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こぼれたモノ、それは愛

朝、雪乃は自室の布団で目を覚ました。


 そして瞬時に飛び起きる。

 昨日の出来事が、脳裏に焼き付いていたからだ。


 昨夜の制服姿のまま、屋敷の客間に駆け込む。

 そこには昨日の残滓は一切残っていなかった。


 割れた座卓も、恐ろしい母も、愛しい恋人も。


 雪乃は屋敷の女中に聞きまわる。

 一体、彼は母にどこへ連れていかれたのかと。


 唯一反応を示したのは、お抱えの女性運転手だった。

 だが、その行き先を口にしない。


 おそらく母に固く口止めされているのだろう。

 いや、紫星の者なら、口止めなどされずとも、母の意向を察して守る。


 雪乃は、その手に光るものを握って運転手に付きつける。

 それは、先ほど屋敷の厨房に行った時、無断で盗ってきた出刃包丁。


 鞘から抜いたそれを向けて、運転手を脅す。


「言わなければ、刺す」

 

 紫星の女を知る運転手は、本気の恐怖を覚え、震える声で行き先を告げた。


 雪乃は包丁を鞘にしまって腰に差し、そのまま駆け出した。


 嫌な予感だけが膨らんでいた。

 あれから一晩経っている。

 アキラが無事な保証など、どこにも無い。


 雪乃は自分がスマホなどの連絡ツールを持たなかった事を後悔する。

 友人のいない自分には必要の無い物だと思っていたのだ。

 それさえあれば、アキラが無事かどうかだけでも確認できたのに。


 三十分ほど掛けて、先ほど運転手に聞いた、母が所有しているというマンションへたどり着いた。


 荒くなった息を整え、エントランスに入り、母の部屋と思われる最上階の番号を入力する。

 

 呼び出し音が鳴り、モニターに自分が映った。

 昨日から、風呂にも入らず全力でここまで駆けてきたその姿は、かなり酷いものだった。


 だが、今はそれに構っている余裕は無い。

 

『あら、雪乃』


 そんな拍子抜けするような返答が、パネルのスピーカーから聞こえてきた。


『どうぞいらっしゃい』


 奥に続く自動ドアが開く。

 エレベーターの前で、もう一度、備え付けのインターホンを鳴らす。


『15階よ』

 

 エレベーターが開いた。

 15階のボタンを押し、それが昇る慣性を体に感じる中、胸騒ぎが収まらない。


 ——何かがおかしい。


 それが何かはハッキリしない。


 母と対立したとしてもアキラを助け出す。

 その覚悟と武器を持ってここまでやってきた。


 アキラの為ならば、脅してでも母から彼を救う。

 そのつもりだった。


 エレベーターを降りると、一つしかないドアの前で、もう一度インターホンを鳴らす。


 すると、ドアのロックが解除された。

 雪乃は深く息を吸うと、そのドアを力強く開ける。


「失礼します」

 

 そう告げて、玄関に入ると廊下の先にあるリビングから声が聞こえた。

 

「こっちよー」


 その声の明るさに、雪乃は部屋を間違えたのかとすら思った。


 母はあんな声を出さない。

 違和感と共に、胸騒ぎが増す。


 だが、玄関にはアキラの靴が置いてあった。

 少なくとも彼は間違いなくここにいる。


 (はや)る気持ちで、靴を脱ぐのももどかしく、リビングを目指す。


 ドアを開くと、確かにアキラはいた。


 半日ぶりとなる彼の無事な姿に、目頭が熱くなる。

 あの時、自分を抱きしめ、自分の為に母へ立ち向かってくれた姿が思い出され、喉の奥が締まった。


「アキラ!大丈夫か!」


 抱き着かんばかりに駆け寄ると、彼はソファーでゆったりとしながら手を上げた。


「おはよう、雪乃」


 その笑顔は、昨日と変わらない優しさを含んだものだった。


「……無事でよかった、会いたかったぞ」


 自分に向け上げられた、その手を両手で握り、その生存を喜ぶ。

 その手は、昨日と同じ(あたた)かさと安心を雪乃に与えてくれた。


 深く息を付き、泣き出しそうな安心感に浸っていると、母が珈琲をトレイに乗せてこちらにやってきた。


 雪乃はその存在を思い出し、アキラを守るように母の前に立ちはだかる。


「雪乃も飲む?」


 そう言って、母は自分に微笑みかけながら、アキラの前に珈琲を置く。


 ——誰だ?


