彼女は、愛と優しさで出来ている
広い草原で、男が枯れ枝を擦り合わせていた。
何時間も続けたその作業の末、枯れ枝に火がつく。
達成感と共に流れた汗を腕で拭うと、目の前に突然、黄金に輝く球体が現れた。
そして意思を告げる。
『フヤシ……ヒロガリ……ススメ』
男は呆然と立ち尽くす。
その姿は、全裸で毛深く猿に近い骨格をした、未だ文明を知らない原始人のオスだった——。
ニクスという名の黒猫を呼び出した次の日の朝、静寂の中でアキラは目を覚ました。
そして、天井を見つめながら呟く。
「あの時、火を起こさなければなぁ」
それは、毎度のお決まりとなっていた、生還の言葉だった。
まともな意識を取り戻してから一晩が過ぎた。
昨夜は、二年ぶりに深い眠りへと付く事が出来たのだ。
アキラは静かに息をつく。
二年、彼はその間、想像を絶する苦しみの中にいた。
覚醒と失神を繰り返し、魂の痛みにより引き起こされる狂気と、甦った百万年分の記憶の狭間で揺れ続けていたのだ。
身体を起こそうとした彼は、自分の足に力が入らないことを理解する。
まともに立つことさえできないだろう。
かつては当然だった動作が、今や彼にとっては挑戦になっている。
それは、長い間、意識を断たれていた者が最初に直面する現実だった。
アキラは、僅かに目を細め、笑う。
「生きてるって感じがするな」
二年間味わい続けた魂の痛みに比べれば、体の痛みや操作の苦労などは、彼にとってもはや幸福に分類された。
それに、過去幾度となく転生を繰り返してきた彼には、慣れ親しんだ行程だった。
「まずは体を回復させるか」
電動リクライニングのスイッチを入れ、手を伸ばして骨と皮になってしまっている自分の足を擦る。
長い寝たきりの時間が、筋肉を衰えさせたのは間違いない。
しかし、完全に失われたわけではない。
ベッドの上で、狂気に蝕まれながら眼窩を抉るという動きは続けてはいた。
その結果、体力は衰えながらも、上半身の力はまだ残っていたのだ。
皮肉なことに、その異常なまでの狂気が、肉体をわずかに維持していたと言える。
とりあえずお腹も空いたので、枕元にあるナースコールのようなボタンを押すと、すぐに使用人の一条沙耶がドアを開けて入ってきた。
「おはようございますアキラ様、どうされましたか?」
「お腹が減っちゃって、何か食べ物あるかな?」
「……お食事の準備は出来ておりますが、すぐに召し上がりますか?」
「ありがとう沙耶さん、頂くよ」
アキラの言葉は、静かで自然だった。
まるで、これまでの悪夢のような日々が存在しなかったかのように。
昨日まで狂気の中にいたアキラが、今はこんなにも普通に話している。
沙耶は、感動し思わず言葉が詰まった。
「……お食事をお持ちしますね」
その声は、ごく自然なものだったと思う。
けれど、沙耶の心の奥では、喜びが波のように広がり続けていた。
アキラの穏やかな声、その自然な仕草。
それらは、あまりにも普通だった。
だからこそ、胸の奥が強く揺れる。
長い間、この瞬間を待ち望んできた。
沙耶は、瞳を潤ませながら、ゆっくりと息を整え支度に戻る。
彼女の名は『一条 沙耶』、一条家の分家の娘だ。
この別荘に住み込みの形で、アキラの面倒を二年もの間、付きっきりで見続けてくれていた人物だ。
年齢は二十四歳、清楚で控えめながらも、あたたかみのある雰囲気を漂わせている。
少し垂れた優しげな瞳をしており、右目の下にあるホクロが特徴的だ。
長い髪をきちんと後ろでまとめた姿や、シンプルで機能的なメイド服は、彼女の几帳面さと誠実さを象徴していた。
二年前、沙耶はアキラの父である一条家当主から直々に、アキラの世話を任された。
すでに他の医療関係に就職していたが、一条家という家柄の分家の娘という立場では、断りようのない命令であった。
しかし、沙耶は二年間もの長い間、どんな孤独や困難があっても諦めず、アキラの為に一人で日々の看護を必死に行った。
寝たきりの彼の健康を管理し、目を覚ますと眼窩を抉り続ける彼のために治療を施したりと、アキラに寄り添い続けたのだ。
その献身は、仕事としての義務感や、口止めも兼ねた破格の給与によるものだけではなかった。
沙耶はアキラを知っていたのだ。
かつての彼を。
本家の集まりで何度か顔を合わせる機会があり、そのたびに自分より年下な彼の聡明さと、その穏やかな人柄に触れていた。
彼は、礼儀正しく大人びており、他者を思いやる優しさを持っていた。
それが沙耶の記憶に残るアキラだった。
アキラの狂気を直接見た彼女の胸に湧いたのは、その異常さへの恐怖ではなく、彼を見捨てることへの躊躇だった。
実の父親に見捨てられ、こんな人里離れた場所へと隔離された。
母親はアキラのことで、心身を病み入院したと聞く。
ここで、自分が彼を見放すことなどできない。
