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本を買う男

作者: tenma

大気が水を含んだ夏への序章、人はそれを梅雨と呼ぶ。私も梅雨と呼ばせてもらい、この話を紡ぐとしよう。


 身にまとわりつくような梅雨の時期、とある本屋へと足を伸ばした。どこをどう歩いたのかは定かではない。

ただこの季節特有の気だるさと焦燥感が私の足を赴くまま、道と言う道を好きなように彷徨わせた。

一見普通な舗道を歩き、ねずみ色の空と同然の石壁を見ながら歩く。

時折こちら側を覗き込むように、窓ガラスが閉じたり開いたりと突然で規則正しい動きをする。

パラパラと空から雨水が零れ落ち、天井を眺めては鈍雲の髭がなびくのを見て、雨音が強くなる事に気付く。手には何も無し。


 雨が降るのを予想せず、着の身着のまま外に出た事が悔やまれて舌打ちをした。チッと口から洩れる言葉は火花のように散る水音と交じって、アスファルトに砕けると千切れては消えた。足音もついでとばかりカツカツ鳴る。

頭上から降り注ぐ雨と周囲の喧騒が激しくなり、顔を辺りにめぐらせては人が忙しそうに走るのをみた。

彼らと同様に自分の行動を合わせる。


 ふと自分の足が自分の足でない幻覚に囚われて、ある商店街の本屋に飛び込んだ。自動ドアが開かれて再び閉じる。大きく開かれた建物の口に飛び込む弱者のように。


 じっとりと汗ばんだ身体を冷たくする冷房には、背筋を粟とさせるものがある。この本屋はコンビニと同じつくりの癖をして不潔感を無遠慮に漂わせる。

古書店と呼べる場所ではないのに、古書独特の枯れた蟲の匂いを漂わせている。大して広い店ではないようで、本棚の間を挟むようにして奥が覗き込める。カウンター越しでぷかぷかと煙を立てている中年が白いエプロンをつけていた。

どちらかと言えば、店主は本屋の主と言うよりも魚屋の主を連想させた。頭のはげかかった顔にエラのある顎、太めの鼻頭は痘痕の跡でいっぱい。座っていても、その肥満の身体は分かる。また分厚い唇を合わせるようにして、口をもぐもぐさせては煙草を銜えて放しては銜える。

本棚と本棚の通路を歩きながら濡れた手をズボンで拭き、本を手にとってじっと見る。


金はある。値段を見ては、金はあると呟く。どれだけ金があるかはとんと分からない。

だが、それでも金はある。ズボンの後ろ左ポケットにある財布には千円の本を十冊買える程度には。いや、まだ金がある。家には金がもっとある。だから、問題は無いはずだ。

手に取った本を戻しては別の本を手に取り、考えた。どうにもこうにも欲しい本が多すぎる。こうやって、原価の本を買うことは無いけれど、どうしようもない物欲が自分の心を占めていくのがわかる。買ったら読まなければならない、しかしながら買っても読む気にはならない。買うとなると、自分のものとなった満足感から手に取らなくなってしまう事が多い。それじゃあ駄目だ。買わずに持ち出せば盗難ということになり、ちょっとばかし面倒な事になる。それも困る。本の値段と本棚の位置を代えながら、しばらく突っ立っておく。

本を買うとなると、次の本が買いたくなる。本棚を買うことも同じ事。きっと次の本棚が欲しくなる。この店を買ったらどうなるか。

やはり、次の本屋が欲しくなる。どれだけ考えても、どこかで区切りをつけねばなるまい。


――仕方がない。交渉するしかないか。


独り得心し、さっき見たカウンターへと足を運び、先ほどの店主に向かって訊ねた。

「幾らだ?」

呆けた顔の中年は、唇に銜えた煙草を傍にあったブタの灰皿にこすり付けて消した。

奇妙な事に片手をこちらに突き出してくる。

「はいはい、なんでしょうか?」

その手に自分の手を添えていった。

「幾らだ」

男は眉を中央に寄せて、こちらを見上げるようにして言う。不審な眼差しというものだ。

奇妙な事だ。自分の手を添えたまま黙っていた。

「・・・・・・お客さんの手がいくらかを知りたいので?」

これはまた奇妙な事だ。本屋まで寄って自分の値段を知りたがる客はいない。可笑しな男だ。


「まさかっ、ここの店主の値段を聞いているのだよっ」

この可笑しな男に分かってもらうように、語尾を強めて諭した。

「わたしの値段ですかぁ!? 困りますよ、お客さん!」

分かっていた。誰でも最初はそういう。


困りますよ、お客さん。


分かっている。


売るには難しい商品だ。私だって、こんな買い方をするのに最初は抵抗があった。それでも毎回買うたびに良くなっていく。それをこの可笑しな男に説明するには時間が要る。酷く要る。こんな男の為に時間を割くのはもったいない。私は早く本を買いたい。読まなければならない。だからこそ、時間が必要だ。極めて冷静に言い放つ。

「幾らだ」

「わたしは商品じゃありませんって」

「幾らだ」

「ちょっと――」

「幾らだ」

「・・・・・・あのですね」

「幾らだ」

「本気ですか――」

とうとう折れた。商売の交渉は迅速に一貫して行わなければならない。

視界の横ではブタの灰皿から煙が天井を昇り外と同じような色合いを見せてきた。窓ガラスを打ち付ける雨音はここから聞こえないけれど、たびたび雨音に交じって自動ドアの開閉音が店の中を走る。

「本気だ」とこたえたと同時に外からの雷光が店内を瞬かせる。

店主は肩をすくめて見せて、レジの前にある計算機を取り出した。慣れた手つきで、ボタンを押している男を後ろに店内を改めて見回した。本棚には未だ目にした事のない知識が詰まっている。それを思うと感動で涙が出てきそうだ。口元の端をゆがめて見せて、ふうっ・・・・・・と吐息を吐く。生温かい息が自分の首筋にかかる。

「分かりました、値段の方はこちらでよろしいでしょうか?」

声を掛けられて、顔だけを後ろへ向けた。

計算機のパネルに映し出された値段を見て、ちょっとばかし高すぎると思った。だが、商売と言うものはそういうものだ。相手の予想する値段の上をちょっと提示して、都合のいい値段へと引き下げる。いや、値段を下げたわけじゃない。本来の値段よりも少し上に提示したのだろう。この店主も同じ事。

「安いな」と呟いた。

「まさかっ」と店主は顔をゆがめて見せて、自らが提示した値段と私の顔を交互に見返す。

「・・・・・・まさか・・・・・・、じゃあ、これはどうでしょう?」

再び値段を提示したとき、ゼロが前より数個増えていた。これは流石に高すぎる。値段に一寸ばかり気圧されて沈黙した。足元を見られては駄目だと胸中で呟いても動悸が止まらない。

「これは、流石に高いんじゃないか」と非難めいた言葉を投げかけてやった。

「いえいえ、これが相場なんですよ」と男は頭を横に振る。

「すみませんねぇ」とさも残念そうに口元を緩めながら笑う。

 沈黙が冷たい温度となって場所を包み込んだようだ。少しばかり寒い。くしゃみを数回やってしまう。

本を全て買うには高すぎる、本屋を買うのも高すぎる、店主を買うにも高すぎる。世の中は高すぎるものがおおい。それじゃあ、私は何を買えばいいのだろう? 突然雷が店内を数回連続して瞬かせる。

逃げ出したい気分を抑えながら、グッと息を呑む。それから踵を返すと、店から出た。


雨はもう止んでいた。


こんな気持ちになる方は、どうぞ。

感想を宜しくお願いします。

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