 率直な感想だった。


 その薄い部屋着も、下ろした長い髪も、柔らかい雰囲気も、優し気な微笑みも。

 全てが別人のようだった。


「母様……?」


 違うと言われた方が安心できるくらいの変貌だった。


「やっぱりおいしいね、淹れ方教えてよ」


 アキラはその変化を全く気にせず、まるで友達へ話しかけるように自然な会話を口にした。


「飲みたかったら、いつでも私が淹れてあげるから」


 とても嬉しそうに言う、母らしき人物。

 その笑顔は、昨日の怒りの面影すら残していない。

 

 自分は未だに夢の中にいるのだろうか?

 いったいどこからが夢なのだろうか?


 あまりにも現実離れしたその光景に、雪乃の足元が揺れた。


「もうこんな時間か、制服の事もあるし、とりあえず家に帰らなきゃ」


 そう言って、珈琲を飲み干し、立ち上がるアキラ。


「車を手配しますよ?」

「大丈夫、歩いて帰るよ」


 そのやり取りは、雪乃の目に友達というより違う何かに見え始めた。


「じゃあ雪乃、また学校でね」


 そう言って、玄関に向かう。

 その後を、それが当たり前のように追う母の姿。

 雪乃は、そのさらに後を追いかけるしかなかった。

 

「それ、絶対に外さないようにね」


 アキラは、靴を履きながら、綾乃の左手を見て忠告する。


「たとえ死んでも外さないわ」


 そう言うと、左手を胸に抱えて、愛おしそうに右手で撫でる。


 「じゃあ、またね」


 そう言って部屋を出ていくアキラを二人は見送った。


 ()()()


 それは、誰に向けられた言葉だったのだろうか?

 雪乃の心が、有り得ないはずの想像に軋みだす。


 綾乃は軽く小さな溜息を吐き、部屋へと引き返す。

 その表情は、切なげなものだった。


 聞きたいことがありすぎた。

 どこから切り出せばいいのかわからないほどに。


 

 リビングに戻ると、母らしき人が雪乃に声掛けた。

 

「話がある、長い話だ」


 急に、自分のよく知る綾乃の声が響く。


 やはりこの人は母だった。

 普段なら、緊張で背筋が伸びるその声を聴き、今はなぜか安心を覚える。


 それと同時に、更なる疑心が湧く。

 ならば、あの別人のような母は一体なんなのだろうか?


「まあ座れ」


 促されるまま、先ほどアキラが座っていたソファーに座る。


 母は何も言わずに、二人分の珈琲をテーブルに置いた。

 そして、対面に座り、いつもの厳しい表情を見せる。


 ——やはり、この人は母だ。


 だが、何かが変わっている。

 それは、声でも表情でもなく、もっと深いところで。

 

「雪乃に、伝えたいことがある」


 そう言って、母は語り始めた。

 それは確かに長い話だった。


 紫星の呪い、鬼の存在、継承の儀、呪術について。


 それらは雪乃の知らない事ばかりだった。

 だが、自身の身に起きていた事の不条理の意味が、少しずつ理解できた。


 続いて、母は、己の人生を雪乃に聞かせた。


 幼少の頃より祖母から行われた虐待まがいの躾のこと。


 初潮が来てからの地獄のような日々。


 雪乃が産まれてから、母が抱いていた想い。


 ——壮絶だった。

 それは、自分の閉じた世界など比べようも無いほどに。


 そして、最後に母は告げた。


「雪乃、お前を愛している」


 その深さを知った時、雪乃は涙が止まらなかった。


 間違いなく、自分は母に愛されていた。

 ずっと母に守られ続けていたのだ。

 

