨できるものではない。
「それは登山ということでしょうか?」
「んー、正確に言うと降りる」
「……降りる?」
「うん、この下にある森の散策をしたいんだ」
沙耶はアキラのしたいことの意味がますます分からくなった。
森の散策など別荘の周りで事足りるし、わざわざここまでくる必要性を感じない。
「それならば、私もお供します」
「ごめん、一人で行きたいんだ」
アキラは微笑みながらもハッキリとそう言った。
沙耶の視線が、深く彼を見つめる。
そこにあるのは、ただの気まぐれではない彼の強い意志だった。
それを感じ、考えられる最悪の想像をしてしまう。
ここの下は富士の樹海。
富士の樹海といえば自殺の名所だ。
彼は、つい最近まで狂気の中にいて、五年間も世間から隔絶されていたのだ。
自分の置かれている今の立場や状況は、五年前と比べたら天と地ほどの差がある。
目覚めたからこそ、そこには様々な思いが有るであろうことは容易に想像つく。
「ダメです!」
沙耶の声が、空気を切り裂くように響いた。
「それは許可できません!どうしてもというなら私をお連れください!」
その言葉には、ただの願いではなく、強い切実さが滲んでいた。
沙耶は、このニ年間、常軌を逸してしまったアキラの面倒を看てきた。
起きて発狂するか、気を失って昏睡するかだった彼を、一人きりでずっと看病してきたのだ。
仕事や哀れみとしてだけではない、そこにはすでに強い情も入り込んでいた。
それがようやく報われたと思っていた矢先に、自ら死を選ぶなど、到底受け入れられるものではなかった。
沙耶の瞳は涙で揺れながらも、まっすぐアキラを見つめていた。
その瞳には、一人では行かせないという絶対的な意志が宿っていた。
アキラは息をつき、視線を合わせる。
「ちゃんと帰るよ?」
安心させる為に軽く言ったつもりだった。
だが、その言葉は沙耶の決意を揺らがせるものではなかった。
その目はさらに強くアキラを捉える。
「連れて行ってください!」
アキラは内心、こうなるかもしれないと予想はしていた。
だが、ここまで強く訴えられるとは思っていなかった。
彼が考えていた以上に、彼女はアキラを想ってくれていたのだ。
沙耶に引く気はない。
アキラは沈黙する。
どちらが折れるか、その駆け引きが、二人の間に張り詰めたまま続いていた。
そして、結局折れたのはアキラであった。
「じゃあ、一緒に来てくれる?」
息を吐くように、その言葉がこぼれた。
沙耶の瞳が揺れる。
だが、それは安堵の色ではない、最初から彼女の答えは決まっていた。
「もちろんです!」
力強く、そして確かな意志を込めて沙耶は言った。
アキラは微笑む、それは敗北ではない。
“受け入れた”ということだった——。