その一念が、沙耶のこの二年間を支え続けてきたものであった。
もともと、名門財閥である一条家の縁故を使えば、一流企業への就職などは難なく叶うはずだった。
それを蹴ってまで医療の道に進んだのは、ただの選択ではなく彼女の信念だ。
沙耶は、生まれつき献身と慈愛に満ちた人間だった。
助けることを選ぶのではない。
助けずにはいられない、それが、彼女の本質だった。
だからこそ、幼いころから付き合いのあるアキラの看護は、単なる仕事ではなかった。
それは、彼女自身の意志であり、人生の在り方だったのだ。
沙耶が見守る中、アキラはベッドの上で流動食のような食事を取り、お礼を言って食器を下げてもらう。
すると、沙耶と入れ違いに彼女の座っていた椅子の上に、いつの間にか昨夜の黒猫がいた。
その黒い毛並みは、まだ夜の影をまとっているように見え、静かにこちらを見つめる金色の瞳は、どこまでも深い。
まるで、アキラの心の奥底を覗き込んでいるように思えた。
胸のあたりに、三日月のような形で白い毛が生えている。
それは夜に浮かぶ、月を模しているかのようだった。
「なあニクス、あれからどうなった?」
『ニクス』と呼ばれた黒猫は、軽く伸びをしたあと淡々と答える。
「どうって聞かれても、特に変わりは無いわよ」
アキラは、少し目を細める。
「変わりがない?」
「そ、アンタが宇宙に飛び立って四十年、平和なもんよ」
それはただの報告だった。
けれど、その言葉には時間の重みが乗っていた。
「子供たちは?」
「大人しくしているわよ」
「そうか」
そして本当に聞かなければいけない事を聞く前に、一度息を整える。
その答えによっては、面倒なことになるのがわかっていた。
「……アイツは?」
「ソーマに浸かっているわ」
「あそこか、生きてはいるんだな」
そう言うと、アキラは白髪交じりの髪をかき上げて、少し考えるそぶりを見せた。
「アル、これからどうするつもりなの?」
『アル』と呼ばれ、そう問われたアキラは、萎びた両足を擦って答える。
「まずはソーマ、これは絶対」
「それから?」
「子供を作る、原点回帰だ」
「……はぁ?」
心底呆れたふうに目を開く。
その声には、もはや呆れを通り越した戸惑いが滲んでいた。
「考えたんだが、結局それしかないと思う」
「……それ、どのくらいの長さの計画なの?」
「たぶん、千年くらいで何とかなると思う」
黒猫は、まじまじとアキラの横顔を見る。
「ずいぶん気の遠い話だこと……」
「なに、大した長さじゃないさ」
アキラは、ゆっくりと息をついた。
そしてわずかに微笑む。
その笑みは、穏やかでいてどこか遠い。
まるで“千年”という言葉が、本当に大した長さではないと思っているようだ。
事実、百万年生きたアキラにとっては、瞬きほどの時間なのだろう。
「何はともあれまずはソーマだ。ニクス、ここから一番近い場所はどこだ?」
そう問われ、金色の瞳を閉じ、何かを探るように沈黙する。
そして、静かに答えた。
「ここからだと、富士の霊峰がけっこう近いわね」
「富士山が近いのか!」
黒猫は、その反応を見つめながら聞く。
「……あそこまでどうやって行くの?」
「行こうと思えば一瞬だけど、今の状態で力を使ったら色々マズイ」
その言葉の最後に、重みがあった。
「そうね、下手するとまた死ぬわよ」
「だよなぁ、それじゃリハビリして歩けるようになったら行こう」
黒猫は、肯定するように椅子の上で尻尾を揺らす。
「それがいいわ、一ヶ月くらいはなんとか凌げるでしょ?」
「ああ、昨日ニクスが持ってきてくれた薬があるからな」
そう言うと、ベッド脇にある引き出しから、小さなビンを大事そうに取り出した。
「感謝しなさいよ?」
そう言うと、椅子からアキラのベッドに飛び乗りその身を寄せる。
「いつもしてるさ」
アキラはその背を優しく撫でた。
「じゃ、リハビリ頑張ってね」
「ありがとう、ニクス」
そして黒猫は現れた時と同じように、音も無く影に消える。
「本当にありがとな……」
アキラは小さく呟きながら、先ほど取り出したビンを取り出す。
その中には、淡い輝きを帯びた細やかな粉が収められていた。
痛みが再発し始めていたので、それを指先でそっとつまんで口に運ぶ。
舌に微かに温かさが広がると同時にじわりと身体が緩み、絶え間なく続くあの絶望的な痛みが治まっていくのを感じる。
これが魂をも癒す霊薬。
特殊な材料を使い、秘伝の錬成術によって作られた、極めて貴重な調合物。
一時的とはいえ、崩れかけた魂の器を支え、彼の意識を繋ぎ止めるものだった。
「……染み渡るな」
深く息を吐きながら、その苦しみから解放されていく実感をかみしめる。
眉間に皺を寄せ、幸福感で泣きそうになりながら、静かに微笑む。
こうしてアキラはリハビリを開始することとなった——。