 その事実を受け止め、心の震えが止まらない。


 しゃくりあげるように泣く雪乃を、母は抱きしめた。

 それはいつもと同じようで、いつもより、確かに愛情を感じられる行為だった。


 

 雪乃が泣き止むまで、母は黙って抱きしめていてくれた。


 そして落ち着いたのを見計らい、母は冷めた珈琲を入れ直すためにキッチンへ向かう。


 雪乃は泣き疲れた頭で考えていた。

 

 アキラが自分の前に現れてから、自分の世界が急に開かれた事を。

 これはきっと、全てアキラのおかげなのだと。


 そして気付く。


 まだ、アキラとどんな話し合いをしたかを説明されていないことに。


 その瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さる。


 アキラに対する母の優しい態度は、何によって生まれたものだったのか?

 先程から母の左手の薬指に見える、その白い指輪はなんなのか?

 そして、アキラがそれを『絶対に外すな』と母に言った理由は?


 雪乃は、部屋に漂う珈琲の香りの中で、静かに疑問を抱き始める。

 

 やがて、母が戻ってきて、珈琲を注いでくれた。


 そういえば、母にこのようなことをしてもらうのも初めてだ。

 そう思いながら、カップに口をつける。


 確かにおいしい。


 それを見る母の目は、優しさを含んだものだった。


「それで、ここからが本題なんだが」


 母が、顔を引き締め語り出す。


「雪乃の呪いはすでに解かれている」


 驚きと共に気付く。

 確かに、いつも感じていた、鬼の気配をまったく感じない。

 朝起きてから、あまりにも必死すぎて気付かなかったのだ。


「そして、私の呪いも、紫星に掛かっている呪いも全て解けている」


 先程の母の話を聞いた後だと、とても信じられない話だった。

 

 聞く限り、紫星の呪いの根深さは、百年をゆうに超えるほどのものだ。

 それがいきなり跡形も無くなるなど、奇跡でも起きない限りありえないだろう。

 

「それを成したのはアキラだ」


 信じた。

 信じられた。


 彼ならば、そのような奇跡すら起こしてくれるだろう。


 雪乃は、また彼に救われていたのだ。

 アキラに対する深い感謝と共に、彼への愛情が(あふ)れだすのを感じ、瞳が潤む。


 雪乃は理解した。

 母のアキラに対する態度の変化の理由を。


 それならば合点がいった。

 きっと、母も彼に深く感謝したのだろう。

 

 雪乃は胸を撫でおろした。

 

 これで彼との交際に、何ひとつ障害が無くなったのだ。

 今すぐにでも、もう一度アキラに会いたい。

 そしてまた抱きしめて欲しい。

 

 いっそのこと、もう、子供を作ってしまおうか?


 そんな幸せな未来を想像して、顔が綻ぶのを止められない雪乃に、母は続けて言った。


「それに伴い、紫星の企業を全て一条へ譲渡することにした」


 驚きはしたが、母の言い分もわかる。

 きっと、アキラに恩返しがしたいのだろう。

 憎むべき紫星を手放したかった思いもあるのかもしれない。


 そして、もし自分が紫星を継がなくても良いなら、その分アキラとの時間を作ることが出来る。

 

 それに気付き、心が浮足立つ。


 紫星を継ぐための勉強をしなくていいなら、これからはその時間を自分の為に使えるのだ。

 雪乃の前には、光り輝く未来しか見えなかった。


 そんな浮かれた雪乃に、不幸が告げられる。


「そして……私は産休に入る」


 さんきゅう。


 あまりにも耳慣れない、場違いな言葉に脳がまったく理解しなかった。


 サンキュー?


 文脈がおかしい。


 39?


 意味が繋がらない。


 雪乃が必死に頭の辞書を開いていると、もっとも母に不釣り合いな言葉と出会う。


 『産休』


 子供を産むために、仕事を休む事。


 ——心が一瞬で冷えた。

 

 そして足が震え出す。


 歯がかみ合わず、ガチガチと音を立てている。

 吐き気を覚えるほどの、最悪な想像が頭を埋め始める。

 このマンションに着いてから、ずっと付き纏っていた違和感の答えを言われた気がした。

 

 ふと、母の顔を見ると、その額にはひどく汗が滲んでいた。

 

 それを見て、決して聞き間違いでは無いのだと悲嘆に暮れる。

 悪い予感はすでに、絶望の予兆へと変わっていた。


 聞かなくてはならない。

 でも、聞いてしまったらもう引き返せない。


 ほんの数秒前まで光で満ちていた世界に、あっという間に暗雲が立ち込めていくのを感じた。


「誰の……?」


 二の句が継げない。

 絶対に聞かなければいけない答えだったが、絶対聞きたくない答えでもあったからだ。


「彼の……」

 

 おそらく母も、よほどの覚悟で言っているのだろう。

 口は開いているが、声が(かす)れまともに言えていない。

 

 それでも、顔を真っ赤に染め上げ、振り絞るように告げる。


「……アキラの……子供を……産もうと思う」


 その、引き返せない言葉を告げた。


 眉を寄せて、恥ずかしさと申し訳なさが同居したような、まるで別人の母の顔を見て、ボンヤリと『可愛らしいな』と思った。


 そして、一瞬遅れで来る激情。


「……何を言ったのか、分かっているのか!?」


 母に私が怒鳴りつける、そんな事が起こるなどあり得ない事だった。

 だが、止まらない。


「アキラは私の恋人だ!愛する人だ!私が彼の子供を産むのだ!!」


 それが当然の事だと、叩きつけるように言う。

 許される事ではない、娘の恋人を奪うと言っているのだ。

 それが、心だけではなく、魂から愛した相手ならなおさらだった。

 

「助けてもらったんだ……」


 雪乃の激しさを、当然だろうと受け止めて、綾乃はぽつりと言う。


「そんなの私だって同じだ!」


 理由にならない。

 私が恩を返せば済む話だ。


「初めてだったんだ、私の全てを受け入れてくれる人なんて」


 そう、悲痛に訴える母の顔を見ても、怒りしか湧かなかった。


「だから!それは私も同じだと言っている!!」


 そして綾乃は、眉を寄せて静かに涙を流す。


「愛してしまったんだ……雪乃、お前と同じくらいに」


 その告白で、親子の溝が決定的になってしまった。

 

 雪乃は震える唇で聞いた。


「……アキラは、なんて?」


 最後の一線だった。

 

 母の横恋慕であれば、ギリギリの所で許せるかもしれない。

 先程の話を聞いたせいで、母を許したい気持ちが残っていた。

 なにより、彼の魅力は十二分に理解していたからだ。


「二人とも大切にすると……彼は子供がたくさん欲しいのだと」


 越えた。


 いとも容易(たやす)く、その線を越えてきた。

 

「ふざけるな!そんなこと、彼が言うわけないだろう!」


 私の愛した、魂で繋がっている彼を侮辱するような言葉。


「……もういい、本人に直接聞いてくる」


 そう言って立ち上がり、玄関へ向かおうとする雪乃。

 綾乃は、それを止めようと慌てて立ち上がる。


「待ちなさい雪乃!あっ……」


 突然上がった母の嬌声(きょうせい)に、思わず振り向く。


 すると、赤い顔をして、スウェットの股の部分を抑える綾乃がいた。


「彼のが(こぼ)れて……」


 失言だった。


 経験したことのない現象に、つい出てしまった言葉だった。

 綾乃は思わず口に手を当てる。


 ——彼の『ナニ』が零れた?

 雪乃の中の鬼が目覚める。


 雪乃は、腰に差していた出刃包丁の重みを思い出した。


 このままここにいると、母をきっと刺してしまうだろう。


 そんな思いを振り切るように、雪乃は部屋を出ていった——。

 挿絵(By みてみん)

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